浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

短編集(1990~2000)Ⅰ

2013-01-14 21:23:22 | 日記
 「フリオ・イグレシアス」からは、「笑劇」のようなもの。なんだこれ!という、不条理めいた話、「タイム・マシーン」、「コロッケ」、「トランプ」、「新聞」、「ドーナツ化」。最後の「ドーナツ化」は、少し意味を持たせようとしているのかもしれない。次の「アンチテーゼ」。こういう言葉自体、一定の年齢の人しかわからないのでは。「うなぎ」は、わけがわからない。「??」だ。

 この後の小品は、紹介する価値がないようなものが多い。「ビール」は面白い。これはおそらく実話。

 ずっと読んでいくが、これはというものはない。「使いみちのない風景」は、エッセイ。「風景」についてだ。旅をしたり、あるいは日々の生活をしていくなかで、記憶にある風景というものがある。そういう風景について、村上は書いている。含蓄のあることも書かれている。記憶にある風景も、すでに過ぎ去ったもの、だから「素晴らしい」。

 次の「ふわふわ」は、幼い頃の飼い猫の話。いい話だ。これを読みながら、ボクは飼っていた犬のことを思い出した。ボクは何度か犬を飼ったが、なかでももっとも覚えているのがボンという名のスピッツだ。もうスピッツという種類の犬は見かけないが、ボクが子どもの頃は、あちこちで飼われていた。ボクは病気にかかったボンの断末魔に遭遇した。それからはもう飼うのはやめようと思った(その後もくま五郎という名の犬を飼ったが・・)。死を見つめるのは、とてもつらいものだ。そのとき、身近な存在の死に耐えられないのなら、存在を身近なものにしなければいいのだと思った。小学生の頃だ。

 「青が消える」は、フィクションだ。だがそこには、村上が青が好きであることを宣言している。彼の作品には青が多い。やっぱり。ボクは村上のことについて、一つ知ることが出来たと思った。

 この後に村上自身の「解題」がある。これは読むのはやめようと思う。

 短編集Ⅰは、これで読了。調べたら、1979~1989の間に書かれた短編集もあるようだ。それも読もうと思う。

 ボクは別に村上春樹の作品を好きで読んでいるのではない。なぜそんなに好きな人がいるのかを考えるために読んでいる。しかしまあ、よく続く。ということは魅力があるのかも。
 
 ボクに読まれることを待っている本群が、並んでいるのに。



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図書館に行く

2013-01-14 17:11:09 | 日記

 16時頃、雨が止んだ。静かな雨だった(東京では雪が降り、また風も強いようだ)。ボクは、古市の本を読み終えた後、『村上春樹全作品』短編集Ⅰを読み始めた。

  最初の短編は、「TVピープル」。これは「?????」。全く意味不明。完全にお手上げだ。次が「飛行機」。これは7歳年上の女性とのセックスの関係。しかしこの関係には、意味は付与されていないようだ。ただ不可解にもこの主人公は「ひとりごと」を言う、それもまったく自覚しないままに。

 そして「我らの時代のフォークロア」。主人公が高校生の時、同級生の男女関係を描いたものだ。ある意味で一定の普遍性をもった、この頃の男女関係の姿が、懐旧的に描かれている。この頃の男女関係は、確かに深くつながることはなかった。

 次に「加納クレタ」。これはイマジネーションの世界の話だ。想念の世界の話といってもよい。なかなか最後は恐ろしい結末だった。しかしきわめて短い、まさに短編である。

 そして「ゾンビ」。現実と夢の世界が交差して主人公の女性に襲いかかるというもの。

 次に「ホルン」。ブラームスのピアノ協奏曲第二番を聴きながら、書かれた超短編。この協奏曲、ホルンで始まる。だからホルンの位置はきわめて重要なのだ。そのホルンを鳴らす奏者とホルンとの一体感を、村上は感じたのだろう。

 次が「鉛筆削り」。一般的にもう鉛筆は使われなくなっているから、鉛筆削りは知らないという人もいる時代だと思う。これも超短編。上手い具合に鉛筆削りマニアと会った村上の体験か。

 ここまで読んで、雨が上がっていることに気付き、図書館へ。『村上春樹全作品』2(羊をめぐる冒険)、『村上春樹全作品』3(短編集Ⅱ)、『意味がなければスイングはない』、そして『叛逆の精神 大杉栄評論集』。最後の本は、購入すべきかどうかを判断するために借りたものだ。
 
 借りてきて発見したことがある。『・・全作品』であっても、そこに年代が記されていて、短編集は「1990~2000」、小説は「1979~1989」だということだ。浜松市立図書館のHPを検索して調べているのだが、検索結果にはその年代がでてこない。ということは、短編集は時期がずれるということになる。

 雨上がりの図書館を後にする。ボクの背を、沈みゆく太陽のだいだい色の光が追ってくる。東海道線の脇を走る。何両もの貨物を運ぶ電車が、音を立てて追い抜いていく。時の速さが、ボクを抜き去っていく。

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【本】古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)

2013-01-14 11:13:13 | 日記
 この本、出版は2011年9月。ボクが買った本は10刷。昨年3月に発売されたものだ。珍しく売れている本だ。最近は本が売れないと各所で論じられているが、時にはこの本のように売れるものもあるということだ。

 この本は、とにかく面白いし、読んでいていろいろ教えられる。著者はまだ20代だ。さわやかな文体に、ところどころに潜ませたあまり攻撃的ではない毒舌、そして幅広い読書というか、インターネットを含めた資料集めの妙。ボクは時に笑いながら読んだ。

 ボクはこの著者の『希望難民ご一行様』(光文社新書)も読んでいる。それに比べると、まあこの本は、学術書ともいえる。

 ボクは社会学という学問は、民俗学と同様に、その方法論において学問的厳密性がないので、胡散臭さを覚えることもあるが、学術書というレベルではなく、まあ社会評論的な本だと思えば、素直な気持ちになれる。そして素直に、この本はおもしろい。

 この本の結論は、書名の通りだ。未来を見通すと絶望的になるような日本において、若者たちは幸せに生きている、というものだ。

 この本を読んでいて、想い出したことがあった。以前ボクは某所で講演をした。そこに参加していた「若者」が、講演後の質疑応答の中でボクが若者に関わる労働問題に言及したあと(その時の講演のテーマは「国境問題」だった)、こう言ったのだ。「確かにボクらの収入は少ない。でもその収入で、それなりに買い物も出来ている。服なんかはユニクロやg.u.もあるし・・高価なものは買えないけど、そこそこ生きていけていますよ・・」。

 「もはや今の若者は素朴に「今日よりも明日がよくなる」とは信じることができない。自分たちの目の前に広がるのは、ただの「終わりなき日常」だ。だからこそ、「今は幸せだ」と言うことができる。つまり、人は将来に「希望」をなくした時、「幸せ」になることができるのだ」(104頁)

 だからひどい社会になればなるほど、「幸せ」を感じる人は増えていく。中国でも、農村から都市に出て、低い賃金、社会的な保障がまったくないままに貧しい生活をしている「農民工」の生活満足度は85・6%だという(255頁)。

 古市の主張は理解できる。日本社会が抱える問題点は、きちんと指摘されている。でも、それが解決に向けてまったく動かない。動こうともしない。民主党政権が少しはやるかと思ったら、やらなかった。これではしらけるよ。

 そして今度は安倍政権。早速安倍政権は教育再生会議のメンバーをきめたが、そこには古市が本書で揶揄する保守系の「文化人」がはいる。「口裂け女」ならぬ、「口だけ女」らだ。無責任な放言を繰り返す「文化人」と仲良くしている安倍が総理大臣なのだから仕方がない。

 「過去の政策を批判しても日本の現状が変わるわけではない。・・・日本の未来が絶望的なことに変わりはない」(241~2頁)。しかしその「絶望的」は依然として続く、おそらく日本の社会では未来永劫・・。

 だとすると、「「大きな世界」ではなくて日常という「小さな世界」の幸せを大切に」という気持ちは、当たり前だ。

 ボクは、この本に線を引いたり、マーカーしたりした。とっておくべき本の仲間入りだ。読んだ方がよいと皆さんにすすめたい。
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雨・体罰

2013-01-14 08:37:39 | 日記
 朝から雨が降っている。久しぶりだ。こういう日にも、村上は走るのだろうか、と思う。今日、自転車ではなく、車に乗った。ボクの車は昨年10月に購入した新車だ。カーナビも新しい。エンジンをかけると、挨拶ととともに「今日は○○の日です」と教えてくれる。

 毎日が「○○の日」だ。今日1月14日は「タロー・ジローの日」だそうだ。南極観測の際の犬にまつわる記念日なんだろう。子どもの頃、本で読んだことがある。

 さて、雨が降ると洗濯もできないから、ゆっくりと新聞を読む。

 「中日春秋」は、大阪の高校で起きた体罰の事件についてである。

 「安全第一」という言葉を考え出したのは、わが国の教育者である-と書いたのは、大正時代に活躍した文筆家の薄田泣菫(すすきだきゅうきん)だ。彼の随筆を集めた『茶話』に、大阪の学校で起きた事件についての一文が収められている

▼ある生徒が、校内で懐中時計を盗まれた。校長は生徒を呼び出し、二度と時計を盗まれないための良い方法があると告げる。「方法って、どうするのです」と尋ねる生徒に、校長曰(いわ)く。「時計を持たないのさ。つまり時計なぞ持つから盗まれるような事になるんじゃないか」

▼泣菫は、皮肉たっぷりに書いている。<流石(さすが)は教育者で、言ふ事がちやんと理に合つてゐる。そしても一つ合理的に言つたら、時計は持つてゐても、学校へ来さへしなかつたら、盗まれる心配は無い事になる。時計と生徒にとつて、学校は実際危険な所さ>

▼体罰を受けた生徒が自殺した大阪市立桜宮高校も市教育委員会も、「安全第一」だったのだろう。この場合の「安全」とは、大人たちの体面のそれであって、生徒の身と心の安全ではない

▼体罰を加えた教員は四年前に生徒を平手打ちしてけがをさせたが、厳しい処分は受けなかった。部活での体罰を告発する通報が寄せられても、学校は部員に確かめもしなかったという

▼事なかれ主義という宿痾(しゅくあ)に向き合わない限り、学校は「生徒にとって危険な所」であり続けるだろう。


 しかしボクは思うのだ。「事なかれ主義」に向き合うことも必要だが、それよりも学校における部活動を問うべきである。

 学校の部活動の中には、異状というべきものがある。高校では、夜の11時頃までやる部活動もあるのだ。そうなると帰宅が「午前様」となる子どももでてくる。練習、練習・・・・である。顧問も子どもも、長時間練習すれば上手くなれると思っているようだ。はたしてそうなのか。この点について、もっと研究すべきだ。部活動の中で、体を駄目にする者もでてくる。過剰な練習は、子どものからだを壊す。

 もと巨人の桑田投手が、体罰の背景に「勝利至上主義」があるという。その背景には、文部省の部活動必修化策と、それに巻き込まれた教師たちののめり込みがあることは、先日記した。

 「勝利至上主義」の部活動には、スポーツを単純に親しみたいという子どもは入れない。学校の部活動は、その競技に全身全霊を打ち込んでいる一部の子ども以外は参加できないという構造を問題にすべきである。
 
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