浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

村上春樹「風の歌を聴け」

2013-01-11 22:02:57 | 日記
 今日から『村上春樹全作品』を読み始めた。このブログに記したように、『国境の南・・』と『スプートニク・・』と読んできた。

 人生の途上において、生きる時間は限られているからあえて読む必要がないと思っていたが、読み始めたら、村上春樹を「極めて」(傍点)やろうという野望が生まれてきた。そしてどうせ読むなら、最初から読んでやろうと思ったのだ。もちろん購入してはいない。図書館の本を順番に借りようとしている。『・・全作品』の1を今日借りてきて、読み始めた。今日借りたのは2冊。うち1冊はブログで紹介した寂聴さんの本だ。

 村上春樹を「究める」(傍点)と、ボクに読んでもらいたいと思っているはずの本群は、おそらく村上春樹のために待ちぼうけを食わされるだろう。まあ少し待ってもらおう。

 この作品は、村上が世に出るきっかけとなったものだそうだ。たぶん、この小説の文体は、当時としては珍しいものだったと思う。ボクも日本文学を読んでいないわけではないから、それが何となくわかるのだ。

 今までの村上の本を読んで思うことは、登場人物は多くないということだ。そして話の筋は、会話ですすめられていく。その会話は、会話同士が対応しているようでいて、対応していないときがある。時に話の流れを切断するような会話がはさみこまれる。しかし、そこで止まるのではなく、流れていくのだ。これがボクには新鮮に思えた。

 そしてもう一つは暗喩だ。この「風の歌・・」にはあまり多くはないが、暗喩も内容的に大げさというか、突飛である。これも村上作品の特徴だろう。こういう暗喩を多用できるところが村上の才能でもある。

 「風の歌・・」には、途中ストーリーの展開とは直接関わらない話が挟まれる。ストーリーの展開に必要な説明のようでいて、そうでない。

 そしてこの作品の背景に、やはり死の影があると思う。村上はボクより年齢は上だが、ひょっとしたら高校生の頃、生について必死に考えたのではないか。生きるとはどういうことか、死とは何か、生きがいとは何か・・・などなど、存在論的な疑問だ。こういう問題に気付かないまま通り過ぎる者もいるが、この問題にひっかかると、とてもやっかいだ。ボクもひっかかったから、それがよくわかる。何らかの結論めいたものを出さない限り、その先にはいかない。ボクも一応の結論はだしたが、しかし常にその問いはボクの目の前に吊り下げられている。

 「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。/僕たちはそんな風にして生きている」

 主人公が三番目にセックスした相手は、自殺していると書かれていた。身近に自殺者がいると、よけいに生について問うことが多くなる。

 それをどうやり過ごすか。確かにボクらの思考や経験は時の流れと共に「通り過ぎる」のではあるが、残念ながら、それらはまったく消え去るわけではなく、ボクらの記憶の中にきちんと位置を占めるのだ。レコード店で働いていた女性も、いつのまにか主人公の前を通り過ぎていったのだが、しかし主人公の記憶がそれを捉えている。

 ボクら人間は、本当にやっかいな存在なのだ。村上の作品を読んでいると、それが、なぜか浮かび上がってくるのだが、それはボクだけなのだろうか。

 ボクは、村上の作品を、小説の中に描かれたシーンと、ボク自身の生きてきたシーンとを対照しながら読んでいるような気がする。ボクは、今の自分と過去の自分の二つの眼で、村上の作品の中に入り込んでいるようなのだ。

 
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【本】瀬戸内寂聴『烈しい生と美しい死を』(新潮社)

2013-01-11 19:06:08 | 日記
 瀬戸内寂聴こそ「烈しい生」を生きてきた人である。すでに寂聴さんは、この本に書いた人々については、それぞれについて本を出している。

 たとえば伊藤野枝や大杉栄については、『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』、菅野須賀子については『遠い声』など。

 明治末から大正期にかけて、「烈し」く生き、そして「美しい」かどうかは別として死を迎えた人々、野枝と大杉のほか、平塚らいてふ、岡本かの子、田村俊子、神近市子、小林哥津・・・をこの本はとりあげる。『東京新聞』に連載したものだという。

 『美は乱調にあり』などを読むのがたいへん、という人には、この本を読めば、彼ら・彼女らの「烈しい生」の一端に触れることが出来る。

 この本のなかで、寂聴さんはそれらの本を書く際に、まだ存命していた関係者に取材を行っていて、それについての記述がよい。明治社会主義者で何度も獄につながれ、戦後は日本社会党の議員にもなった荒畑寒村氏は93歳でなくなっている。その際、寒村氏は「死なばわがむくろを包め 戦いの塵(ちり)に染(し)みたる赤旗をもて」という遺作通りに、深紅の旗に包まれて逝かれたそうだ。ボクは、これだけでも感動してしまう。

 ボクは伊藤野枝がとても好きである。だから『伊藤野枝全集』も書棚にある。寂聴さんの『美は乱調にあり』を読んでからのことだ。きわめて情熱的な烈しいその生に感動したからだ。野枝は、実質的に三人の男性(親の言うとおりに一応「祝言」をあげた人と、辻潤、大杉栄)と結婚し、1923年9月16日、関東大震災の混乱に乗して、甘粕ら憲兵隊に虐殺された。

 野枝は辻との間に二人の子どもを授かっている。その野枝が大杉へと走る。寂聴さんは、「野枝を不貞だとか、非常識だとか嘲笑する人物は、一度も本気で愛し愛されたことのない人間だろう。男女の恋愛は理屈ではない。突然、雷のように襲うもので、そこには理由など無い。年齢の差も身分の差も、教養の差もない。恋愛は直感だ。そして運命だ。」(106頁)と書く。その通りだと思う。襲われた時は逃れられない(だがそれも時の経過により、時には痕跡もなく消え去ることがある)。

 大杉や野枝の墓は、静岡市にある。沓谷霊園である。大杉の関係者が静岡に住んでいたことからである(この経緯を記すのはたいへんだから割愛する)。今年2013年は、虐殺90周年である。ボクは有志を募って、追悼のための墓前祭をおこないたいと考えている。

 寂聴さんの本、特に「烈しい」生を送った人々の「伝記小説」はよい。
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【本】村上春樹『スプートニクの恋人』

2013-01-11 09:35:19 | 日記
 マーラーの第九交響曲を聴きながらこれを書いている。どんな曲を聴きながら書いているかにより、なぜか文章も影響を受ける。耳から入る音と、キーボードを打つ手が、脳を媒介にして響き合う。ボクは、時に音楽に身を任せながら歴史を書く。しかしそういう状態で書いた時、歴史は「書く」ではなく「描く」になる。いずれも「かく」のであるが、そこに情景が、そしてさらに描かれる場面に生きる人の感情が文にこめられる。だから、ボクが「描いた」歴史は、小説のようだといわれることがある。

 村上作品には、クラシック音楽がよくでてくる。『国境の南・・』もそうだった。クラシック音楽は、心の奥底の感情に働きかけてくる。しかし、「奥底」といっても、それがどこにあるのか、どういうものなのかはわからない。存在するようで、存在しない。そういうもの。

 この小説には、「存在するようで、存在しない」、何か不確かな人間が描かれる。「スプートニク」は、「旅の友」という意味だそうだ。旅は、いうまでもなく非日常だ。「旅の友」は、旅という非日常に一時的に時空を共有する存在だ。

 人と人との関係も、あるいは「恋人」という存在も、「スプートニク」、つまり一時的に(ここは村上にならって、傍点をおくりたいところだ)つながりをもつだけのものであって、一定の時間が経過すれば、それは消えていく。「存在するようで、存在しない」もの。

 人と人との関係なんて、「存在するようで、存在しない」不確かなものなのだ。つながりができたとき、人はあいてを「理解」しようとする。しかし村上が太字で記したように、「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」(195頁)。これがたとえ言いすぎであっても、人と人との関係において、「理解」できたとおもえたことであっても、それは「正解」(ここも傍点だ)であるかもしれないし、「誤解」かもしれない。だから、「理解」だって、不確かなものなのだ。

 『国境の南・・』でも気になっていたが、「性欲」ということばがしばしば出てくる。村上は、これを自然に、ということは肯定的にさらっと書き流す。村上作品において、といっても二つしか読んでいないが、性的なるものが大きなモチーフではないかと思うようになってきた。

 「性」は、この主人公にとっては(『国境の南・・』でも)、この小説作品に描かれない女性との間で行われるものであると共に、特定の「恋人」との間で行われるものでもある。しかし同じ「性」であっても、その質は大きく異なる。

 主人公は、小学校の教師。担任をしている子どもの母親との「性」がある。この「性」と、主人公が「すみれ」との間で想念される「性」、「すみれ」が「ミュウ」との間で求める「性」、「ミユウ」が自らを引き裂かれる「性」とでは、質的にまったく違うのだ。

 「存在するようで、存在しない」ような人と人との関係に、より存在感をもたせるものとして「性」を位置づけているのではないか。「性」は、大胆に言ってしまえば、きわめて即物的なつながりである。そのとき、確実に、人は相手の存在を確実に認めることができる。「存在するようで、存在しない」ものが、確実にそこでは存在するのだ。主人公と「すみれ」、「すみれ」と「ミュウ」、「ミュウ」自身、それぞれの関係において、「性」は介在しなかった。それ故の存在感のなさ?

 「性」の関係が、しかしたとえ取り結ばれて、そこで「存在」を確認できたとしても、所詮人と人との関係は、「スプートニク」なのだ。時間が、ボクたちを巻き込みながら容赦なく経過していくなかで、その関係が一時的なものでしかなかったことに気付くのである。

 なぜか。まさに空海が言うように、「一身独り生没す 電影是れ無常なり」なのだ。人間はひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくのである。たとえ複数の人間が同時に死を迎えたとしても、死はそれぞれの死でしかない。

 残念ながら、人間は「死」をみずからのこととして認識できる不幸な動物なのだ。そういう動物として、ボクらは、生きていくしかない。生きるということは、死に向かっていきるということなのだ。そこに寂寥感がつきまとうのは仕方がないことである。存在は不存在を含有して存在するという、自己矛盾的に統一したものであって、それを自覚して生きるのである。

 村上作品には青がよくでてくる。青のイメージは、「知性 理性 精神 静寂 冷静 平和 清潔 気品 威厳 自制心 自律 成功 安全、・信頼 瞑想 誠意 保守、・冷たい 涼しい 爽やか 堅い 広大 無限、・孤独 悲しみ 冷淡 失望 憂鬱 淋しい 不安 未熟 消極的 内向的 服従 冷酷」だそうだ。確かに存在感を強めるようなイメージのものではない。そしてこの作品では「血」がでてくる。「血」は、存在そのものを示すのだろうか。


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