今日から『村上春樹全作品』を読み始めた。このブログに記したように、『国境の南・・』と『スプートニク・・』と読んできた。
人生の途上において、生きる時間は限られているからあえて読む必要がないと思っていたが、読み始めたら、村上春樹を「極めて」(傍点)やろうという野望が生まれてきた。そしてどうせ読むなら、最初から読んでやろうと思ったのだ。もちろん購入してはいない。図書館の本を順番に借りようとしている。『・・全作品』の1を今日借りてきて、読み始めた。今日借りたのは2冊。うち1冊はブログで紹介した寂聴さんの本だ。
村上春樹を「究める」(傍点)と、ボクに読んでもらいたいと思っているはずの本群は、おそらく村上春樹のために待ちぼうけを食わされるだろう。まあ少し待ってもらおう。
この作品は、村上が世に出るきっかけとなったものだそうだ。たぶん、この小説の文体は、当時としては珍しいものだったと思う。ボクも日本文学を読んでいないわけではないから、それが何となくわかるのだ。
今までの村上の本を読んで思うことは、登場人物は多くないということだ。そして話の筋は、会話ですすめられていく。その会話は、会話同士が対応しているようでいて、対応していないときがある。時に話の流れを切断するような会話がはさみこまれる。しかし、そこで止まるのではなく、流れていくのだ。これがボクには新鮮に思えた。
そしてもう一つは暗喩だ。この「風の歌・・」にはあまり多くはないが、暗喩も内容的に大げさというか、突飛である。これも村上作品の特徴だろう。こういう暗喩を多用できるところが村上の才能でもある。
「風の歌・・」には、途中ストーリーの展開とは直接関わらない話が挟まれる。ストーリーの展開に必要な説明のようでいて、そうでない。
そしてこの作品の背景に、やはり死の影があると思う。村上はボクより年齢は上だが、ひょっとしたら高校生の頃、生について必死に考えたのではないか。生きるとはどういうことか、死とは何か、生きがいとは何か・・・などなど、存在論的な疑問だ。こういう問題に気付かないまま通り過ぎる者もいるが、この問題にひっかかると、とてもやっかいだ。ボクもひっかかったから、それがよくわかる。何らかの結論めいたものを出さない限り、その先にはいかない。ボクも一応の結論はだしたが、しかし常にその問いはボクの目の前に吊り下げられている。
「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。/僕たちはそんな風にして生きている」
主人公が三番目にセックスした相手は、自殺していると書かれていた。身近に自殺者がいると、よけいに生について問うことが多くなる。
それをどうやり過ごすか。確かにボクらの思考や経験は時の流れと共に「通り過ぎる」のではあるが、残念ながら、それらはまったく消え去るわけではなく、ボクらの記憶の中にきちんと位置を占めるのだ。レコード店で働いていた女性も、いつのまにか主人公の前を通り過ぎていったのだが、しかし主人公の記憶がそれを捉えている。
ボクら人間は、本当にやっかいな存在なのだ。村上の作品を読んでいると、それが、なぜか浮かび上がってくるのだが、それはボクだけなのだろうか。
ボクは、村上の作品を、小説の中に描かれたシーンと、ボク自身の生きてきたシーンとを対照しながら読んでいるような気がする。ボクは、今の自分と過去の自分の二つの眼で、村上の作品の中に入り込んでいるようなのだ。
人生の途上において、生きる時間は限られているからあえて読む必要がないと思っていたが、読み始めたら、村上春樹を「極めて」(傍点)やろうという野望が生まれてきた。そしてどうせ読むなら、最初から読んでやろうと思ったのだ。もちろん購入してはいない。図書館の本を順番に借りようとしている。『・・全作品』の1を今日借りてきて、読み始めた。今日借りたのは2冊。うち1冊はブログで紹介した寂聴さんの本だ。
村上春樹を「究める」(傍点)と、ボクに読んでもらいたいと思っているはずの本群は、おそらく村上春樹のために待ちぼうけを食わされるだろう。まあ少し待ってもらおう。
この作品は、村上が世に出るきっかけとなったものだそうだ。たぶん、この小説の文体は、当時としては珍しいものだったと思う。ボクも日本文学を読んでいないわけではないから、それが何となくわかるのだ。
今までの村上の本を読んで思うことは、登場人物は多くないということだ。そして話の筋は、会話ですすめられていく。その会話は、会話同士が対応しているようでいて、対応していないときがある。時に話の流れを切断するような会話がはさみこまれる。しかし、そこで止まるのではなく、流れていくのだ。これがボクには新鮮に思えた。
そしてもう一つは暗喩だ。この「風の歌・・」にはあまり多くはないが、暗喩も内容的に大げさというか、突飛である。これも村上作品の特徴だろう。こういう暗喩を多用できるところが村上の才能でもある。
「風の歌・・」には、途中ストーリーの展開とは直接関わらない話が挟まれる。ストーリーの展開に必要な説明のようでいて、そうでない。
そしてこの作品の背景に、やはり死の影があると思う。村上はボクより年齢は上だが、ひょっとしたら高校生の頃、生について必死に考えたのではないか。生きるとはどういうことか、死とは何か、生きがいとは何か・・・などなど、存在論的な疑問だ。こういう問題に気付かないまま通り過ぎる者もいるが、この問題にひっかかると、とてもやっかいだ。ボクもひっかかったから、それがよくわかる。何らかの結論めいたものを出さない限り、その先にはいかない。ボクも一応の結論はだしたが、しかし常にその問いはボクの目の前に吊り下げられている。
「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。/僕たちはそんな風にして生きている」
主人公が三番目にセックスした相手は、自殺していると書かれていた。身近に自殺者がいると、よけいに生について問うことが多くなる。
それをどうやり過ごすか。確かにボクらの思考や経験は時の流れと共に「通り過ぎる」のではあるが、残念ながら、それらはまったく消え去るわけではなく、ボクらの記憶の中にきちんと位置を占めるのだ。レコード店で働いていた女性も、いつのまにか主人公の前を通り過ぎていったのだが、しかし主人公の記憶がそれを捉えている。
ボクら人間は、本当にやっかいな存在なのだ。村上の作品を読んでいると、それが、なぜか浮かび上がってくるのだが、それはボクだけなのだろうか。
ボクは、村上の作品を、小説の中に描かれたシーンと、ボク自身の生きてきたシーンとを対照しながら読んでいるような気がする。ボクは、今の自分と過去の自分の二つの眼で、村上の作品の中に入り込んでいるようなのだ。