浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

死にまとわりつかれた生からの脱出(【本】『ノルウェイの森』)

2013-01-25 22:33:28 | 日記
 今日、「クラシック音楽へのおさそい」に、ベートーベンの第九がアップされていた。昨日から読み始めた『ノルウェイの森』の第八章あたりから(?)、イヤホンで聴きながら読み進めた。第九はさすがにボクの読書世界のなかに入り込み、みずからの存在を示し続けていた。しかしいつのまにか、ベートーベンは読書空間に入り込むのをやめ、ボクはひたすら活字を追うようになっていった。

 この本が出版された時、ボクはこれを一度読んでいる。だが、その時、ボクの心はまったく(本当に全く!)動かされることはなかった。

 だが今回はそうではなかった。いろいろ感じるところがあった。

 この本が発売されたのは、1987年。このとき、ボクは家庭でも、職場でも忙しい日々を送っていた。小説を味わうような余裕はなかったのかもしれない。

 この小説に流れているのは、一つは生と死の問題だ。そしてもう一つは性の問題だ。

 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という太字があった。だがこの小説の生と死の問題は一つではない。直子が抱える生と死の問題と、緑の体験した生と死の問題は、イコールではない。前者は「死にまとわりつかれた生」であり、後者では死が生のうちに潜んではいたとしても、その生は死にまとわりつかれてはいない。

 話は、キズキの自死が、直子と主人公であるワタナベの生を縛りながら展開する。そして結局、直子の生は、キズキの死にとりこまれてしまう。そして直子の自死は、ワタナベに極度の喪失感を抱かせる。

 だが、最終的に、ワタナベは、緑のもつ死にまとわりつかれていない生へと転回していく。最後の「僕は今どこにいるのだ?」ということばのなかの「どこ」は、前者から後者への転回を示すものといってよいだろう。「どこ」という場は、前者の生死の問題の終着であると同時に、後者の生死の問題の出発なのではないか。

 そしてもう一つの性の問題。これについても、二つの性がある。一時的な肉体の交わりとしての性と、人間と人間との根源的な結びつきとしての性である。

 村上の小説は、性を取り上げることが多い。その際、性は難しい問題としては扱われていない。基本的に、男女とも、それぞれのもつ性欲は自然なものとして肯定され、その意味では性は違和感なく登場人物の生活の中に入り込んでいる。ボクは、村上の作品が若い女性によく読まれる理由の一つがここにあるのではないかと思う。それが一つの理由というか、大きな理由ではないかと思う。

 そのような性が前提となり、その上に性はより高次な質を持つものとしても設定される。性欲を一時的に満足させる性ではなく、人間をつなぐ根源的なものとしての性。キズキと直子との交わらない性、ワタナベと直子との性、ワタナベと緑との未だ交わらない性、レイコとワタナベとの間の性・・・。性は、まったくの他人同士を結びつけるものとして存在する。性の問題は、決して小さな問題ではない。それが、この小説の大きなテーマになっている。

 性の問題が、二種類の生死の問題と絡み合いながら、物語は展開していく。性的な挫折が生死の問題とからみあい、その問題が饒舌に語られる。そしてその背後に、人間の孤独の問題がある。孤独者として存在する人間は他者を求める。そして他者との根源的なつながりを性が介在する。しかしキズキと直子、ワタナベと直子との間の性(20歳の誕生日の一回を除き)は、そういうものとして成り立たなかった。また永沢とハツミとの性は、永沢にとってそれは一時的なものでしかなかったが、ハツミが求めたのは根源的なつながりとしてのそれだったのだ。その齟齬が、ハツミを死に追いやった。

 この小説の主人公は学生である。ボクは、この小説を読みながら、村上が卒業した早稲田大学の界隈を思い出していた。そしてボク自身の学生時代を想起していた。学生時代は、まさに疾風怒濤の時代である。その時代、いろいろなことを考えた。だが社会に出て仕事に専念し、家庭を営むようになると、疾風怒濤の時代に考えたことはいつのまにか脳裏から去っていった。今ボクは、そういう忙しい日常の些事に覆われるような生活から離れ、時間的ゆとりをもって生きている。だからこそ、村上がこの作品に書き込んだ問題を考えることができるようになっているのだろう。それが今回、この作品を読んでいろいろ考えさせられるようになった原因ではないかと思う。

 村上は、疾風怒濤の時代に抱いたいろいろな問いを、この小説に書き込んでいるのではないか。それが今の若い人にも、考えさせるものがあるのだろう。

 村上の作品は、自己否定的ではなく、自己肯定的だ。ボクが若い頃は、「自己否定」ということばもはやった(ボクはこの自己否定をつきつめていくと自己の存在を否定しないといけなくなると思っていた。弁証法的な自己否定ならより高次の自分自身を創ることになる)が、「克己心」などということばもあった。現在の己を否定して、より高次の自分自身をつくらなければならないという焦燥感があった。

 村上の作品には、そういう人物はでてこない。基本的には自己肯定。そして自己を否定する可能性があるものは、死だけだ。その意味で自然体なのだ。難しくはない。

 村上ファンであるYさんが、村上のよさがわかったか?などと言ってきた。まだボクは、全部を読んでいないから、何とも言えないが、村上の文才は、もちろん大いに認め、賞賛する。


 
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税制「改正」

2013-01-25 11:32:31 | 日記
 以下は、今日の『中日新聞』の社説。まっとうな意見である。しかし、こうなることはわかっていた。格差を広げた自公政権が復活したのだから、富者はますます富み、貧者は貧に生きるという社会が、一面のアリバイ的な制度が導入されても、さらに推進されるのは当たり前。国民は、総選挙でそういう政治を招いた。選挙制度に問題があることは今までも指摘してきたが、それぞれの選挙区で、多くの人は自民党を選んだ。大企業のための政治、アメリカのための政治、それが強められる政治を国民の多くが求めたのだ。その結果責任は、国民が甘受するしかない。

税制改正大綱 負担の公平性に疑問だ  2013年1月25日

 自民、公明両党が二〇一三年度税制改正大綱を決めた。消費税増税での負担増を考慮し、減税項目が前面に多く並んだ。相対的に低中所得層への配慮が乏しく、不公平感が残るのが問題だ。

 やはり、と思わざるを得ない内容である。一四年四月の消費税率引き上げや、「決戦」と位置付ける今夏の参院選をにらみ、自動車取得税廃止や住宅ローン減税の拡充など減税項目が目立つ。そればかりか「道路特定財源」を復活させる方針に至ってはかつての古い自民党への回帰かと受け取られても仕方あるまい。

 道路特定財源は、自動車重量税と、ガソリンにかかる揮発油税の税収を財源に、その大半を道路整備に充てていた。しかし、「無駄な道路建設の温床」との批判から麻生政権の〇九年度に、使い道を特定しない「一般財源」に変えた経緯がある。

 政権復帰した途端に、それを「先祖返り」させ、道路の維持管理や更新に充てるのでは、地方や特定業界への利益誘導ととられ「自民党は変わっていない」と印象づけるだけである。

 自動車取得税の廃止にしても、消費税増税による販売減を懸念する自動車業界への配慮なのは明らかだ。取得税は「地方税」のため、廃止すれば税収減となる地方自治体が困ってしまう。そこで重量税を地方の道路整備などに充てる事実上の特定財源にしたわけだ。業界にも、地方にも配慮したということだ。

 なるほど経済再生を最優先に掲げるだけに、雇用や賃金を増やしたり設備投資する企業の法人税を減税する制度など、新しい工夫も見られる。今年末までの住宅ローン減税を延長・拡充するのも景気の下支えになるだろう。

 だが、消費税増税が実施されれば、負担増が重くのしかかる低所得者対策は結局あいまいなままだ。生活必需品などの税率を軽くする軽減税率は、一五年十月の税率10%引き上げ時に導入を目指すとしただけである。

 対照的に、消費税増税の不公平感を和らげるための富裕層への課税強化では、教育資金の名目で孫一人当たり千五百万円までの贈与を非課税とする「お金持ち」配慮の制度を設けた。

 税制は国民生活の重要な基盤となる。政権がどこを向き、どういう社会を目指しているのかがよく表れる。残念ながら、この大綱からは低中所得層の負担感がより増すような不公平感が漂っている。
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感動

2013-01-25 08:35:40 | 日記
 瀬戸内寂聴さんの『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』は、1923年の9月、関東大震災に紛れて、憲兵隊の甘粕らに虐殺された大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの生き方を描いた作品だ。

 かつてボクはこの本を読んでいたく感動した。そこには、一度しかない生を、それこそ個性的に、みずからの生を拡充せんと生きようとした人びとの群像が描かれている。

 その感動は、おそらく今でも読む人に与えられるはずだ。

 ボクは、時にこの本を推薦する。今年1月、ある若人がこれを読んだという。書店にはなく、図書館で借りて読んだとのこと。大きな感動を与えられた彼は、それを手紙にかいてきた。

 大杉を始め、登場人物の個性的でかつ強烈な生き方は、とても真似は出来ない。だがそういう人生を送った人びとが、「大正時代」に存在したのだ。彼らの生は、今でも強烈な光を放つ。

 ボクは、学生時代、「青鞜社」に関する本を読んでいて伊藤野枝を知った。ボクには伊藤野枝がきわめて魅力的に映った。当時つきあっていた女性も伊藤さん。野枝と同じ福岡県出身。大学卒業とともに離れてしまったけれども、その伊藤さんに野枝を二重写しにしていたことを覚えている。

 『諧調は偽りなり』が刊行される頃、静岡市に講演に来られた瀬戸内さんの送迎を担当したことがあった。伊藤野枝が好きだということを言ったら、瀬戸内さんは「野枝なんかと結婚したら、それは苦労するわよ!およしなさいよ」などと言われた。

 瀬戸内さんも、この本に描かれた人びとと同じように、強烈に個性的に生きてきた人だ。だから、そういうような女性の伝記みたいなものをいくつか書いている。『かの子繚乱』、『遠い声』など。

 ボクたちは、過去に生きた人びとの生を知ることによって、その生を自分自身の生の滋養にすることができる。

 感動は、ボクたちに、生きようとする力を与える。生まれてきて良かったーこのことを確認するのである。
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鼓動

2013-01-25 00:02:59 | 日記
 価格コムでみたら、3000円以上するイヤホンが、通販で980円だったので購入した。それが今日届いた。

 早速「クラシック音楽へのおさそい」にアクセスして、モーツアルトのホルン協奏曲を聴き始めた。ところが、モーツアルトの音楽とともに、規則正しい鼓動が聞こえるのだ。

 ドドッ、ドドッ・・・・

 最初、これは何だろうと思った。その音に照準を合わせて聞いていると、それがボクの心臓の鼓動であるとわかった。

 ボクは、原稿は、音楽を聴きながら書くことが多い。イヤホンを耳にあて、いろいろな曲を聴きながら原稿を書く。たとえば、ラフマニノフのピアノコンチェルト第二番の第二楽章は、情感のこもった文を書こうとするときに聴く。

 このイヤホンが届くまで使っていたものからは、心臓の鼓動は聞こえなかった。

 これからは、ボクは自分自身が生きていることを確認しながら、音楽を聴き、また原稿を書くことになるようだ。

  
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