今日、「クラシック音楽へのおさそい」に、ベートーベンの第九がアップされていた。昨日から読み始めた『ノルウェイの森』の第八章あたりから(?)、イヤホンで聴きながら読み進めた。第九はさすがにボクの読書世界のなかに入り込み、みずからの存在を示し続けていた。しかしいつのまにか、ベートーベンは読書空間に入り込むのをやめ、ボクはひたすら活字を追うようになっていった。
この本が出版された時、ボクはこれを一度読んでいる。だが、その時、ボクの心はまったく(本当に全く!)動かされることはなかった。
だが今回はそうではなかった。いろいろ感じるところがあった。
この本が発売されたのは、1987年。このとき、ボクは家庭でも、職場でも忙しい日々を送っていた。小説を味わうような余裕はなかったのかもしれない。
この小説に流れているのは、一つは生と死の問題だ。そしてもう一つは性の問題だ。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という太字があった。だがこの小説の生と死の問題は一つではない。直子が抱える生と死の問題と、緑の体験した生と死の問題は、イコールではない。前者は「死にまとわりつかれた生」であり、後者では死が生のうちに潜んではいたとしても、その生は死にまとわりつかれてはいない。
話は、キズキの自死が、直子と主人公であるワタナベの生を縛りながら展開する。そして結局、直子の生は、キズキの死にとりこまれてしまう。そして直子の自死は、ワタナベに極度の喪失感を抱かせる。
だが、最終的に、ワタナベは、緑のもつ死にまとわりつかれていない生へと転回していく。最後の「僕は今どこにいるのだ?」ということばのなかの「どこ」は、前者から後者への転回を示すものといってよいだろう。「どこ」という場は、前者の生死の問題の終着であると同時に、後者の生死の問題の出発なのではないか。
そしてもう一つの性の問題。これについても、二つの性がある。一時的な肉体の交わりとしての性と、人間と人間との根源的な結びつきとしての性である。
村上の小説は、性を取り上げることが多い。その際、性は難しい問題としては扱われていない。基本的に、男女とも、それぞれのもつ性欲は自然なものとして肯定され、その意味では性は違和感なく登場人物の生活の中に入り込んでいる。ボクは、村上の作品が若い女性によく読まれる理由の一つがここにあるのではないかと思う。それが一つの理由というか、大きな理由ではないかと思う。
そのような性が前提となり、その上に性はより高次な質を持つものとしても設定される。性欲を一時的に満足させる性ではなく、人間をつなぐ根源的なものとしての性。キズキと直子との交わらない性、ワタナベと直子との性、ワタナベと緑との未だ交わらない性、レイコとワタナベとの間の性・・・。性は、まったくの他人同士を結びつけるものとして存在する。性の問題は、決して小さな問題ではない。それが、この小説の大きなテーマになっている。
性の問題が、二種類の生死の問題と絡み合いながら、物語は展開していく。性的な挫折が生死の問題とからみあい、その問題が饒舌に語られる。そしてその背後に、人間の孤独の問題がある。孤独者として存在する人間は他者を求める。そして他者との根源的なつながりを性が介在する。しかしキズキと直子、ワタナベと直子との間の性(20歳の誕生日の一回を除き)は、そういうものとして成り立たなかった。また永沢とハツミとの性は、永沢にとってそれは一時的なものでしかなかったが、ハツミが求めたのは根源的なつながりとしてのそれだったのだ。その齟齬が、ハツミを死に追いやった。
この小説の主人公は学生である。ボクは、この小説を読みながら、村上が卒業した早稲田大学の界隈を思い出していた。そしてボク自身の学生時代を想起していた。学生時代は、まさに疾風怒濤の時代である。その時代、いろいろなことを考えた。だが社会に出て仕事に専念し、家庭を営むようになると、疾風怒濤の時代に考えたことはいつのまにか脳裏から去っていった。今ボクは、そういう忙しい日常の些事に覆われるような生活から離れ、時間的ゆとりをもって生きている。だからこそ、村上がこの作品に書き込んだ問題を考えることができるようになっているのだろう。それが今回、この作品を読んでいろいろ考えさせられるようになった原因ではないかと思う。
村上は、疾風怒濤の時代に抱いたいろいろな問いを、この小説に書き込んでいるのではないか。それが今の若い人にも、考えさせるものがあるのだろう。
村上の作品は、自己否定的ではなく、自己肯定的だ。ボクが若い頃は、「自己否定」ということばもはやった(ボクはこの自己否定をつきつめていくと自己の存在を否定しないといけなくなると思っていた。弁証法的な自己否定ならより高次の自分自身を創ることになる)が、「克己心」などということばもあった。現在の己を否定して、より高次の自分自身をつくらなければならないという焦燥感があった。
村上の作品には、そういう人物はでてこない。基本的には自己肯定。そして自己を否定する可能性があるものは、死だけだ。その意味で自然体なのだ。難しくはない。
村上ファンであるYさんが、村上のよさがわかったか?などと言ってきた。まだボクは、全部を読んでいないから、何とも言えないが、村上の文才は、もちろん大いに認め、賞賛する。
この本が出版された時、ボクはこれを一度読んでいる。だが、その時、ボクの心はまったく(本当に全く!)動かされることはなかった。
だが今回はそうではなかった。いろいろ感じるところがあった。
この本が発売されたのは、1987年。このとき、ボクは家庭でも、職場でも忙しい日々を送っていた。小説を味わうような余裕はなかったのかもしれない。
この小説に流れているのは、一つは生と死の問題だ。そしてもう一つは性の問題だ。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という太字があった。だがこの小説の生と死の問題は一つではない。直子が抱える生と死の問題と、緑の体験した生と死の問題は、イコールではない。前者は「死にまとわりつかれた生」であり、後者では死が生のうちに潜んではいたとしても、その生は死にまとわりつかれてはいない。
話は、キズキの自死が、直子と主人公であるワタナベの生を縛りながら展開する。そして結局、直子の生は、キズキの死にとりこまれてしまう。そして直子の自死は、ワタナベに極度の喪失感を抱かせる。
だが、最終的に、ワタナベは、緑のもつ死にまとわりつかれていない生へと転回していく。最後の「僕は今どこにいるのだ?」ということばのなかの「どこ」は、前者から後者への転回を示すものといってよいだろう。「どこ」という場は、前者の生死の問題の終着であると同時に、後者の生死の問題の出発なのではないか。
そしてもう一つの性の問題。これについても、二つの性がある。一時的な肉体の交わりとしての性と、人間と人間との根源的な結びつきとしての性である。
村上の小説は、性を取り上げることが多い。その際、性は難しい問題としては扱われていない。基本的に、男女とも、それぞれのもつ性欲は自然なものとして肯定され、その意味では性は違和感なく登場人物の生活の中に入り込んでいる。ボクは、村上の作品が若い女性によく読まれる理由の一つがここにあるのではないかと思う。それが一つの理由というか、大きな理由ではないかと思う。
そのような性が前提となり、その上に性はより高次な質を持つものとしても設定される。性欲を一時的に満足させる性ではなく、人間をつなぐ根源的なものとしての性。キズキと直子との交わらない性、ワタナベと直子との性、ワタナベと緑との未だ交わらない性、レイコとワタナベとの間の性・・・。性は、まったくの他人同士を結びつけるものとして存在する。性の問題は、決して小さな問題ではない。それが、この小説の大きなテーマになっている。
性の問題が、二種類の生死の問題と絡み合いながら、物語は展開していく。性的な挫折が生死の問題とからみあい、その問題が饒舌に語られる。そしてその背後に、人間の孤独の問題がある。孤独者として存在する人間は他者を求める。そして他者との根源的なつながりを性が介在する。しかしキズキと直子、ワタナベと直子との間の性(20歳の誕生日の一回を除き)は、そういうものとして成り立たなかった。また永沢とハツミとの性は、永沢にとってそれは一時的なものでしかなかったが、ハツミが求めたのは根源的なつながりとしてのそれだったのだ。その齟齬が、ハツミを死に追いやった。
この小説の主人公は学生である。ボクは、この小説を読みながら、村上が卒業した早稲田大学の界隈を思い出していた。そしてボク自身の学生時代を想起していた。学生時代は、まさに疾風怒濤の時代である。その時代、いろいろなことを考えた。だが社会に出て仕事に専念し、家庭を営むようになると、疾風怒濤の時代に考えたことはいつのまにか脳裏から去っていった。今ボクは、そういう忙しい日常の些事に覆われるような生活から離れ、時間的ゆとりをもって生きている。だからこそ、村上がこの作品に書き込んだ問題を考えることができるようになっているのだろう。それが今回、この作品を読んでいろいろ考えさせられるようになった原因ではないかと思う。
村上は、疾風怒濤の時代に抱いたいろいろな問いを、この小説に書き込んでいるのではないか。それが今の若い人にも、考えさせるものがあるのだろう。
村上の作品は、自己否定的ではなく、自己肯定的だ。ボクが若い頃は、「自己否定」ということばもはやった(ボクはこの自己否定をつきつめていくと自己の存在を否定しないといけなくなると思っていた。弁証法的な自己否定ならより高次の自分自身を創ることになる)が、「克己心」などということばもあった。現在の己を否定して、より高次の自分自身をつくらなければならないという焦燥感があった。
村上の作品には、そういう人物はでてこない。基本的には自己肯定。そして自己を否定する可能性があるものは、死だけだ。その意味で自然体なのだ。難しくはない。
村上ファンであるYさんが、村上のよさがわかったか?などと言ってきた。まだボクは、全部を読んでいないから、何とも言えないが、村上の文才は、もちろん大いに認め、賞賛する。