渡辺京二の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)は、ときに読み返す。近代日本が消し去った世を時に振り返りたくなるのだ。今日は「風景とコスモス」を読んだ。
昨日、実家の隣の家に庭師が来ていた。その家では、年二回刈り込んでいる。
私も自分で、実家とわが家の庭木を年二回刈り込む。わが家の垣根はさざんか、実家は槇(この辺では「ほそば」という)である。もうすでにほとんど終えているが、実家の東側と西側の垣根と庭木が3本残っている。実家の裏と、東側はすでに庭師がきれいにしたので、私もはやく終えなければならない。西側の家の垣根の刈り込みをやってあげると言ってあるので、自家のは早く切り上げなければならない。
今、わが家にはピンクと赤のさざんか、実家では白と赤のさざんかが花を付けている。もちろんこれらは丸く、あるいは四角に刈り込まれている。冬は咲く草花がほとんどないから、こうした花木は貴重である。
庭木は、きちんと刈り込まないとどんどん生長して手に負えなくなる。だから毎年刈り込む。
幕末から明治初期にきた外国人は、日本の自然や江戸を賞賛した。この本には、そうした文が列挙されている。そして渡辺は、江戸という町にたくさんの庭や垣根があったことを記し、それらが「高度に園芸化された産物」であったことを指摘する。「園芸化された産物」に囲まれて、人びとは生きていたのである。
そしてそれは今も続いている。
渡辺のこの本を読んでいると、消されてしまったものを哀惜する記述が多いが、しかし今も尚生きているものもある。宗教的ともいえる活動は、過ぎ去った時代と同じような感覚が今も残っている(「信仰と祭」)。
昨日、実家の隣の家に庭師が来ていた。その家では、年二回刈り込んでいる。
私も自分で、実家とわが家の庭木を年二回刈り込む。わが家の垣根はさざんか、実家は槇(この辺では「ほそば」という)である。もうすでにほとんど終えているが、実家の東側と西側の垣根と庭木が3本残っている。実家の裏と、東側はすでに庭師がきれいにしたので、私もはやく終えなければならない。西側の家の垣根の刈り込みをやってあげると言ってあるので、自家のは早く切り上げなければならない。
今、わが家にはピンクと赤のさざんか、実家では白と赤のさざんかが花を付けている。もちろんこれらは丸く、あるいは四角に刈り込まれている。冬は咲く草花がほとんどないから、こうした花木は貴重である。
庭木は、きちんと刈り込まないとどんどん生長して手に負えなくなる。だから毎年刈り込む。
幕末から明治初期にきた外国人は、日本の自然や江戸を賞賛した。この本には、そうした文が列挙されている。そして渡辺は、江戸という町にたくさんの庭や垣根があったことを記し、それらが「高度に園芸化された産物」であったことを指摘する。「園芸化された産物」に囲まれて、人びとは生きていたのである。
そしてそれは今も続いている。
渡辺のこの本を読んでいると、消されてしまったものを哀惜する記述が多いが、しかし今も尚生きているものもある。宗教的ともいえる活動は、過ぎ去った時代と同じような感覚が今も残っている(「信仰と祭」)。