浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

沖縄の怒り

2017-12-31 20:41:27 | その他
 『琉球新報』の今日の社説。沖縄の怒りが記されている。しかし本土はノーテンキに、大晦日を迎えている。


<社説>’17回顧 基地被害 政府は住民保護を放棄

2017年12月31日 06:01


 2017年の沖縄は基地被害で明け、基地被害で暮れたと多くの県民は思っているはずだ。それほど訓練、飛行の強行、事件、事故が繰り返し起きた1年だった。

 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設は4月、政府が護岸工事に着手した。12月にはN5護岸が長さ273メートルに達し、ほぼ完成した。新たにK4護岸建設の砕石投下も始まった。

 現場の環境破壊が著しい。7月に絶滅の恐れのある希少サンゴ14群体が見つかったが、沖縄防衛局の県への報告では13群体が死滅した。

 琉球新報社が9月に実施した世論調査では80・2%が県内移設に反対だった。「辺野古ノー」の圧倒的多数の民意を踏みにじり、環境を破壊しながら建設を強行することなど許されるはずがない。

 訓練強行も目に余るものがあった。嘉手納基地と津堅島訓練場水域では、米軍のパラシュート降下訓練が地元の反対を押し切って繰り返された。この訓練は以前、読谷補助飛行場で実施されていた。1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、伊江島に移転することで合意したはずだ。しかし米軍は勝手に訓練場所を拡大している。やりたい放題ではないか。

 昨年12月に名護市安部沿岸に墜落した普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイは、今年も事故や緊急着陸などを繰り返した。8月には普天間所属機がオーストラリア沖で墜落し乗員3人が死亡した。緊急着陸は6月に伊江島補助飛行場と奄美空港、8月に大分空港と相次いだ。欠陥機としか言いようがない。しかしオスプレイはすぐに飛行を再開し、現在も沖縄上空を飛び続けている。

 危険なのはオスプレイだけではない。普天間所属のCH53E大型ヘリの事故も相次いだ。10月、東村高江の牧草地に不時着し、炎上大破した。米軍は一方的に事故機を解体し、周辺の土壌と共に現場から持ち去った。航空危険行為等処罰違反容疑の捜査対象の当事者が公衆の面前で堂々と証拠隠滅を図った。これで法治国家といえるのか。

 CH53は12月に入って、上空から次々と部品を落下させた。宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根にプラスチック製の筒が落ち、普天間第二小学校の運動場に窓を落下させた。いずれも近くに園児と児童がいた。大切な子どもたちの命が重大な危険にさらされた。

 ところが政府は事故を引き合いに、辺野古移設の加速化を繰り返し主張している。萩生田光一幹事長代行は「だからこそ早く移設しなければいけないという問題も一つあると思う」と明言した。

 言語道断だ。危険除去を主張するなら、普天間飛行場の即時閉鎖しかない。辺野古移設を正当化するため、住民を危険にさらした事故を利用するのはもってのほかだ。住民保護を放棄した政府に「国難突破」を言う資格などない。
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【本】鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)

2017-12-31 14:35:18 | その他
 今年最後に読んだ本である。Amazonは私が購入した本の傾向を分析して、この本を紹介してきた。すぐに注文し、昨日届いた。読み始めて一気に読み進めた。よい本だ。

 佐々木友次さんという人がいた。北海道出身だ。子どもの頃から空に憧れ、仙台にあった逓信省航空局地方航空機乗員養成所に入り、パーロットとなる。しかしパイロットになったときは戦時下であった。彼は、特攻隊へ。陸軍の最初の特攻隊である万朶隊のメンバーとなる。隊長は、岩本益臣大尉。岩本隊は、技倆に優れた者を集めた。最初の特攻隊であるから、失敗は許されない。

 岩本隊は、フィリピンに飛んだ。時は1944年の秋であった。しかし、すでに日本軍は米軍の攻勢により、勢力範囲を急速に縮めていた頃であった。フィリピンの空も、米軍機が飛び、すでに日本の制空権は失われつつあった。航空戦力のあり方をまったく知らない第四航空軍の司令官・富永恭次司令官は、ルソンに到着した特攻隊に会いたいと言ってきた。富永はそのときネグロス島にいた。岩本大尉は呼ばれてネグロスへ飛んだが、大尉の搭乗機は、すでに特攻機に改造され、銃座もない特殊な構造をもっていた。挨拶を終えて帰還。しかし11月4日、再び富永から、ルソン・マニラに来るようにという連絡があり、岩本大尉らはマニラに向かったが、途中でグラマンに襲われ墜落。万朶隊は岩本大尉ほか将校パイロットをすべて失ったのである。呼び出した理由は、特攻隊の出撃前に宴会をしたいという富永の要請であった。

この富永という人物、有名である。その後フィリピンが危険になったとき、勝手に台湾に逃亡した卑怯な軍人であった。1960年まで生きた。

 さて佐々木友次さんは本書の主人公であるが、彼は特攻として出撃しても、死ぬことはなかった。岩本大尉は、特攻機から爆弾を投下できるようにしたことから、佐々木は特攻命令を受けても、爆弾を投下して帰ってきたし、また無理をして無駄な死を死ぬことをしなかった。それは岩本大尉の心情と軌を一にする。佐々木は、9度飛び立って、9度とも帰ってきた。帰ってくると、「おまえはなんで死んでこなかった」と罵詈雑言を浴びたが、それでも彼は帰ってきた。そして生きのびて2016年、札幌の病院で亡くなった。1923年生まれであるから、93才であった。

 佐々木さんは、上官による死の強制に対して、「お言葉を返すようですが、死ぬばかりが脳ではなく、ヨリ多く敵に損害を与えるのが任務だと思います」、「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と抗弁していたそうだ。

 鴻上は、佐々木さんの生涯を追うと共に、特攻隊について鋭い考察を加えている。

 特攻攻撃は、実はまったくナンセンスな戦術であった。その詳細を書くのはたいへんなのでここでは記さないが、鴻上はこう記している。

 リアリズムを語らず、精神を語ることが日本人は好きなのでしょうか。現実を見ず、観念に生きる民族なのでしょうか。

 現実の戦争での効果はほとんどなかったにもかかわらず、日本軍はそれを強行し、若者たちにそれを強制した。その若者たちのなかには、海軍兵学校や陸軍士官学校卒業者はほとんどいない。軍人の教育を受けなかった若者たちにのみ強いられた強制的な「自死」であった。

 『神風特別攻撃隊』という特攻隊を美化する本を書いたふたりのもと将校のひとり中島は、戦時下「文句を言うんじゃない、特攻の目的は戦禍にあるんじゃない。死ぬことにあるんだ」と語っていたそうだが、戦後は、特攻隊はほとんど志願であった、美しい死であった、というようなことを書いた。自ら(海軍)を免責するために書いたというしかない。

 1945年に終わった戦争をどうとらえるか、その回答の一部は本書に記されている。そしてその戦争を担った人びとは、戦後の体制に、実は大きな影響を与えているのだ。

 佐々木さんのお墓には、こういう碑文が刻まれている。

 哀調の切々たる望郷の念と
 片道切符を携え散っていった
 特攻という名の戦友たち 
 機関兵である私は今日まで
 命の尊さを噛みしめ
 亡き精霊と共に悲惨なまでの
 戦争を語りつぐ
 平和よ永遠なれ


 平和よ、永遠なれ、そういう日本であり続けるようにしたいと思う。

 本書は、とてもよい本だ。

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