浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

静岡へ

2017-12-24 22:14:16 | その他
 今日午後、静岡へ行った。「〈天皇代替わり〉をめぐる、憲法・民主主義の問題」という講演を聴きに行った。天皇制に反対している女性が講師であった。

 およそ90分間の講演を聴いたが、表面を撫でただけの内容で、まったく深みがなかった。この人はあちこちで講演をして歩いているようだが、聴衆は満足しているのだろうか、と思った。天皇制についての学問的な検討、法的、歴史的、社会的アプローチをしたことがあるのだろうか。

 この人の話には、「なぜ」を問う姿勢がなかった。現象を追いながら、それが「なぜ」起きているのかを考えることをしていない。

 レジメの「最後に」のところで、「天皇制そのものが違憲の制度であるという視点を取り戻す必要」とあった。私はこういう書き方が嫌いである。日本国憲法には第一章があり、そこには象徴天皇制が規定されている。もちろん基本的人権の観点から見れば、天皇一族の存在は違憲だと言うこともできるが、しかし天皇は国民ではなく、象徴としての国家機関なのであるから、上記の論を展開するならそれ相応の理論が必要だろう。

 それに今回の「生前退位」については、それなりの経緯があり、同時に戦時体制期の天皇制をあるべき天皇制だと考えている安倍一派との矛盾など、今考えるべき論点があるはずだ。

 内容的には得るところまことに少ないものであったが、聴きながら何を考えなければならないかを、導き出すことができたのでそれだけが成果か。

 
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【本】『高杉一郎・小川五郎 追想』(かもがわ出版)

2017-12-24 21:58:18 | その他
 この本は過去に一度手にしている。高杉一郎=小川五郎が亡くなってから一年経過したとき、高杉一郎に関わりがあった人びとの「追想」を集めて出版されたものだ。この本には市原正恵さんの文も掲載されていた。市原正恵さんの遺稿集を編んだとき、この本の中の「書物的めぐりあい」を読み、それに掲載した。そのとき、他の方の文は読まなかった。高杉一郎を「発見」していなかったからだ。

 高杉一郎は「大きな」人であったようだ。「大きな」というのは、別に体が「大きい」というのではない。精神の面で、「大きい」というのだ。知識、知性、感性、理性、精神のあらゆる面で「大きい」人であったと思う。この本に書かれたすべての人の文を読み、そう思った。

 これを読み、一度でもお目にかかって話を聞きたかったと思う。あるいは講義を聴きたかった。

 高杉の本には「知」がいっぱい詰まっている。その「知」の一端に触れることができた人は幸せだと思う。

 たくさんの人の「追想」はすべて読み甲斐がある内容を持つが、とりわけ印象に残ったところは、小野民樹というもと岩波書店の編集部にいた人の文(170)・・・・  

高杉さんに、どうしてシベリアから生還できたのかと聞いたことがある。慌てず急がずでしょう、たとえば食事。スープの列に早く並ばないと、それでなくても少ない固形物が皆無となる。しかし、われ先にと人を押しのけて、いつも先頭に並んだ人はみんな死にましたよ・・・

 泰然自若、そういう運命に際会したときには、慌てず騒がず、運命の誘うままにたゆたうということなのだろうか。


 もう一つ。高杉が勤めていた改造社が、東条政権下で解散させられた。その直後、高杉に召集令状がきた。それについて石原静子さんはこう書いている(202)。和光大学の退職した教員である高杉にインタビューしたときのものだそうだ。


 日中から太平洋へと戦争が広がる中、36歳の「老兵にも赤紙、つまり一兵卒としての召集令状が来た。・・・小学校の同期生はまだ誰一人出征していなかったから・・・、懲罰召集ではないか、と言われた」

 そうだろうと思う。東条政権はそういうことをしていた。戦場に行かせ、「合法的に」殺す、のである。

 そういう時代を、高杉は生きたのである。高杉の周囲にいた人々の「追想」が、高杉という人間を明らかにしていく。確かに魅力的な、そして「大きな」人間であった。


 
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秋葉信仰

2017-12-24 20:28:07 | その他
 昨日は、岡崎市美術博物館へ。展示は、「三河の秋葉信仰ー火伏の神の系譜」である。

 秋葉信仰は、現在浜松市になっているが、旧春野町の秋葉山の山頂にあった秋葉三尺坊大権現が火伏の神として崇められたことによる。廃仏毀釈・神仏分離政策によって、秋葉三尺坊大権現があった秋葉寺が権力的に「廃寺」とされ、秋葉寺を乗っ取った秋葉神社が、記紀神話の火迦具土神(伊弉諾、伊弉冉の子で、誕生の際に母を焼死させたため、父に斬り殺された)を勧請して山頂に「鎮座」している。

 この秋葉信仰は江戸時代に広まり、秋葉原という地名で知られるように、全国各地で分祀され、全国各地から講を組んで代参するようになった。もちろん三河は近いから、多くの人が参詣していた。

 三河の人びとは、秋葉三尺坊を分祀したり、秋葉講をつくったりした。展示では、そうした三河の秋葉信仰がどういう状態であったのかをというものであった。

 秋葉三尺坊の姿は天狗である。天狗の源流は、インドのヒンズー教の神、ガルダだそうで、それが修験(山伏)とつながったようである。
だから天狗を祀るところはほとんど山の中にある。

 三河の寺院には、天狗姿の三尺坊像がつくられていた。それが展示されていた。

 全体的に、秋葉信仰についての説明はなされていたが、明治初年の神仏分離政策についての説明は少なかった。なぜ秋葉信仰が分裂しているのか、この説明は不可欠だと思う。

 秋葉神社が栄え、廃寺とされた秋葉寺が、秋葉山の中腹に再建されたが、あまりぱっとしない。秋葉寺こそ、秋葉信仰の本家であるにもかかわらず。



 
 
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