あいちトリエンナーレの「表現の不自由展ーその後」が中止に追い込まれた背景に、「従軍慰安婦」を象徴する少女像の展示の問題がある。
「従軍慰安婦」の存在は歴史的事実であるにもかかわらず、他者の思い込みをみずからのものとすることによって判断する人たちの暴力によって、メディアではタブーとなっている。
その契機は、『朝日新聞』だけではなく、ほとんどのメディアが吉田清治の済州島に於ける“「従軍慰安婦」狩り”の虚偽的行動をとりあげていたにもかかわらず、『朝日新聞』だけが激しく攻撃され、その記事を撤回謝罪することになった。「慰安婦」に関しては、吉田証言が虚偽的であっただけなのに、攻撃者たちの「一点突破・全面否定」の戦略が外見上は「成功」し、今や「従軍慰安婦」問題は日本のメディアでは報じられなくなり、あたかもなかったかのようになっている。そして少女像が、「慰安婦」問題を象徴するようになり、今回の事態になった。
『朝日新聞』が、吉田証言を撤回謝罪した際、なぜ「慰安婦」問題を丁寧に取材しなおし紙面で展開しなかったのか、若し展開していれば、「慰安婦」問題の今は、もっと違ったものになったはずだ。
その意味で、『朝日新聞』の当時の姿勢は、批判されるべきであると私は思う。
『朝日新聞』記者で、現在『週刊金曜日』の発行人である植村さんが、吉田証言ではなく、それ以外の「慰安婦」記事を書いたことにより、暴力的な人びと(そのなかには櫻井よしこなども入っている)によって激しく攻撃されたとき、『朝日新聞』は見て見ぬ振りをした。それも私はとても理不尽であると思っている。
『朝日新聞』はあいちトリエンナーレの表現の抑圧問題を記事化しているが、その際、みずからの作為・不作為を反省してみるべきではないか。
日本の政界、官界、財界など、メディアも含めて、きちんと反省する、総括するという経験を持っていない。そういうあり方が、「信用されない」原因となっているのだ。
その都度その都度きちんとけじめをつけていくことが求められている。そういうあり方は、日本では無理なのであろうか。