村山由佳の『風よ あらしよ』が、集英社文庫版として発売された。上下二巻で、それぞれ900円(+悪税90円)である。私は単行本を持っているので買わないでいたところ、下巻に書かれている「解説」を送ってくれた。「解説」を書いたのは、上野千鶴子さんである。
上野さんは、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』(以下瀬戸内本)と、栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』(以下栗原本)とを一応比較され、村山本についての解説を書いている。
その解説は、以前私が某雑誌に書いた内容と本質的な違いはない。
岩波書店から発売された栗原本は、実際検討に値しないものだ。事実を平気で無視し捏造するというように、歴史的事実にきちんと対応せず、きわめて主観的な野枝像をかきあげた。上野も、栗原本を「「私」満載、野枝にかこつけた全編、彼自身のアジテーション」と評価している。その通りである。野枝という人物を客観的に見つめるのではなく、「私」と野枝とを同化させてしまっている、そしてその「私」とは、「欲望を全開にして生きる野生の」「私」なのである。そういう「私」に野枝を引きよせるのだ、気持ち悪い!栗原本は、評伝とはとてもいえない。
瀬戸内本は、私はそんなに違和感を持っていない。瀬戸内は、野枝だけではなく、社会主義に生きた女性の評伝など、いろいろ書いていて、それぞれその段階での歴史研究の成果を採り入れて書いているからである。
さて村山本では、客観的歴史的事実と村山の作家としての想像力とがうまく調合され、その結果、生身の野枝(野枝だけではなく周辺の人物も)を描いてくれたように思う。
伊藤野枝を知りたいなら、この本を読むのがよいだろう。
上野さんは、末尾で「野枝というひとが身近にいたら?・・・ほんとうを言うとお友だちにはなりたくない。」と書いているが、しかし私は学生時代からずっと野枝にご執心なのだ。