浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(朝日文庫)

2023-05-04 21:31:32 | 

 まだ途中であるが、上野千鶴子はスゴイ女性である。様々な書籍の知識を背景に、現実をバッサリときる。その手際の良さが、文章にあらわれている。

 上野の本は、実はあまり読んでこなかった。「100分deフェミニズム」で紹介されていたので、早速購入して読みはじめたが、扱われている対象もひろく、説得的で、これは女性だけではなく、男性も熟読すべき内容だとつくづくと思った。とてもおもしろい。男同士で話しているときに、時々ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)のことばを聴くことがあり、その背景を理解することができる。

 ホモソーシャルな集団について、先日、十分に理解しないままに書いたが、本書にはそれがきちんと書かれている。

男の値打ちは 女に選ばれることによっては決まらない。その点では、異性愛の秩序は男と女にとって非対称にできている。男の値打ちは何で決まるか?男同士の世界での覇権ゲームで決まる。男に対する最大の評価は、同性の男から、「おぬし、できるな」と賞賛を浴びることではないだろうか。(27)

男は、男の世界の覇権ゲームで、他の男たちから実力を認められ、評価され、賞賛されるのが好きだ。(28)

 私も男なので、そのホモソーシャルな集団に属してはいたが、「覇権ゲーム」には参加しなかった。すでに御用組合ではない労働組合の一員であったから、最初からそのゲームに参加する資格はなかった。その組合に入るということは、「覇権ゲーム」に背を向ける、ということでもあった。

 私は、だから、まわりの男たちの動向を見ていた。ある者は、管理職が引越をするというと手伝いに行き、ある者(ほとんどの人)は有力者に付け届けをし、ある者(職場のほとんどの人)は正月の管理職の自宅での宴会に参加し・・・・そういう様々な事象を見てきた。女性にも、そういうひとがまばらにいた。

 男にとって、職場での「覇権ゲーム」の勝者は、いわゆる「出世」である。今でも、どこでも、男たちはそれをめざしてしのぎを削っていることだろう。

 男は、アタマ一つでも上に出ようとする。そのために、公然と隠然とアピールする。

 退職していても、そのクセがなくならないひとがいて、在職中の地位など様々な、他者から優位になりそうな話をする。

 そういう世界には接触しないようにしたいと思い、私は「引退」し、「隠居」しようとしている。

 

 

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権力の暴走を抑える

2023-05-04 08:03:09 | 政治

 『東京新聞』の、昨日の社説。ほんとうは、国民主権の時代であるから、「なりませぬ」ではなく、「やめなさい」でなければいけないのだが、しかし日本には政治的主体が育てられてこなかったから、仕方ないか。

憲法記念日に考える 「偶然」と「必然」の赤い糸

「忠」という言葉があります。江戸時代の武家社会では、主君に忠節を尽くすことが根本でした。
 では、主君が暴君だったら−。暴君による暴虐や不正、理不尽な命令に対してまでも、家臣たちは服従すべきなのでしょうか。
 実は「なりませぬ」と主君を諫(いさ)めることこそ、武士道での忠義の本質だったそうです。著書「主君『押込(おしこめ)』の構造」で知られる歴史学者の笠谷和比古(かずひこ)氏から、かつて聞いた話です。

◆主君押し込めの論理は

 「手討ちや切腹になりかねないけれど、我が身の不利益をも顧みず、あえて主君の命に抗することが真の忠節です。逆にお家のためにならないことが分かっていながら、同調することは、許し難い不忠とされたのです」(笠谷氏)
 でも、暴君とは家臣の命懸けの諫言(かんげん)にも耳を貸さず、権力を強行する存在です。その場合は−。
 「『主君押し込め』です。諫言を阻却し、藩士や領民を苦しめるとしたら、家臣団は力を用いて藩主を交代させても構わないという考えでした。藩主を座敷牢(ざしきろう)に押し込め、隠居させたのです」
 権力の暴走をどう防ぐか−。近代の欧米社会では「憲法の力」によって、権力を縛り、暴走させない−。そのような立憲主義の考え方をとりました。
 歴史は偶然と必然の糸が絡み合って動いていくものです。
 幕末のペリー提督の黒船来航は、日本側には「偶然」に見えたかもしれませんが、米国側にすれば「必然」です。大統領の親書を携え、開国と条約締結を求めにやって来たのですから…。
 明治政府の重鎮・岩倉具視(ともみ)たちが一八七一(明治四)年から七三(同六)年にかけて欧米諸国を回ったのも歴史の必然です。文明の視察にとどまらず、社会を動かす中核的な原理を探す旅でした。
 たどり着いたのが「憲法」でした。それゆえ一足先に帰国した重鎮の一人、木戸孝允(たかよし)は早々に憲法意見書をまとめています。
 さらに伊藤博文が憲法調査のため英国やドイツなどに派遣され、著名な学者たちに学びました。伊藤の成果は後に、枢密院で述べた言葉に表れています。
 <憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり>
 個人は多くの自由と権利を持っていますが、権力はときにそれを奪ったりします。だから、権力を制限せねばならない。立憲主義の本質を見事にとらえています。

◆奇妙な出来事の共通点

 憲法により権力の暴走を防ぐ−そんな仕組みです。さて現代の為政者たちは伊藤博文の理解をどれだけ身に付けているでしょうか。
 近年、奇妙な出来事がいくつも起こりました。例えば内閣法制局や日銀、NHKなどのトップに首相のお友達を据えました。
 独立機関は政府と対抗することも前提として、民主政はつくられています。憲法秩序の一形態として、権力の暴走を防ぐ装置が統治機構に埋め込まれているのです。
 ところが、お友達人事が横行すれば、政府の暴走への歯止めとはなり得ません。検察庁法を解釈変更してまで、息のかかった高検検事長の定年延長を図ろうとしたこともありました。
 日本学術会議は科学分野の「ご意見番」ですが、従来の政府見解を破って、首相が会員候補の任命拒否をした出来事もありました。
 放送局は「表現の自由」や国民の「知る権利」を担う機関ですが、放送法を事実上、解釈変更した舞台裏も判明しました。政府は「けしからん番組は取り締まる」つもりだったようです。
 さて、一連の出来事は「偶然」でしょうか。共通点はどれも独立機関です。つまり権力の暴走を防ぐ装置を権力自ら一つずつ破壊していることです。「なりませぬ」と諫言できる存在を消し去っているのです。民主政に仕組まれた歯止めがなくなれば、「暴君」が現れてしまいます。
 権力自ら憲法秩序を破壊しているなら、それこそ権力の暴走です。そもそも権力者たちが一生懸命、憲法改正の旗を振っているのも何とも不思議な構図です。
 伊藤博文が言い当てたように、憲法とは「権力の制限」に目的があるのですから…。自分たちに都合のいいように憲法を変えたいのではと勘繰られます。

◆「なりませぬ」の声を

 憲法に基づく立憲政治、民主政治では常に「なりませぬ」の声が為政者の耳に届かなくてはならないはずです。われわれも主権者として、権力の横暴や、自由や権利の侵害には勇気をもって「ノー」の声を上げるべきなのです。
 怠れば「暴君」の出現を許してしまいます。それも歴史が教える「必然」の姿です。
 
 
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