私は竹久夢二の絵が好きだ。夢二の絵はがきはたくさんある。ひとと連絡するとき、多くの人はメールをつかうのだろうが、私は絵はがきをつかう。と言っても、最近は交友関係が少なくなっているので、出すことが少なくなっている。
夢二の絵はがきが登場する機会をうかがっているのに、出番がない。以前、歴史学者の故ひろたまさきさんと交流していたときは、夢二を研究していたひろたさんも夢二の絵はがきをつかっていた。お互い、夢二の絵はがきでやりとりしていた。
以前、『芸術新潮』を定期購読していた。しかし、個々の画家をとりあげるのではない特集が続いたのでやめてしまった。でも時々、どんな特集かを確認する。そしてその特集によっては購入する。
7月号を点検したら、夢二を特集するという。東京都庭園美術館で、現在「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」が開催されていることから、『芸術新潮』が夢二をとりあげるのだ。早速注文した。私の書棚には、夢二に関する文献が今も並んでいる。
歴史講座で、「夢二とその時代」をテーマに話したことがある。そのために、夢二の生家や岡山の夢二郷土美術館、夢二がよく行ったという牛窓を訪れ、また夢二が亡くなった長野県富士見の高原療養所あとにも行った。その際につくったレジメやスライドは今も保存している。
なぜ夢二が好きなのかをみずからに問うと、夢二は近代日本国家にまったくなじめない人間であったということだ。夢二は、近代日本国家の一定の価値観から離れて生きた。その象徴として、彼は、元号を一切使わなかった。
歴史講座で、私は夢二について、最後にこう語った。
石川啄木や大杉栄らのように、近代日本国家に「違和感」を持った人間ではなく、本来的に近代日本国家に馴染むことがなかった人間、それが夢二であった。夢二の作品が今も尚人々の関心を集める所以は、近代日本国家の価値観に染め上げられていないこと、そうしたものから自立していたからに他ならない。その時代の国家的価値観に寄生し、その価値観を身につけ、当該期にどんなに売れたとしても、その人間はいずれ歴史のくずかごに捨てられるだろう。その理由は、時代を超える普遍性を持たないからである。
近代日本の価値観とは、天皇制(→「国体」思想)、ナショナリズム(→排外主義)、軍国主義・帝国主義(→植民地帝国)、資本主義(→格差社会)、私有財産の不可侵(財産権=人権の一つ)、自由放任と国家主導の資本育成(殖産興業、富国強兵)、家父長制(→「家」の束縛)、そして立身出世主義である。国家の価値観と合体する者は、国家的秩序の階段を上にあがることが許容され、カネや名誉などが与えられる。
夢二は、そうした価値観とは無縁であった。