大杉栄の思想を紹介していく。
大杉の思想や行動の根本には、今、実際に生きているみずからのこの生を、どこまでも拡充させていくという強い意志があった(「生の拡充」)。
運動には方向はある。しかし所謂最後の目的はない。一運動の理想は、其の所謂最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動其者の中に在るのだ。運動其者の中に其の型を刻んで行くのだ。
自由と創造とは、之れを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づ之れを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ。
自由と創造とを吾々自身の中に獲(え)るとは、即ち自己の自己である事を知り、且つこの自己の中に、自己によつて生きて行く事を知るの謂である。
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自由と創造とは、吾々の外に、又将来にあるのではない。吾々の中に、現に、あるのだ。(「生の創造」、1914年、『全集』2)
運動には方向はある。しかし所謂最後の目的はない。一運動の理想は、其の所謂最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動其者の中に在るのだ。運動其者の中に其の型を刻んで行くのだ。
自由と創造とは、之れを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づ之れを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ。
自由と創造とを吾々自身の中に獲(え)るとは、即ち自己の自己である事を知り、且つこの自己の中に、自己によつて生きて行く事を知るの謂である。
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自由と創造とは、吾々の外に、又将来にあるのではない。吾々の中に、現に、あるのだ。(「生の創造」、1914年、『全集』2)
未来に理想社会を夢見る者は、理想社会ができたら・・・という思考を持ちやすい。未来に希望を託し、今はそのための手段とみる。あるいは理想社会ができていないのだから、今は我慢しよう、と考える。あくまでも理想社会は、彼岸のことなのだ。
ところが大杉は、そうは考えない。今生きているこの現在、現時点において、まさにここに、理想(社会)を刻印していくのだと考えた。
となると、当然自らを包囲し、それを妨げるものと闘っていかなければならない。生の拡充には、叛逆の精神が付随する。
自我は活動と反省とによって、これを捕捉し発育せしめることができる。そして吾々はまず、この捕捉し得たる自我をして、その固有の性質たる自由と創造とを、自由なる思索と行動とを、その為し得る一切の方面に働かさねばならぬ。
かくして吾々は、はじめてそこに、自我と周囲との峻烈なる闘争を見るのである。新人の恐るべき努力を見るのである。
この努力と闘争とのないところに、自我の真の発展は見出され得ない。自我の強大はこの努力と闘争との仲にのみ求められべきものである。自由と創造との理想の信仰には、人格の鍛錬には、必ずこの闘争の野を経なければならぬ。
しかも今日の如き、ほとんだあらゆる社会的制度が、自我の圧迫と破壊とにつとむる場合において、自我の向かうところは、これ等の社会的諸制度に対する叛逆のほかはない。(「生の創造」、1914年、『全集』2)
かくして吾々は、はじめてそこに、自我と周囲との峻烈なる闘争を見るのである。新人の恐るべき努力を見るのである。
この努力と闘争とのないところに、自我の真の発展は見出され得ない。自我の強大はこの努力と闘争との仲にのみ求められべきものである。自由と創造との理想の信仰には、人格の鍛錬には、必ずこの闘争の野を経なければならぬ。
しかも今日の如き、ほとんだあらゆる社会的制度が、自我の圧迫と破壊とにつとむる場合において、自我の向かうところは、これ等の社会的諸制度に対する叛逆のほかはない。(「生の創造」、1914年、『全集』2)
みずからを取り囲む社会的制度その他が、自我のみならず生そのものを圧迫し破壊してこようとするとき、それに叛逆しなければ生の創造はあり得ないのである。(続く)