もと兵庫県議の竹内さんが自死されたという。痛ましい事件である。SNSによる執拗かつ卑劣な攻撃の渦のなかで、死に追い込まれたようだ。
日本社会には、勝手気ままに暴言を吐くような人物がいても、周囲は腫れ物にでも触るような気遣いをして、そのような人物をおさえるような動きをしない。勝手気侭に振る舞う輩は、だから行動を改めるようなことはしない。
わたしが耕作している畑の隣で米を作っているヤツがいる。畑の際(きわ)に多くの雑草を積みあげていたら、そこはオレの土地だと言ってきた。通常、畑と田の境界は、畑から斜面をおりた田との接点なのに、斜面の上までおれの土地だと言ってきた。いままでは、その斜面の除草はわたしがやっていたのだが、そういうならまあいいや、除草を彼にやってもらえばと思い、「ああそうかい」と言ったまま別れた。その間のやりとりは、すべて怒号である。
一度こちらの耕作について怒鳴ってきたことがあり、畑のなかで怒鳴り合いをした。それまでは、通常の大人の対応をしていた。その直後、怒鳴り合いを見ていた近所の人から、彼がいつも気に入らないことがあると人びとに怒鳴りつけていたことを聞いた。その人になぜそれをもっと早く教えてくれなかったのか、と言ったことがある。近所の人は彼をあまり刺激させないようにしているという。しかし、わたしはそうではない。
怒号で来るヤツには、怒号で返す。さもないとつけあがるからだ。
今まで人生を生きてきて、こちらが譲歩すると図々しく一歩踏み出してくる輩がいること、それもかなり多いことを学んできた。
竹内もと県議へのSNSについての分析記事がある。それをみると、少しでも退くと攻撃の量が増える。日本人だけの習性かどうかは知らないが、弱いところをみせると攻撃を強化する卑劣なヤツがいる。「水に落ちた犬は打て」という魯迅のことばがある。魯迅がそれを書いた背景はまったくことなるが、彼らの立場から同じことをしている。
「敵に後ろを見せてはならない」は、生きていく上で必要な姿勢だと思う。もちろん、弱者や敗者へのあたたかい思いやりも必要である。要は人を見て対応せよということだ。相手が悪人なら、悪人ときちんと認識して、それなりの対応をすべきなのである。悪人には弱みを見せてはならない。