浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ひどい親ほど・・・

2016-05-10 09:26:17 | その他
 浜松市には紡績工場や織物工場が多かった。今はほとんどない。大手の紡績工場は完全になくなった。東洋紡、東棉紡、近藤紡・・

 そういう工場では、中学校を卒業したばかりの女子をたくさん雇用していた。すでに高校への進学率はかなりたかくなっていた。しかしそれでも、高校に進学できない子どもは地方にたくさんいた。紡績工場や織物工場は、全国各地に募集人を置いていた。東北地方や北海道、九州、五島列島など、豊かではない地域から、中学校を卒業したばかりの女子が浜松の工場に働きに来ていた。各地の募集人が、中学校や家庭に赴き、支度金などを渡し連れてきていた。その際、働きながら学べる、をうたい文句に、昼間定時制という高校を業界団体の要求により静岡県は用意した。

 労働現場など、「女工哀史」を思わせるところもあったが、子どもたちはがんばった。高校卒業の資格を得たいという決意が強かったからだ。ある週間には朝早くから、次の週には夜遅くまで働くという生活だった。職場環境も悪く、労働基準法が守られていない職場もあった。

 多くは、確かに貧しい家庭の子どもであった。母子家庭の、失業中で酒浸りの親に育てられていた子どもなど、家庭環境は決してよくはなかった。

 貧困は仕方がない面が多かった。しかし、いろいろ話を聞いてみると、中にはひどい親がいた。驚いたのは、客観的に考えて、とても普通の親のあり方ではないと思われる親を持つ子どもほど、親のことを心配するのであった。なぜそんなひどい親を・・・?その心理を理解することはできなかった。

 そして今日、『朝日』の記事を読んで、この頃のことを思い出した。


「「お金貸して」母の無心断れず 生活費稼ぐため風俗店へ」という記事だ。

http://www.asahi.com/articles/ASJ4T42VVJ4TPTFC006.html?iref=comtop_6_02
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1 コメント

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近藤紡績で働いていました (いつき)
2018-03-28 00:49:05
中学卒業して
寮に入っていました
早番は5時出勤
遅番は13時45分から出勤でした
一週間交代で
A 番B 番にわかるてました
私はB 番でした
同時は早番がきつかったです
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