今日は、豊田市美術館に行った。「しないでおく、こと。ー芸術と 生の アナキズム」という展覧会があったからだ。浜松から豊田市は、なかなか遠い。しかし、行かずばなるまいと思い、車に乗って馳せ参じた。
展覧会は小規模で、これで1500円かいなと思うほどのもの。最初に新印象主義の画家の絵が陳列されていた。絵はほぼそれだけだ。ほかには、モンテ・ヴェリタ、シチュアシオニスト・インターナショナルSituationist ーinternational、ロシアと集団行為に関する展示、マルガレーテ・ラスペの作品など。またそれぞれが行った芸術活動の様相がヴィデオで示されていた。そして床などのスペースには、「コーポ北加賀屋」の作品というか、ゴミのようなものが置かれていた。片づけなければならないと思うほどであった。
若い頃、前衛劇をよく見た。台詞には意味深長なことばがちりばめられ、俳優の所作には象徴的だと思われるものがあった。わたしはしっかりと見つめ、真面目に台詞の意味を考えようとした。
しかしそこには、重大な意味なんかないことに気づいた。一瞬の台詞や動きに、感覚的に反応し、面白ければ笑う、ただそれだけのものだということを学んでいった。
今日はヴィデオをいくつか見た。そこに映し出されている人びとは、真剣に何ごとかをし、真面目に台詞を語っている。しかし通常の感覚からは、くだらない、何の意味もない、あほらしく思うものばかりだ。
わたしは、しかしすでに学んでいた。そういうものをとにかく受容する、しかし理解しようとはしない、ただ受容する、可笑しかったら笑い、理解不能なものはそういうものとして受容する・・・
わたしたちが理解できるものは、一定の秩序とこの社会の約束事に縛られているもので、既知のものと何らかの関係をもちうるものだからこそ、わかる、のである。しかし秩序もなく、了解可能な意味もないものには、違和感をもち、ある場合は拒絶する。
芸術とは、まったく自由でなければならない。人びとの既知なものと連係させることをしないでもよく、作者の勝手な構想や思いを、そのまま何らかのものに表現すること、それが芸術でなければならない。とするとき、芸術は何でもあり、なのだ。
この展覧会の趣旨、にはこうある。
「芸術=創造とはそもそも、いまだ了解されない認識や知覚の領野を拡張していく営みです。」
そのとおりである。そしてこう続く。
「ゆえに芸術とは「芸術」として名づけられ、一つに回収されてしまうことへの抵抗をあらかじめ含んでいます。」
これもその通りであって、その後に、「制度化され、統治されることへの抵抗・逃走の姿勢=アナキズムに芸術の本来的な力を認め、その可能性を問う」とある。
つまり、芸術はアナキズムと親和性があるということを言おうとしているのであろう。それにもわたしは同意する。
だが、これら展示された作品群からは、この展覧会を企画したキュレーターの意図をしっかりとつかむことはできそうもない、表面的な受容で終わってしまいそうな危惧を感じた。
展覧会に行くたびに図録を買うことが多いが、今回は買おうという気がしなかった。キュレーターの意図を、展示されている作品群から帰納的に推察するには、どうも無理があるような気がしたからだ。