高校の教科目に「歴史総合」ができてから、いったい何年になるのだろうか。今までの世界史と日本史の近現代史が一緒にされて「歴史総合」となり、そのあとに「日本史探究」「世界史探究」を学ぶということになっている。
この「歴史総合」について少し勉強しようと思い、岩波新書の『新しい世界史へー地球市民のための構想』(羽田正)、『世界史とは何かー「歴史実践」のために』(小川幸司)の二冊を読んだ。いずれも触発される内容であった。羽田は大学の教員、小川は長野県の高校教員である。
羽田は、副題にあるように「地球市民」をつくりだすための世界史をつくろうという、ある種無謀な構想を抱いたものだが、新鮮な内容であった。最近、わたしも実感しているが、若い研究者のタマゴには、「なぜそのテーマを研究するのか、現代においてそのテーマを研究する意義は何か、という点について、歴史研究者は、十分自覚的でなければならない」と書くほどに、そうした自覚が感じられない。羽田は、この点について、「地球市民」意識をつくりだすための世界史を提案する。現在、ロシア・ウクライナ、パレスチナその他、世界各地で戦乱が起きているし、また気候変動が地球上の生物に危機的な状況を生みだしているから、そうした提案は、難しいけれども、取り組むべき課題であると思う。ただ、今までの世界史の研究が、それぞれの地域、国の研究に特化しているから、「地球市民」の立場から世界の歴史を構想するのはまったくもってたいへんなことだと思う。
小川の本は、歴史教育に携わっている者には、必須の文献ではないかと思った。わたし自身もたいへん参考になったが、しかし小川はこの本を書くに当たって、また授業を展開するにあたって、厖大な文献や資料を博捜して組み立てている。歴史教育は、そうでなければならない。
小川は、「ノートや穴埋めプリントを用意しません。教科書と生徒のタブレットパソコンに配信する資料プリントが主な教材」だと書いている。わたしも現職時代は、毎時間複数の資料プリントを用意し、それに沿った授業を行った。その資料をつくるためには、厖大な時間とカネを要した。小川がこの本を書くに当たっての文献が各章ごとに記されているが、まことに多い。しかしたくさんの文献その他を渉猟しないと、授業に効果的な、あるいは子どもの歴史認識に影響を与えることができるものは手に入らない。
ただし、そういう教員はまれだ。ほとんどの教員は、穴埋めプリントか歴史的事項をただ書きこむだけのノート(すでに印刷されたもの)を使用し、書き入れるべき用語を書入れさせるだけの授業を行っている。いろいろな文献を読んで授業を組み立てる教員なんか、今はほとんどいないだろう。現職の頃、若い頃は別として、同僚と授業に関係する文献について話したことは一度もない。出入りしている書店主から、先生方が最近本を買わなくなったという愚痴を聞いたのはかなり前だ。
だいたいにして、部活動の顧問をしたいから教員になったという社会科教員がかなりいた。野球などの部活動の顧問をしていたら、本を読む時間はない。
小川は、子どもたちに問いを持たせる授業を提唱している。問いを持つことにより、より深く歴史について考えることができるはずだから。
小川は問いを持たせるということだけではなく、有益なことを提起している。それは市民向けの歴史講座でもいかせる内容にもなっている。時にこういう本を読むと、いろいろ考えさせられる。