浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

人間はカネに弱い

2015-01-13 09:59:33 | 日記
 オレオレ詐欺がなくならない。同じような手口なのに、なぜ引っかかるのかといつも疑問に思う。しかしこれは家族への愛情を利用したものだ。被害者には同情するしかない。

 他方、「還付金等詐欺(返します詐欺)」「金融商品等取引名目の詐欺(もうかります詐欺)」というものがある。いずれも、カネが返ってきますよ、カネが儲かりますよ、という内容のものだ。これらもなくなっていない。特に後者は、犯人に対する怒りをおけば、欲をかくからだ、ということになる。

 カネ、これはなかなか力を持つ。

 現在の安倍自民党政権は、カネの力を駆使して自らの悪巧みを実現させようという、品性がまったく感じられない政党であり、また政治家たちだ。彼らはカネの力だけではなく、ネトウヨなども利用して、敵対すると彼らが考える勢力や人に対して理不尽な攻撃をする。

http://lite-ra.com/2015/01/post-776.html

 沖縄で辺野古新基地建設に反対する知事が当選すれば、沖縄への振興予算は減らし、会いに来た翁長知事にも会おうとしない。子どもじみた愚行である。こういう愚行を平然とする安倍政権をなぜ支持するのかとボクなんかは疑問に思うのだが、しかし「景気回復」とか「アベノミクス」などというカネにまつわる政策(愚策)を信じている人たちがあんがいいるのだ。

 安倍政権は、湯水のごとくカネをつかいまくっている。「アベノミクス」の第二の矢というのだろうか、大胆な財政支出をしている。カネをばらまいている。そうすると土建屋がもうかる。選挙の際には、彼らがしっかりと動いてくれる。

 最近のニュースでいえば、北陸や北海道の新幹線の延長線の建設が決められた。財政危機が叫ばれる中、ブレーキがかけられていたものだ。それぞれの地元の経済界は大歓迎である。その建設に莫大なカネが投下される。
 だが人口の少ない地域では、新幹線が走れば在来線が確実に衰退する。在来線の経営は、JRから地元へと譲渡される。地元の「足」が確実に減っていく。

 今年4月、統一地方選が行われる。新聞には、「「地方創生」予算1兆円を新設」とある。「地方自治体が2015年度に政策のために自由に使える予算の総額が過去最大の61・5兆円になることが12日、決まった。人口減対策などの「地方創生」のために使える1兆円の予算枠を新たに設けるなど、今年春の統一地方選もにらんで手厚い予算になった。」(『朝日新聞』記事の一部)。選挙で勝つために、地方にカネをばらまくのだ。

 なぜこういうことができるのか。消費税が8%になったからだ。増税するときには、財政が厳しいから、社会保障を充実させるためだからと言っていたが、実際は選挙で勝つためにカネをばらまくためであったのだ。また特に、米軍関連や防衛費(軍事費)は伸びている。安倍政権は、みずからの野望(壊憲など)を実現するために、カネをばらまく。オレのあと、財政も社会保障もどうなっても知らないよ、と考えているのだろう。

 カネをばらまいて選挙で投票してもらい勝利し、そして「大日本帝国」へと回帰させる政策を推進する。

 人間はカネに弱い。正義や真理のために行動する人は少ない。そこを安倍政権はついてくるのだ。

 だが沖縄の人は、そうであってはいけないと、すべての選挙で安倍政権の汚い、人間の劣情を喚起するやり方に対して、ノーの意志を表明した。カネよりも大切なものがあるのだ、と。

 カネは生きていく上で、確かに必要なものだ。だがカネとひき替えに何か大切なものを失っているのではないか。2015年は、それも考えていくべきではないだろうか。

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イスラムへの理解

2015-01-12 09:32:08 | 社会
 フランスにおける反テロのデモは、100万人以上の参加だと言われている。こういうテロは、許してはならない。

 毎日のニュースを見ていると、あちこちで「自爆テロ」がおこり、普通の庶民が殺されている。殺された人々の無念さを思う。

 テロを起こしている人の多くは、ムスリムである。だが過去を振り返ってみると、こういうテロがいつもあったわけではない。なぜテロ事件が頻発しているのだろうか。

 あるいは、中東では国家が崩壊し、武力紛争や内戦が起きている。だがずっと昔から国家が崩壊しているわけでもなく、内戦もなかった。なぜ武力紛争や内戦が各所で起きているのか。

 そういうことを考えると、欧米諸国の様々な介入、とくにアメリカの公然たる、あるいは非公然の干渉に起因することが多い。もちろん新自由主義的な経済政策もその背景の一つだ。

 一定の安定した状態を、いったい誰が壊していったのか。その原因を考えなければならない。

 こうしたテロ事件が起きると、反イスラムの風潮が生じることはやむを得ないことだが、しかしそういう風潮は否定されなければならないし、同時にイスラム教を理解する努力も必要になる。みずからの価値観で、イスラム教は「おかしいのでは」と思うのではなく、イスラム教がどういう宗教なのかを知る必要がある。共生は相互理解にもとづくことによって成し遂げられるからだ。

 今、井筒俊彦の『イスラーム文化』(岩波文庫)を読んでいるが、そこにこういう記述があった。

「・・少なくとも敬虔な信者である限り、人は法を意識することなしには、日常生活すら生きることができない。・・・イスラーム法を叙述した本を開いてみますと、まず最初に出てくるのは、宗教的儀礼の規則、たとえば、メッカ巡礼のやり方とか、ラマダーン月の断食の仕方、それから日に五回の礼拝の仕方、礼拝に臨む場合の身の清め方ーどういう種類の水を、どう使って、体のどの部分をどういう順序で洗うか、水がない場合には水の代わりに砂を使うのが昔の習慣でしたが、どんな砂をどんな風に使ったらいいのか。ところが、すぐその次に、われわれなら民法、親族法として取り扱うはずの家族的身分関係を律する細かい規則が出てきます。結婚、離婚、再婚、持参金、遺産相続、扶養義務、などです。そうかと思うと次に、それにすぐ続けて、こんどは商法関係になって、取引の正しい仕方、契約の結び方、支払いの仕方、借金の仕方、借金返済の方法などです。次は刑法的規定で、窃盗、殺人、姦通、詐欺、偽証など。そうかと思うと、食物や飲み物、衣服、装身具、薬品の飲み方、香料の使い方、挨拶の仕方、女性と同席し会話するときの男性の礼儀、老人に対する思いやりの表し方、孤児の世話の仕方、召使いの取り扱い、はては食事のあとのつま楊枝の遣い方、トイレットの作法まである。これほどまでに決めなくてもと、われわれならつい思いたくなるほど、社会生活から家庭生活の細部に及んで詳細に規定されている」(160~161)

 以上のように、イスラム教では神があらゆることをこうしなさい、こうするな、と命令しているのである。敬虔なムスリムは、このような些末とも思える法をひたすら守ろうとする。日常生活などすべてのところで宗教が入り込み、聖と俗の分離、あるいは政教分離なんか、まったくあり得ない世界なのである。

 だからたとえば、フランスに住んでいるムスリムの少女に、学校ではスカーフをとりなさい、というのは、キリスト教の論理でムスリムとしての生を揺るがしているということになるのである。

 共生というのは、相互に理解し合ってはじめて成り立つはずだ。自分たちの価値観でいろいろなことを判断するのはやむを得ないことだけれども、しかし現在のように、人の移動がGlobalに展開する時代である、イスラームの文化がどういうものであるかを知った上で価値判断することは必要だろう。

 亡くなったが、サイードの『オリエンタリズム』(平凡社)は、今もなお、読むべき本であり続けている。

 欧米諸国の、イスラム世界への様々な干渉は、その背後に「差別」があるのではないかと、ボクは思う。

 差別される側の怒りが、大きくなっているのではないか。それが、頻発するテロの背後に広がってるのではないか。

 ボクは、テロも、戦争も、あってほしくない。人類が築き上げてきた多種多様な文化や文明を、国境を超えて相互に訪問しながら、感動し合うということを、こうした騒然とした状況が妨げている。  
 
 テロを撲滅するといって暴力を行使すれば、またさらなる暴力が襲いかかる。そうしたサイクルをどうなくしていくか、21世紀はそれが求められている。


 
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見えないことと見えること

2015-01-11 08:07:21 | 政治
 昨日、富士市に行った。富士山は、くっきりとその姿を現していたが、車で東に向かうとき、富士山の姿がはっきりと出現するのは、大井川あたりである。大井川は、駿河と遠江を分かつ川である。静岡市など駿河では、富士山はその美しさと共に、その偉容さも見える。

 大井川を渡るとき、駿河と遠江とは、異なる地域であるということを実感する。遠江から富士山が見えるところはたくさんあるが、しかし富士山はとても小さい。遠江からは、富士山は見ようとしないと見えない。

 さて、ボクはイスラムについて語ろうと思う。

 日本人のほとんどは、イスラムを知らない。ムスリム(イスラム教徒)の人口はとても多いが、日本ではそんなに日常的に見かけることはない。だからイスラムの文化を知らない。

 こういう事件が起きると、どうしてもイスラムに向ける視線は厳しくなる。事件を起こしたのはムスリムだからだ。だが、すべてのムスリムがテロリストかというと、これは絶対に違う。もちろんムスリムの聖典は『コーラン』である。だからムスリムの信仰はまったく同一であると認識するのは仕方がないのだが、しかし実際にムスリムの間でスンニ派とシーア派という対立があるように、あるいは仏教には様々な宗派があるように、イスラム教には『コーラン』の内容についてたくさんの「解釈」があるのだ。今問題になっている「イスラム国」も、アブバクル・バグダディという指導者がいるが、彼は自らを「カリフ」とした。「カリフ」とはムスリムを統率する指導者ということだ。
 『コーラン』を様々に解釈する「・・・師」がたくさんいて、その「・・師」のもとに、ムスリムはアッラーの神に祈りを捧げるのだ。

 実はボクは、イスラム文化を理解すべく、また某所での講義の内容をイスラム文化と決めて、井筒俊彦氏の本を読み込んでいる。

 何でもでうであるが、日常生活で見えないことをきちんと見えるようにすることも重要だ。それがないと、誤った認識を持ってしまう。
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パリのテロ事件について

2015-01-10 20:32:54 | 政治
 パリのテロ事件について、ボクたちは考えなければならないことがある。そのためにこれも読んで欲しい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20150109-00042123/
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自民党という政党

2015-01-10 19:58:36 | 政治
 とにかく読んで下さい。ダーティな政党、自民党。

http://lite-ra.com/2015/01/post-776.html
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攻勢に出ること

2015-01-09 17:14:33 | 政治
 『世界』2月号に掲載されている、もと朝日新聞記者の植村隆さんの「私は闘う」という文を読んだ。植村氏に対する攻撃は、不当以外のなにものでもない。このような攻撃には、断固として攻勢に出るべきであると思う。
 歴史修正主義者は、相手が一歩引けば一歩、二歩引けば二歩とやってっくる。だからまず踏みとどまり、一歩、二歩と前に出るようにしていかなければならない。

 彼らは、ほとんど知識もなく、誰かの口まねをしながら、日常生活ではとてもつかえない言葉を乱発して攻撃する。まさに知的に劣化している者たちである。

 久しぶりに届いた『週刊金曜日』の西野瑠美子さんの文を読んだが、外交評論家という肩書きを持つ岡本行夫氏、北岡伸一氏の個人的意見(朝日新聞の第三者委員会の報告書)の底の浅さに驚いた。彼らは、朝日新聞の記事が、韓国での過激な言説を「エンドース(裏書き)してきた」などとするのだが、それはまったくの根拠なき「印象」であり、一応知的レベルが高そうな人であっても、攻撃する時はまったく知性を感じさせないのだ。

http://www.asahi.com/shimbun/3rd/3rd.html



 それに対して、林香里氏の「データから見る「慰安婦」報道の国際報道状況」は素晴らしく、きちんとした調査の結果、「もっとも端的な結論は「朝日新聞による吉田証言の報道、および慰安婦報道は、国際社会に対してあまり影響がなかった」ということになるかもしれない」としている。詳しくは、下記の報告書を読んでいただきたい。

http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122204.pdf

 植村氏の文は、「不当なバッシングには屈しない」という、いわば戦闘宣言である。ぜひとも応援していきたい。

 http://makerunakai.blogspot.jp/

 また次のような時事配信記事に接した。

元朝日記者が文春など提訴=「慰安婦捏造」は名誉毀損―東京地裁

時事通信2015年1月9日(金)16:12

 元朝日新聞記者で従軍慰安婦報道に関わった北星学園大(札幌市)非常勤講師の植村隆氏(56)が9日、週刊文春で「捏造(ねつぞう)記事」などと書かれて名誉を毀損(きそん)されたとして、発行元の文芸春秋と誌上で発言した西岡力・東京基督教大教授に計1650万円の損害賠償などを求める訴訟を東京地裁に起こした。

 訴状によると、問題となったのは週刊文春の昨年2月6日号の記事など。1991年に植村氏が慰安婦について書いた朝日新聞の記事をめぐり、西岡氏は「捏造記事と言っても過言ではない」などと誌上で批判した。

 提訴後に記者会見した植村氏は「朝日新聞が設置した第三者委員会でも捏造はないと認められた」と強調。家族への誹謗(ひぼう)中傷や大学に対する脅迫があったことについて「記者である以上、批判はしょうがないが、家族が巻き込まれたら言論のレベルではない」と話した。 


 不当な攻撃にたいしては、その不当さをひとつひとつ反撃していかなければならない。

 
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偏狭

2015-01-09 11:41:49 | 政治
 日本国憲法の前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」とある。「圧迫と偏狭」を除去したくない人たちが今、政権を握っている。

 『東京新聞』の記事。

自民党は8日、2015年度の沖縄振興予算を審査する党会合に、上京中の翁長雄志(おながたけし)沖縄県知事を招かなかった。翁長氏は昨年末、安倍晋三首相や菅義偉(すがよしひで)官房長官への面会を求めたが、会えなかった。米軍普天間(ふてんま)飛行場(同県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古(へのこ)への移設反対を訴える翁長氏に対して、政府・自民党の冷たい対応が続いている。

 自分たちと考えを異にする知事とは会わない、という偏狭さ。しかし翁長知事は、沖縄県民が選出した人である。何という狭量な人たちだ。こういう人間が、日本の政治を担っていると思うとがっくりする。

 また、沖縄の振興予算も減額するという。カネで沖縄県民をしめあげようというのだ。

 安倍政権が、日本国憲法を敵視するのも頷ける。まさに「圧迫と偏狭」そのものを実践する人たちが集う政党、それが自由民主党。

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パリのテロ事件

2015-01-08 19:58:53 | 社会
 物騒な時代になった。白昼、新聞社が襲われて12人もの命が奪われるというかなしい事件が起きた。

 この事件を報道するテレビのコメントは、「表現の自由」や「報道の自由」が暴力によって侵害されたという。その通りなのだが、しかしテロ事件を起こした者たちは、そういう考え方をもってはいない。そうした「自由」なんか糞食らえと思っているはずだ。そういう人々に「表現の自由」の侵害だと非難しても、事態は変わらない。

 要するに、今、テロ事件を起こした者たちとの、共通のことばや思考がなくなっているのだ。

 なぜそうなったのか、を考えなければならない。
 現在の事態がどういう経緯で起きてきたのか、その源をさかのぼること、そこから考えずに、ただ対処療法的に暴力に対して暴力を対置するのであれば、暴力(テロ)はさらに燃え広がるだろう。

 ボクは、その際にいつも、アメリカという国家を想起する。アフガンのアルカイダを育てたのは誰か、フセイン統治下のイラクを崩壊させたのは誰か、シリアをひどく混乱させたのは誰か、はたまたウクライナは・・・・・常にその裏に、アメリカという国家が存在しているのだ。アメリカという国家は、軍隊を派遣しないまでも、カネを投下したり、CIAを動かしたり、アメリカという国家が許容できない国地域に混乱をつくりだしてきた。みずからの支配下におくためだ。もっともうまくいったのが、わが日本である。わが日本のような「属国」をつくりだそうとしてきたのだ。しかし、どこも日本のようにはうまくいかなかった。どこでも、アメリカの言いなりにならないという気概をもっているからだ。

 なぜシリアやイラクの地域に「イスラム国」があるのか。もしフセイン政権が倒されなかったら、こういう事態は起きていなかったのではないか。

 アメリカは自ら混乱を引き起こし、そしてその混乱がみずからの利害にあわないと判断するとそれを押さえにかかる。そうして世界中に混乱をつくり出し、その過程で多くの人を死に至らしめてきた。

 そうしたアメリカのやり方に対して、イスラム圏の人々がテロで復讐を行っているのだ。

 もちろんボクは、パリで起きたようなテロを容認する者ではない。しかし、その背景や経緯をしっかりと認識する必要があると思うのだ。

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マックの異物混入

2015-01-07 22:09:29 | 社会
 ボクは、マックには数回しか行ったことがない。だからあまり関心を持っていなかったが、タイの工場の門にあった「カーギル」の名。

 カーギルは、アメリカの多国籍穀物メジャーだ。いろいろ問題が指摘されている会社である。マックだけでなく、この会社のことにも言及する必要があるのではないか。
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伊藤和子弁護士に同感

2015-01-07 20:08:40 | 社会
 ろくでなしこさんの逮捕・起訴について、何度か「おかしい!!」と書いてきた。弁護士の伊藤和子さんも、下記のように問題化している。読んで欲しい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20150107-00041933/
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これは読むべき

2015-01-07 09:18:37 | 政治

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-c7f0.html
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【本】竹信三恵子『ピケティ入門』(金曜日)

2015-01-06 18:03:50 | 
 昨日書店で購入した本の一冊。

 今日、ネット見ていたら、全国で書店がどんどん減り、自治体のなかに書店が一つも無い地域が増えているという。そうだろうな。浜松市内でも、昔からの小さな書店は姿を消し、全国各地に店を持っている書店が増えている。浜松市は、昔からのY書店が幅をきかせているが、市の中心部や大型店に併設されていて、各所に支店が散在してるわけではない。
 人口の少ないところだと書店の経営も難しいのだろう、ボクの知り合いも書店をやめてしまった。
 ボクも、今はほとんどの本は、ネット(honto)で購入している。というのも、ボクが読むような本は、一般的に売れないので店頭で見つけることが難しいからだ。

 とはいえ、今日紹介する本は書店に積んであった。隣には池田信夫のものがあったが、ボクは池田という人に傲慢さを感じているので読む気もしない。

 さて現在注目されているピケティ。彼の『21世紀の資本』、買ってはあるが、読んではいない。

 著者の竹信は、『週刊金曜日』の12月19日号で、大内裕和と対談を行っている。その内容は、ピケティの主張にあまり言及していなかった。そこでこの本を購入。

 ピケティの主張はおいておいて、この本の特徴は現在の日本が抱えている問題群をもとに、ピケティの主張を入れながら(に即しながら)、その問題群をどうしたらよいかというきわめて実践的な問題意識を持って書かれている。

 本書でいくつか印象に残ったが、まず「富裕層の政治支配は、日本ではすで実現しています」ということだ。経団連や「富裕者」を様々な諮問会議の委員にして、彼らの主張を政策にしているわけだから、自民党政権の政治がまさに「富裕者」のための政治になっている。それは現在の安倍政権の政治の中身をみれば明らかである。

 また安倍政権が言う「地方創生」の手っ取り早い施策は、最低賃金の全国均一化であるという意見に全く賛成である。なぜ地方から東京などに若者が集まるかと言えば、地方ではいくら働いても、あまりに安い賃金であるからだ。

 そして最後の「格差批判は「そねみ」とは違います。格差によって起きる社会のひずみを明らかにし、これを縮小する手だてへ向けた最初の一歩が格差批判なのです」は、その通りであって、社会的・経済的弱者への思いやりが、日本人から消えていくような気がしてならない。まさに安倍政権がそういう政治を行っている。

 本書は、ピケティの主張の解説もあり、また現代的課題も提示されていて、読みやすい本である。読むことをおすすめする。

 
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【本】添田孝史『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)

2015-01-06 13:06:55 | 
 外は雨。肌寒い日だ。昨日書店で購入した本、今読み終えた。日本という国に肌寒さを感じる内容だ。

 2011年の東日本大震災は、津波によって多くの人をの命を奪った。また地震と津波は、福島原発に過酷な事故を引き起こした。「絶対に安全」だといわれていたのに、事故は福島県の人々を故郷から離し、放射能の恐怖の中での生活を余儀なくさせている。

 ところが、この事故の責任を誰もとっていない。それだけでなく、またもや「安全」は保障されたといい、原発の再稼働が確実視されている。懲りない国日本(人)。

 著者は、もと朝日新聞記者。今はフリーである。彼が「あとがき」にこう記している。

 間違えば国土の半分が使い物にならなくなるような技術を、慎重に謙虚に使う能力が無い。しかも経済優先のため再稼働を主張し、科学者の懸念を無視して「リスクは低い」と強弁する電力会社や規制当局の姿は、事故後も変わっていない。

 だから彼は、「彼らに原発の運転をまかせるのは、とても怖い」と断じる。

 事故のあと、政府、国会、民間、そして東電の事故調査が行われた。その報告書はかなり短時間にまとめられた。だが、それで終わりのようだ。じっくりと事故の原因を調査する気配がない。

 本書によると、BSE問題(BSEが人に感染することはないという誤謬)で失策したイギリス政府は、その誤りを検証するために委員会が設置され、約3年かけて4000頁、全16巻もの報告書をまとめ、さらに調査の際に入手した資料や証言がネットで公開されているという。またスリーマイル事件について、アメリカ原子力規制委員会は、20年かけて詳細に分析をおこない本にしたという。

 アングロサクソンに追随する日本国家は、こういう姿勢に学ぼうとはしないようだ。

 さて本書は、東電の作為的・不作為的な動きを明らかにする。貞観地震/津波に関する知見を知っていたのに、それに対して何の対策もおこなわず不作為で通し、関係する官界や学会には、手をまわして不作為を貫くために作為を繰り返していた。まさに犯罪的な会社である。

 そして東電の作為にのせられた学者や学会。土木学会がそれだ。そして中央防災会議、保安院などに巣くう官僚たち。そして事故の責任を追及する人々に対して、不起訴で原子力ムラの住人を不起訴にする検察。

 まさに、原子力政策にかかわる者たちの、作為・不作為による責任を、資料をもとに厳しく追及した本、それがこの本である。

 巻頭は、「専門家の言っていることを、頭から信用するのは危うい」で始まる。そして自らの責任も振り返りながら、「専門家に食い下がる知識と執念が足りなかった」と反省する。

 これは、別にメディアに携わる者だけでなく、一般市民も、できるだけ知識を集積して、問題があれば執念深く追及する姿勢をもたなければならないということだ。

 今、事故の責任を追及する場は、裁判所で為されているが、メディアも続々と追及の矢を放たなければならない。

 事故の責任をなんら感じることなかった「原子力ムラ」の住人たちは、再稼働に向けてうごめいている。そういう輩に、鉄槌が下される日は来るのであろうか。

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「大日本帝国」の紙幣偽造

2015-01-06 08:50:53 | 近現代史
 過去に起こしたことは、きちんと認めること、これがもっとも重要である。過去に起こした不都合な事実を隠蔽したり、隠そうとしたりすることは、よけいに信用をなくす。

 「慰安婦」問題や、南京虐殺事件などは、日本軍が行った蛮行であったが、しかし今の日本はそういう事実を認め、謝罪し、そして十二分に反省しているというところを示すことによって、日本という国の株は上がるというものだ。

 さて、『朝日新聞』が、以下のような事実を報じている。


旧日本軍の偽札用紙見つかる 民間巻き込んだ製造裏付け

渡辺延志   2015年1月6日05時13分

 静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。戦前に特殊兵器を開発していた同研究所では偽札も作っていたという証言があり、民間企業を巻き込んで偽札が製造されていた実態が浮かび上がった。

 明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。

 資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。

 記されていた文字から、用紙は1940年8月~41年7月に作られたと資料館はみている。偽札作りの責任者だった将校は、戦後に出した本で「偽札作りは39年に始まり、40億円分作った」と記していた。


http://digital.asahi.com/articles/ASGDS4RTHGDSULOB00J.html?_requesturl=articles%2FASGDS4RTHGDSULOB00J.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGDS4RTHGDSULOB00J

 日本国家が、国家として偽札作りをしていたのである。

 なお、明治大学平和教育登戸研究所資料館で、それが展示されている。

http://www.meiji.ac.jp/noborito/info/2014/6t5h7p00000i01ky.html

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諦観

2015-01-05 13:26:18 | 日記
 今日は快晴、そして風がない。浜松地方では、風がない日は珍しい。そして空は、果てなき時空へとつながる青。

 こういう日には、畑にでる。燦々と太陽の光を浴び、そして土とたわむれる。草をとり、収穫したあとの土を耕し、畝をつくる。

 無心で、手を動かす。

 植えてあったカリフラワーは、寒風の中、東南方向に傾いている。西北からの風が強いからだ。ふと真ん中を見たら、紫色の実があった。もちろん収穫の時期ではないが、寒さの中、強い北西の風に耐えながら、みずからを生長させてきたのだ。その他の野菜も、同じように、少しずつ少しずつ、自らを生長させている。

 農業は、そういう野菜の姿を見るだけでしあわせを感じることができる場だ。ボク自身と、土と野菜の対話の中で、野菜は生長していく。

 ふと考えた。

 政治や経済の動きの中で、なぜ日本人は受忍しているのだろうか。『世界』1月号の吉田裕の論文に、「日本人に根強い受忍論がどこからくるのか、歴史的な検証が今後必要だろう」とあったが、ボクは今日その理由が分かる気がした。日々の農作業のなかで、小さな小さな喜びを感じることができるのだ。その喜びは、小さな生きがいといってよいのかもしれない。となると、政治や経済の動きなんか、It's no my business.なのだ。

 政治や経済の世界、いや社会は、まさに競争が渦巻く。権力やカネを求めてひたすら動き回る。政治にかかわる運動の世界でも、いやどこの世界でも、「オレが、オレが」といいながら、のし上がろうとする人がいる、人を出し抜こうとする人がいる。

 競争に明け暮れる世界と完全に離れて生きていると、今がとても居心地が良いことに気づくのだ。関わり合いたくない、という気持ちがでてくる。
 「受忍」は、そういう競争に明け暮れる世界から降りてしまうところに成立するのではないだろうか。ある種の諦観。
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