浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「一個の芸術作品」

2024-03-15 21:05:22 | 

 パリで亡くなったアナーキスト。椎名其二の評伝を図書館から借りてきた。そのプロローグに、ミシェル・フーコーのことばが引用されていた。

 自分の人生を一個の芸術作品にすることができないだろうか?なぜこのランプとか、この家が一個の美術品であって、私の人生がそうではないのか。

 もちろん、筆者である蜷川讓が、椎名の人生を「芸術作品」と考えているからこそ引用したのである。

 蜷川はこう書いている。

「・・・椎名の情熱は、相手がフランス人であろうと日本人であろうと、ときに爆発し、人びとにとまどいを与えることもあった。だが彼は、つねに信念を貫き、容赦しなかった。その強烈な個性のゆえに、彼の許を去る者も多かったが、彼の周囲にはいつも友情が成立し、彼を理解しようとする若者たちに包まれていた。・・・(中略)椎名の豊かな人間味あふれる生き方は、底光りする純粋さに貫かれ、一編の芸術作品にもたとえうるであろう。」

 人生を「芸術作品」にするためには、強烈な個性が必要となる。「芸術作品」とは、そこにただひとつの個性が刻印され、それが同時に普遍性へと広がっているものでなければならない。

 椎名のことを野見山暁冶の文からのみ知った私としては、そして今日借りてきた評伝を読んでいない私としては、椎名の人生を「芸術作品」だと断定することは出来ない。しかし、その大きな要素として、「信念を貫く」こと、「底光りする純粋さ」が必要である。

 残り少ない私の人生の先を見通すと、私の人生はとても「芸術作品」となることはない。

 「歴史の進展に一髪の力でも添えうれば満足なのです。添えうるかどうかは疑問だとしても、添えようとして努力するところに僕の今後の生活の唯一の意味があるように思われるのです。」

 これは啄木のことばだ。若い頃に読んだ、家永三郎の『数奇なる思想家の生涯』(岩波新書)、これは田岡嶺雲の生涯を描いた本であるが、そのはじめに啄木のこのことばが引用されていた。

 とてもよい文だと思い、そのように生きてきたが、今になって「歴史の進展に一髪の力」を添えることができなかった、という思いが強い。歴史が逆行していると思うような時代となってしまっているからだ。

 「芸術作品」どころの話ではないが、椎名其二の評伝を読み、少しはその生き方を真似てみようと思う。

 

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音楽を聴く

2024-03-14 21:11:44 | 日記

 音楽を聴いている時間が長くなっている。今日は、ショパンのピアノ協奏曲第2番を聴く。

 この曲は、ショパンの初恋の人、コンスタンティア・グワドコフスカへの憧れを描いた作品だと言われる。とりわけ第2楽章にそれが現れているとされる。19歳ないし20歳の頃の作品である。

 しかし、芸術は、個性的であると同時に普遍性をもつ。

 この曲を聴いていると、初恋のひとへの憧れ、あるいは愛する人へのあつき想いを感じる。しかしそれは、憧れやあつき想いは、恋人だけに向けられたものではないように思える。

 すべての愛する人への、あつき想いというか、そういうものを感じる。

 ショパンのピアノ協奏曲は二つあるが、作曲の順序は、第2番が先である。第1番のピアノ協奏曲はコンスタンティア・グワドコフスカへの追憶だといわれる。ショパンによるピアノ演奏による初演であった。1830年10月のことであった。そして11月にはショパンはウイーンへと旅立つ。祖国との別離でもあった。

 第1番の第2楽章もとてもきれいで、素晴らしい。音楽が、豊かな感情により作曲され、そして演奏が聴衆の感情を揺り動かす。

 第3楽章は、別離への決意のように聞こえてくる。

 

 

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本を読むこと

2024-03-12 21:24:21 | 

 遺品の整理というのは、亡くなった者の生きてきた「しるし」を消していくことだと思う。

 母が亡くなり、母が生きていたことを証すもろもろのモノを、消していく。母に「これ、もう捨てていいよね」などと語りかけながら、処分していく。その作業をずっと続けている。

 今日は雨が強かった。昨日まで、いろいろな遺品のほこりをはらったりしていたが、雨のためそれを辞めて仕事に取りかかった。

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 今年、歴史講座で「画家と戦争」をテーマにして話すことになっている。その準備のために、図書館から何冊かを借りだしているのだが、読めないまま借用期限が切れた。そこで図書館に行き、返してまた借りるということを行った。そして帰宅してから、「画家と戦争」のスライド制作をはじめた。導入には、浜松市出身の画家である中村宏さんが、最近みずからの戦争体験を描きはじめたことを話そうと思い、その絵を貼り付けたりしていた。

 構想としては、まず戦争に協力した画家たちをとりあげる計画であるが、ふと野見山暁冶さんが、藤田嗣治について書いた文があったことを想い出した。

 もう10年以上前に出版された『ユリイカ』の臨時増刊号「野見山暁冶 絵とことば」を書庫から取り出してきて、読みはじめた。野見山さんは画家としてだけではなく、いろいろな面で魅力ある人物であること、とりわけ信州にある「無言館」の創立に関わったことを知っていたのでこの本を買っておいたのだ。

 藤田に関する文だけを読もうと思っていたのだが、最初から読みはじめてしまった。野見山さんは文章もうまく、それについていろいろな人が書いていた。たしかに、読ませる文章を書く。

 藤田嗣治について書いた「戦争画とその後」も印象的な良い文であるが、そのあとに掲載されていた「マピヨン通り 椎名其二」を読んで深い感銘を受けた。椎名はアナーキストで、ジャーナリストとなったり、製本屋となったりして頑固一徹の人生を貫き、パリで亡くなった。椎名はきわめて個性的で、自らを生き抜く中で椎名其二という人間を、歴史のなかに深く深く刻み込んだ。

 椎名の存在を知らなかった私は、自分自身を責めたいと思うほどであった。

 野見山は、椎名について、その人物を的確に捉え描写し、私たちにその存在を刻印する。椎名に関する評伝が、藤原書店から出版されていることを知り、図書館から借り出すことにした。

 ひとつのことを調べはじめると、次々と新たに関心をもつものが出て来る。知りたいことが際限なくやってくる。私自身は、まだまだこの世に生きつづけたいと思う。

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 明日は晴れるという。明日もまた遺品の整理を行う。この歳になって母を亡くすというのはなかなか精神的に厳しいものがある。自分自身も遠くない時にこの世を去ることになる。そのとき、私の生きた足跡も消されていくのだろう。母の遺品整理が終わったら、自分自身の「終活」も本格化させよう。自分で自分自身の生の軌跡を消していく。

 

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万博の木製リングに異を唱えた建築家・山本理顕

2024-03-11 20:17:01 | 社会

 未だ嘗てない無駄遣いである、大阪万博の木製リング。344億円と言われる建築費、一度1億円という暴挙であると私は思う。

 その木製リングに、最近鋭く異を唱えた建築家がいる。山本理顕氏である。山本氏、最近、建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受けたという。

 なかなか気骨のある人で、こういう原則的な生き方、みずからの原則のためには、徹底的に闘うという姿勢は、とても参考になる。

 

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奨学金のこと

2024-03-10 08:16:13 | 政治

 大学や専門学校への進学を考える高校生、しかし家庭は豊かではない。そこで、多くの高校生は奨学金を申し込む。日本学生支援機構の奨学金の募集などの手続きは、高等学校が担う。その係になるとたいへんである。私が担当していた頃と手続きがかわっているかもしれないが、膨大な仕事がある。

 まず募集。説明会を開く。日本学生支援機構の奨学金制度を高校教員が説明する。その際、パンフレットや申込用紙を配布する。今までは貸与型(無利子、有利子)だけだったが、現在では給付型の奨学金制度もできたので、おそらく高校での仕事量は増えていることだろう。

 さて期限内に書類を提出する(といっても、ネットを使って行う)ためには、生徒たちから書類を集めなければならない。それらの書類をひとつひとつ点検する。所得証明なども集める。そしてHR担任にひとりひとりについてのコメントを書いてもらって集める。

 それらの書類に書かれている者をネットの一定の書式にうちこんで送る。

 以前なら、生徒はみな無利子型の奨学金を希望したが、日本学生支援機構のほうで、無利子と有利子を分けてくる。私には、なぜこの子が無利子で、あの子が有利子なのか、まったく理解出来ない事例がたくさんあった。

 そして今、多くの若者がその奨学金の返済で苦しんでいる。

 日本学生支援機構の奨学金について、いろいろな文献を読んだが、当該機構がサラ金並みの厳しい取り立てで、奨学金を借りた若者を徹底的に苦しめている事例をたくさん知った。日本学生支援機構は、奨学金を借りた若者たちから搾取収奪して成りたっているものだというのが、現在の結論である。

 その意味で、こういう「未来応援奨学金にいがた」のような取り組みに大いに賛同する。日本の企業も、どす黒い野望と汚い金を集め裏金化する自民党の政治家諸氏に金を与えるのではなく、その金を給付型奨学金として若者に分け与える方が、日本の未来に大いに貢献できると思う。

 

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現代日本の危うさ

2024-03-09 20:45:27 | 社会

 長い間、身内からの訃報が来ることはなかった。昨年12月から3人が亡くなった。また互助組合の新聞には、現役だけではなく退職者の組合員の訃報が載せられているが、70代の知人の名が複数あった。

 いま、情報が正しいかどうか確認することはできないが、亡くなる人が多い、といわれている。

 あまりにひどい日本の現状に絶望して、もうこの日本に生きてはいられないと、生きようという意思を失ってしまう人が増えているのかもしれない。

 ひどい日本の状況を、デミクラシータイムスが、詳しく議論している。

カネ狂い政治を断つ! 生活、原発、米国のいま

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「記者たち 多数になびく社会のなかで」(毎日放送)

2024-03-08 22:06:43 | メディア

 毎日放送の斎加尚代さんが制作したドキュメンタリーである。

 新聞の購読者数が激減している。その理由は、わからないでもない。新聞記事が、政治権力に忖度し、協力しているものが多いからという理由もあるだろう。その理由で私は新聞購読をやめた経験があるからだ。

 今までも私は、購読する新聞を替えてきたが、現在は『東京新聞』である。『東京新聞』の姿勢、立場を、私は支持しているからこそ購読している。政治権力への忖度がないからである。

 さて、このドキュメンタリーは、『琉球新報』の明真南斗記者、もと『毎日新聞』の小山美砂記者、そして『神奈川新聞』の石橋学記者に焦点をあて、彼らがどのような取材をし、どのような記事を書いているかを紹介するなかで、彼らがどのような姿勢を堅持しているかを提示したものだ。

 素晴らしい記者たちである。しかし残念ながら、こういう記者は少なくなっている。

 若い頃、私は多くの新聞記者と交流があった。『産経新聞』や『日本経済新聞』ですら、ジャーナリズム精神をもった記者がうようよといた。しかし今はほとんどいない。私と共鳴するような問題意識をもった記者がいなくなった。

 だが、このドキュメンタリーが取り上げた3人の記者は、私の問題意識と共鳴する。私は3人の記者の頑張りをみて、エネルギーをもらった。

 

 私は、いろいろな仕事を引き受けてきたが、私自身の思想や考え方を常に明確にしながらやってきた。「私はこういう思想を持っていますが、しかし仕事は完璧にやります」という姿勢でやってきた。仕事の結果をだすためには、最善の努力をしたから、いろいろと仕事が舞い込んできたし、今もやめようとしてもやめられない仕事もある。

 私の人生訓は、「出過ぎた杭は打たれない」である。常に出過ぎること、である。出過ぎることとは、みずからを鮮明にするということだ。多数になびかないことでもある。

 このブログを読んでいるかはわからないが、記者になった者たちよ、出過ぎた杭となって世のため人のために尽くせ!

 

 

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整理(1)

2024-03-04 21:02:17 | 演劇

 今日もたくさんの本を古書店に渡した。残された時間のことを考えると、おそらくもう読まないだろうと判断した専門書の多くを手放した。もっともっと身軽になろうと思う。

 私は今、浜松演劇鑑賞会の会員で、企画された演劇をただ見るだけの会員であるが、それが浜松演劇鑑賞協議会と言っていた頃、「機関誌部」の一員として、機関誌にいろいろな記事を書いて載せていた。その頃の機関誌を、すべてではないが、今も保存している。

 20代の頃で、まだ若かった。大学時代は東京労演の会員で、浜松に帰って来てからは浜松演観協の会員となって演劇を見るようになった。

 機関誌(1979年12月)にはじめて書いた文を紹介する。

 最近、何か圧迫されているような格子のない牢獄にいるような、そんな感じがしてなりません。

 先月、息苦しい生活から逃れようと東北一周の度に出かけてきました。紅葉も終わり、長い冬を待つだけとなった東北の山々は、荒涼たる姿を見せていました。そんななかで津軽富士といわれる岩木山が大空にむかって雄々しくそびえているのを見て、大いに感じるところがありました。「生きていこう」というつぶやきが、どこからか聞こえてきました。

 新入りの機関誌部員です。よろしく。

 母が亡くなってから、ボーッとしている時がある。自分自身が年齢を重ね、みずからの死を自覚しつつあるときの母の死であるがゆえに、なかなか心が重い。いずれ必ずやってくるみずからの死を考えてしまう。「生きていこう」という前向きな姿勢ではなく、死ぬまでは生きていかなければならない、という気持ちとなっている。

 

 

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蔵書の整理

2024-03-03 21:30:30 | 日記

 残りの人生の長さを考えると、もう新たな研究は出来ないし、神経を集中させての正確な歴史叙述はできそうもないと思い、蔵書のほぼ半分、とりわけ専門書の多くを処分している。先週の月曜日も多くの本を整理したが、明日も、古書店が私の蔵書をもっていくことになっている。

 幕末維新史の研究者であった故原口清先生、私に在日コリアン史の研究を促した故海野福寿先生は、ある時期からまったく書かなくなった。長生きした原口先生からは、歴史研究の方法論をなんどもうかがっていたので、ぜひそれを書いて欲しいと何度も要請したが、先生は書かなかった。

 海野先生から、ある時、はがきが送られ、そこにはもう書かないということが、いつもの端正な字で記されていた。

 名誉のために名前は記さないが、弱いを重ねた高名な歴史学者であるA氏に原稿を依頼したことがあった。送られてきた原稿はあまりにひどく、このままでは掲載できないと判断した私は、彼の多くの著書を読み込んで、何とか論文としての体裁を整えたことがあった。同じことは、別の歴史学者でも体験した。

 学問研究には、引き時があると思う。私は、みずからがまさにその時期にきていると思う。

 残されている仕事は二つである。2023年度ですべての責任ある仕事から離脱しようとしたが、二つだけが残された。継続を要請されたからであるが、晩節を汚さないためには、数年の内に「撤退」しようと考えている。

 あとどれほど本を読むことができるだろうか。

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「川崎病」

2024-03-03 21:18:54 | 社会

 ずっと前に「川崎病」という病気があることを知った。

 私は「川崎病」が、すでに原因も治療法も確立した過去の病気であると思っていた。「川崎病」に関する報道がほとんどなかったからでもあるし、「川崎病」になったという子どもがすでに父親になっているということも聞いていたからだ。

 しかし今も「川崎病」はある。 

「川崎病の薬が足りない」副院長は焦った 放置すれば子どもたちを治療できない 対策の決め手は「献血」だが…

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