『世界』10月号、朝日新聞社の高橋純子さん(この人、まだやめていないのか?)の連載が始まった。この高橋さんの文を読むと、朝日の経営的な視点からの圧力には屈しないような人物のように思える。高橋さんのこの「あたふたと身支度」を読むと、なるほどねと納得した。
そこに次のような詩が掲載されていた。
常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること、それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する。戦いを諦めてはならない。(米国の詩人 E・E・カミングズ)
まさにこの世は「他の誰かのようにしようとする」ための暴力が渦巻いている。成長するということは、「自分でいること」を追い求めるために、周囲と様々な軋轢のなか闘い続けていくことなのだ。
高橋さんは、子どもであった頃、隣のクラスの女性の先生が、クラスの目標を「個人を尊重しよう」とし、ジーパンをはいて「管理教育」と闘っていた、ことを記す。自分のクラスの担任はそれに批判的であったようだとも書く。
わたしも、実はほとんどジーンズで過ごしていた。仕事着はジーンズであった。今でも、わたしはジーンズで暮らしている(礼服以外、ふつうのスラックスはない!礼服を着なければならないとき以外は、いつもジーンズ)。わたしは長い間教壇に立っていたが、教員という職業は肉体労働だと思っていた。教壇に立って話すというのは、まさに肉体労働である。下はジーンズ、上はワークマンで買った作業着で生きていた。チョークの粉にまみれ、汗まみれになって話し、歩く。今はどうか知らないが、教室何ぞにエアコンなんかなかった。9月はいつも暑かった。全身汗まみれになった。暑くても、寒くても、からだで労働する人であった。
他人と同じ、ということは、大嫌いである。自分自身の個性を発揮できなければ、もうそこにはいたくない。わたしを「他の誰かのようにしようとする」人がいたら、わたしは近づかないし、向こうが近づいてきたらわたしのほうから去る。わたしと異なった考え方が押しつけられた場合も、わたしは去る。わたしはわたしの考えでわたし自身の生を生きる。
わたしにかまわないで放っておいて、というのが、わたしが他人に求めるスタンスである。それぞれ生き方が違うのだから、どう生きたっていいじゃないの、というスタンス。