浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

もと統一教会員の懺悔録について

2024-09-12 20:46:45 | 

 最近出版された『旧統一教会 大江益夫・元広報部長 懺悔録』について、以前書いたことがある

 今日、デモクラシータイムスで、樋田さんと鈴木エイトさんがこの本について語り合う番組を見た。とても参考になった。 

霊感商法、赤報隊、自民党…人生を賭けた告白 樋田毅さん+鈴木エイトさん

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島根県知事の怒り

2024-09-12 14:21:21 | 政治

 正当な意見を吐く島根県知事。

「東京の感覚でやられたら困る」「親子2代で雇用を非正規化」島根県知事の進次郎“ド直球批判”に「ごもっとも」「普通の感覚ならこうなる」大絶賛

 記者会見で、知事が吠えているのだが、ここに知事の発言がある。1時間5分頃から、解雇規制についての怒りが語られる。

 島根県知事 定例記者会見 令和6年9月11日(水)

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「小泉構文」

2024-09-11 19:36:00 | 政治

 この人にあまり関心を持っていなかったが、彼が総理大臣になる確率が髙いだって?

【爆笑必至!】小泉構文をイジり倒す!

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デュプレの音楽

2024-09-11 11:12:18 | 日記

 パソコンに向かってキーボードをたたいているとき、クラシック音楽をかけている。携帯をiPhoneにしてから、毎月カネを払ってアップルミュージックの音楽を利用している。

 そのなかから今は亡きチェリストのジャクリーヌ・デュプレの演奏をまとめた「はじめてのジャクリーヌ・デュプレ」を聴いていて気がついたのだが、そのほとんどにダニエル・バレンボイムの名が入っている。

 わたしは17枚入りCD、「Jacqueline DUPRE THE COMPLETE EMI ROCORDINGS」を持っていて、それで聴けば良いのだが、面倒なのでアップルミュージックを利用している。CDも、もちろんダニエル・バレンボイムとの共演が多いのだけれども、CDならそれを避けることはできる。

 デュプレの演奏は、まさに「一期一会」の演奏であり、すべての演奏に彼女のもつエネルギーが奔出しているように思う。

 さて彼女の夫であった、ユダヤ人で音楽家のダニエル・バレンボイムは、エドワード・サイードとともに、ユダヤ人、パレスチナ人によるオーケストラをつくり、両民族の融合を図っていて、世間的には良い人物だと思われている。

 しかし、デュプレ好きのわたしとしては、彼女を早く死に追いやったのはダニエル・バレンボイムだと思っているので、彼と演奏したものは避けるのだ。

 以前にも書いたことがあるかもしれないが、「クラシック音楽へのおさそい」というサイト主宰者も同じことを考えているらしく、ダニエル・バレンボイムの演奏はそのサイトにいっさいアップしていない。

 主宰者は、こう書いている。

(デュプレの)そんなかけがえのない才能が、こんな下らん男によってスポイルされたかと思えば、無念という言葉では言い尽くせない思いがわき上がってきます。
私は今でも、彼女の病は、この下らぬ男が己のキャリアを積み上げるために彼女を連れまわしたことによる疲労の蓄積にあると確信しています。そして、デュ・プレが病に倒れた後のこの男の仕打ちは、「人でなし」という言葉以外には表現のしようがありません。
彼女は闘病のために愛器の「ダヴィドフ」を売り払い、さらに不自由な身体でチェロのレッスンを行うことでお金の工面をしたと伝えられています。驚くべきは、彼女がそのような苦境に陥っているにもかかわらず、この男は妻であるデュ・プレを見捨てて浮気を繰り返し、果ては同棲中の愛人に二人も子どもをはらませたのです。
こんな男が「イスラエルの良心的文化人」などと言われたら、迷惑するのはイスラエル自身でしょう。

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自分自身であること

2024-09-09 14:14:14 | 日記

 『世界』10月号、朝日新聞社の高橋純子さん(この人、まだやめていないのか?)の連載が始まった。この高橋さんの文を読むと、朝日の経営的な視点からの圧力には屈しないような人物のように思える。高橋さんのこの「あたふたと身支度」を読むと、なるほどねと納得した。

 そこに次のような詩が掲載されていた。

常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること、それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する。戦いを諦めてはならない。(米国の詩人 E・E・カミングズ)

 まさにこの世は「他の誰かのようにしようとする」ための暴力が渦巻いている。成長するということは、「自分でいること」を追い求めるために、周囲と様々な軋轢のなか闘い続けていくことなのだ。

 高橋さんは、子どもであった頃、隣のクラスの女性の先生が、クラスの目標を「個人を尊重しよう」とし、ジーパンをはいて「管理教育」と闘っていた、ことを記す。自分のクラスの担任はそれに批判的であったようだとも書く。

 わたしも、実はほとんどジーンズで過ごしていた。仕事着はジーンズであった。今でも、わたしはジーンズで暮らしている(礼服以外、ふつうのスラックスはない!礼服を着なければならないとき以外は、いつもジーンズ)。わたしは長い間教壇に立っていたが、教員という職業は肉体労働だと思っていた。教壇に立って話すというのは、まさに肉体労働である。下はジーンズ、上はワークマンで買った作業着で生きていた。チョークの粉にまみれ、汗まみれになって話し、歩く。今はどうか知らないが、教室何ぞにエアコンなんかなかった。9月はいつも暑かった。全身汗まみれになった。暑くても、寒くても、からだで労働する人であった。

 他人と同じ、ということは、大嫌いである。自分自身の個性を発揮できなければ、もうそこにはいたくない。わたしを「他の誰かのようにしようとする」人がいたら、わたしは近づかないし、向こうが近づいてきたらわたしのほうから去る。わたしと異なった考え方が押しつけられた場合も、わたしは去る。わたしはわたしの考えでわたし自身の生を生きる。

 わたしにかまわないで放っておいて、というのが、わたしが他人に求めるスタンスである。それぞれ生き方が違うのだから、どう生きたっていいじゃないの、というスタンス。

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なあるほど・・・・

2024-09-09 07:06:36 | その他

 ユーチューブを開いたら、この動画が目に入った。「パソコン有償譲渡会の闇」である。

 たしかに時折、中古パソコンを安価な価格で「有償譲渡」しますというチラシがはいる。

 わたしは今まで何台もパソコンを買ってきたけれども、メーカーから直接買うことが多かった。店で買っても、パソコン専門店からであった。今つかっているのは2台、一つはメーカー直販、もうひとつはパソコン専門店からである。

 わたしの友人はパソコンの中古を買っているようだが、買うところはパソコン修理の店からだ。

 さてチラシが時々入るのでそういう「有償譲渡」会があることは知ってはいたが、一度も行ったことがなかった。

 この動画を見て、やはり「安かろう悪かろう」というものだということがわかった。パソコンについて知識を持たない人びとに、「安く」売りつける、しかし儲けは確実に得るという商法だと感じた。詐欺とは言えないが、十分な使用に耐えるものではなさそうだ。

 この世に「うまい話」なんかあるわけがない。

 

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党首がかわっても変わらない

2024-09-08 07:24:09 | 政治

 極右政党=自由民主党、フラフラ政党=立憲民主党、いずれも党首を決める選挙が行われる。少し関心を持ってみてみると、立候補している人びとは庶民の苦しみ、五公五民の体制をかえるつもりはまったくないようだ。

 

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国家悪

2024-09-07 08:27:44 | 政治

 日本の統治機構は全体として悪そのものである。政治家たちは高額の報酬をもらい、それでも足りないと裏金をつくりみずからの懐に堂々と入れる。その金はまったく不法であるのに、検察は裏金を得た自由民主党議員を放置する。国税庁も、庶民に対しては厳しく納税を求めるのに、不正な方法で私腹を肥やした自民党議員たちには追徴課税を求めない。この差別、平気でやるのだ。

 最新号の『週刊金曜日』。福島原発事故により放出された放射性物質により多くのこどもたちが甲状腺ガンにかかった。小児の甲状腺ガンは「100万人に1~2人」しか発症しないとされているのに、福島県ではこれまでに400人近くの子どもたちにみつかっている。チェルノブイリの原発事故にみられるように、放射線と甲状腺ガンは密接な因果関係があることが証明されている。しかし、日本国家やその下請け機関福島県は、「甲状腺ガンと被曝の関連は認められない」を一貫して主張している。こうしたウソを堂々と主張しても、そのウソを覆せないことが、わたしには歯がゆくて仕方がない。

 ウソをつき続けている「県民健康調査」。その上部組織の検討委員会で疑問、異論がだされているのに、それらの意見を全く無視して、「甲状腺ガンと被曝の関連は認められない」という結論をとにかく出し続ける。それをだした組織の座長であった星北斗は、今や悪名高い自民党の参議院議員となっている。

 原発を維持し、原爆製造の準備を続けたい日本の支配層は、原発事故で苦しむ庶民をいっさい顧慮しない。

 最新の『週刊金曜日』。「判事二人の罷免を求め弁護士らが訴追請求」という記事がある。これを読んで驚いた。

 東京電力福島第一原発事故に国の賠償責任はあったのかどうか、を問う訴訟が4つあった。そのうち3つは国に責任ありと判示した。その四つが最高裁にあげられたら、それらはひとつにまとめられ、2022年6月17日に判決が出された。「6・17最高裁判決」である。その判決をだした4人の裁判官、名前は菅野博之草野耕一岡村和美三浦守である。三浦は国の責任を認めたが、他の3人は認めなかった。なお菅野はすでに退官している。

 3人が国の賠償責任なしとした判決は、問題が多い。訴追した弁護士等は、こう主張している。

①原判決を破棄するときは、法令解釈をして原判決が法令に違背していることを示さなければならないが、必要な法令解釈を示していない。

②原判決を破棄するときは、審理を原裁判所に差し戻さなければならないが、そうしていない。

③多数意見は、原審が適法に認定した事実と異なる独自の事実認定を行った。しかもそれは、証拠に基づかないものだ。

 この最高裁判決は、あの砂川事件の伊達判決を最高裁が覆したものと相似形にある。国策を推進するためには、最高裁も行政の政策に追随することを示している。

 日本には司法の独立はないし、三権分立は機能していない。そうしているのは、自民党・公明党政権であり、検察であり、裁判所であり、メディアであり、そして選挙民である。

 

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恥ずかしくないのか、朝日新聞

2024-09-05 21:34:37 | メディア

 ここまで落ちると、もう何も言えない。

「恥ずかしい連中だな」朝日新聞 自民党裏金問題で新聞協会賞も発端は「しんぶん赤旗」“手柄の横取り”にツッコミ続々

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なぜ『中日新聞』東海本社版を購読しないか

2024-09-05 12:51:03 | メディア

 中日新聞東海本社は、歩いて行ける距離にある。しかし、わたしは『中日新聞』東海本社版をとっていない。『東京新聞』を購読している。

 その理由は、地域の記事を一面にもってくるという芸当をやるからだ。今日の『中日新聞』東海本社版の一面トップは、安倍派だった塩谷立が総選挙に立候補しないという記事である。

 「塩谷氏 衆院選不出馬」がその見出しである。こんな記事が一面トップを飾っていいものか。『中日新聞』東海本社は、極右政党=自由民主党の広報宣伝機関か、といいたい。東海本社版を購読している人びとにもっとも伝えたい記事は、塩谷立が立候補しないということでいいのか。

 『地平』10月号には、全国紙である『毎日新聞』が富山県への配達をとりやめることを報じている。『毎日新聞』は全国紙という性格付けから撤退するというわけだ。

 新聞の購読者が減り続けている。新聞労連書記次長の伊藤明弘さんの「全国紙の生き残りは、オピニオンリーダーとしてのブランド価値をどこまで残せるかにかかっているのではないか」を引用しているが、朝日新聞社などはそうした価値を放棄しているかのようだ。

 県紙は地元の政界や経済界などと癒着し、ブロック紙も同じ状況である。

 「昔」は、朝日、毎日の全国紙記者には、鋭い問題意識をもったジャーナリズム精神を発揮する記者がいた。わたしも、そうした記者と仲良くなり、なかには今も年賀状を交換している人もいる。

 全国紙記者も、地方紙の記者も、差がなくなってきた。

 SNSなどの発達で、新聞購読者が大きく減少している現状を、『地平』10月号で片山夏子さんが危惧している問題意識を共有している。

 新聞がなくなった状態、それはすでにアメリカの田舎で出現している。行政が勝手なことをやっても、監視の目がない。

 行政権力や私企業が、かってなことをやる度合いが強まっているとき、新聞の役割は重要になる。だが、はたして今の新聞は、そうした機能を果たそうと努力しているだろうか。浜松市でも、市民運動の記事は、まさにベタ記事にしかならない。

 これでよいのか。

【付記】今届いた今日の『東京新聞』一面トップは、「防衛特需の裏で 43兆円の行方 「潜水艦ムラ」癒着の構造」である。同じ中日新聞でも、東京本社の『東京新聞』と浜松の東海本社の『中日新聞』とは、まったく異なる。『東京新聞』を購読する所以である。

 

 

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立憲民主党のこと

2024-09-04 20:34:19 | 政治

 今日の『東京新聞』の「本音のコラム」は斎藤美奈子さん。斎藤さんは、野田元首相のことを書いている。彼が総理大臣だったとき、どんなことをしたかを記している。

1 消費増税・・5%から10%にすることを決定した。

2 原発の再稼働を決定した。

3 内閣支持率が20%を切って、70人以上が離党した。

4 アベの挑発に乗り衆議院を解散し、アベ長期政権をつくりだした。

 要は、民主党政権を「悪夢の民主党政権」といわせた政策、人びとの期待をすべて無視した政策を実現した人が、野田という人だ。

 その野田が、立憲民主党の代表選に立候補する。

 小沢一郎が、その野田を支持するという。小沢は、保守層の支持を得ることによって、政権交代をめざすということらしい。しかし、野田が首相となっても、今と何も変わらない、極右政党=自由民主党と何も変わらないことをするのなら、どうでもいいよ、と思ってしまう。もし野田が首相になると、再び、立憲民主党政権に、「悪夢の」という形容詞がつけられることだろう。

 小沢一郎は、政治を腐らせた小選挙区制導入の中心人物である。一時期、小沢に期待を寄せる人びとがいたときでも、わたしは彼に不信感を持ち続けていた。それは今も持続している。

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思うこと

2024-09-03 19:56:37 | 日記

 今朝、ポストを見たら、『地平』10月号が入っていた。まずわたしは、「編集後記」を読んだ。編集長の熊谷氏は、八王子に住んでいる。そこから横田基地を離発着する米軍機が見えるという。その機数が増えているという。

 わが家から、畑から、自衛隊浜松基地を離着陸する自衛隊機を見る。その機数も増えているように思われる。以前、航空自衛隊浜松基地に交渉に行ったとき、幹部自衛官に米軍との共同訓練について尋ねたことがあった。その答えは、全面的に肯定的で、米軍との訓練が彼らにとっては歓びであるかのようなものであった。

 今や日米両軍は、一心同体となって世界を相手に何らかの軍事行動を展開しようと企んでいるようだ。

 わたしは日米関係を、「対米隷属」ということばで表現している。日本の支配層は、アメリカに屈従すること以外考えず、それがすでに体全体に染み付いているからだ。アメリカの言うことは、何でもハイハイと素直に聞く。80年前は、「鬼畜米英」と叫んでいたのに、負けたとなったらこんどは平身低頭。支配層の都合により、まったく逆のことでも平気でやるのが支配権力である。

 熊谷氏は、そうした日本の支配層が、日本学術会議など独立した機関やメディアなどを従属させようとすることを指摘する。「彼ら自身が独立の尊さと価値を知らず、より「強い者」の傘のもとでエラそうに振る舞うということ以外の行動様式を学ぶ機会がなかったからだろう」と書く。しかしそれは支配層だけではなく、ふつうの人びとも、強者に従属することによって「エラそうに振る舞う」。在職中、そういう人物をたくさん見てきた。兵庫県の騒動も、同じような構造が見える。公益通報した人が、たった一人だったこと、そして自死しなければならなかったこと、兵庫県庁にはたくさん公務員がいるのに、ほとんど全員が、知事と「牛タン」メンバーと闘うことをしなかった。

 昨日の夕方、晴れていたのに急に黒雲が天を覆い、大粒の雨が降り注いだ。もうずっと前、子どもたちと訪れたシンガポールで体験したスコールとまったく同様の降り方だった。気候変動の中、日本はシンガポールと同じような気候になっているのだ。

 熊谷さんは、「今日も日本の青空を、大量の二酸化炭素を出しながら、米軍機が飛んでいく。この空の自由と独立を私たちはいつ取り戻せるだろうか」で、文を結んでいる。

 対米隷属国、「米軍主権国家」のままでいるかぎりは、日本の未来は、気候の問題を含めて、明るくはない。わたしにとって政治選択の基準は、「米軍主権国家」への態度、消費税への態度で決まる。極右政党=自由民主党、それに下駄の雪のように自民党にくっつく公明党、そして乱暴な権力欲ばかりの維新、そして雑多な者が選挙のために集合した立憲民主党なんかは、選択肢にはない。

 総選挙がこの秋にあるともいう。変わらないだろう、とわたしは悲観している。

 

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【本】堀和恵『評伝 伊藤野枝』(郁朋社)

2024-09-03 09:00:33 | 

 『初期社会主義研究』第32号で、大岩川嫰氏が本書を絶賛していたので、図書館から借りて読みはじめた。

 伊藤野枝は、みずからを成長させたいという強い意志をもって生きた女性である。豊かなエネルギーを持ち、様々な軋轢を超えて自分自身を求めて生きてきた。そういう女性の「評伝」を書く場合は、書く側にも強靭なエネルギーが必要だ。

 しかし読みはじめて、この本にはそれがない(瀬戸内寂聴や村山由佳、井出文子の本にはある)。淡々と野枝の人生を書く(だから野枝の「評伝」なのに、全文224頁しかない)。文に熱を感じない。それでも我慢して読み続けたのだが、141頁に来て読むのを止めた。1919年10月の婦人労働者大会の記述があったからである。

 それが書かれている第四章の参考文献には、平塚らいてう自伝、山内みな自伝が掲げられているが、それを読んだ形跡はない。ここに記されている内容は、栗原康の『村に火をつけ 白痴になれー伊藤野枝伝』の記述をそのまま踏襲しているのである。

 わたしは栗原の記述が「捏造」であることを平塚、山内の自伝をもとに批判した。栗原も参考文献としてふたりの自伝をあげているのだが、勝手にその場の情景を捏造して、栗原が思いえがく野枝像をつくりあげようとしたのである。

 わたしの批判をここに掲げる。

第五章のはじめに、「野枝、大暴れ」という項目がある。一九一九年一〇月五日、友愛会婦人部主催による「婦人労働者大会」があった。 国際労働大会に派遣されるILO政府代表・田中孝子(渋沢栄一の姪)に「実際に労働に従事する婦人労働者の真の要求を告げる目的で」開かれたもので、「八人の女工が・・熱弁」(大原社研『日本労働年鑑』第一集)を振るった(これは当時友愛会にいた市川房枝が企画したものである)。大会が終わり、控室に戻った田中孝子に野枝が詰め寄ったときの顛末を栗原は書いている。その際に使用された資料は、山内みなの自
伝、平塚らいてうの自伝である。
(1)栗原本は、らいてうが「外まで聞こえるような怒号」を聞いて、らいてうが「駆けつける」となっているが、らいてう自伝では控室にいたときに野枝が入ってきたと記されている。「外まで聞こえるような怒号」は根拠があるのだろうか。
(2)栗原本では、らいてうが「田中が可哀想だと思いとめにはいった」と記されているが、らいてう自伝では、野枝をたしなめるつもりでひとことだけことばを挟んだとなっている。
(3)栗原本では「・・・、さらにまくしたてた。このブルジョア夫人め、ブルジョア夫人め」とあるが、これはまったくのフィクション。
(4)栗原本では、山内みなが「とめにはいった」となっているが、山内みな自伝では、とめたのは市川房枝と記され、野枝と田中との言い合いが終わってから、野枝はみなのところにくるのであって、栗原のいう、みなが「野枝の逆鱗にふれ」るという事実はない。
(5)栗原本では、野枝が山内みなに語ったことばのなかに「なんでわからないの」とあるが、山内みな自伝ではそれはなくて、ここの部分は「本を送ってあげます」となっている。ちなみに後で実際に本は送られてきた。
 みられるように、まず、彼は事実をあまり重視していない。明らかに創作がはいっている。彼が描こうとしている野枝像をより際立たせようと様々に修飾を加え、それを根拠にして断定していくという乱暴な手法を用いて野枝 像をつくりあげている。

 堀も、野枝が田中と「騒ぎ」を起こしていて、それを聞きつけた平塚が「駆けつけ」「止めにはいった」、山内みなも「止めにはいった」と書いている。まさに栗原の記述を踏襲しているのである。らいてう、山内みなの自伝を読めば、栗原が一定の状態を捏造したことがすぐわかるはずだ。堀は果たして自伝をきちんと読んだのかと疑わざるを得ない。

 評伝にしても、歴史書にしても、史資料や文献をもとにていねいに史実を発掘して、それをもとに叙述するということが求められる。栗原が書いたものを、きちんと史資料や文献で確かめることをしないで書くということは、読者に対して失礼である。

 ちなみに、堀はそれぞれの記述に関して典拠を示さずに、巻末に章ごとに参考文献を掲げているだけである。これでは歴史書としては失格である。

 わたしは学生時代から野枝が書いたもの、野枝について書かれたものをほとんど手に入れ読んできた。本書から、あらたな史実を発見することはなかった。とはいえ、視点を変えることによってあらたな野枝像を描くことは可能ではある。だが、本書には野枝をみつめる新たな視点というものを感じることはなかった。

 この本で新しいものといえば、甘粕正彦、辻まこと、伊藤ルイらのことが第五章で書かれていることであるが、わたしにとっての新しい事実は書かれていなかった。

 大岩川氏が、本書をなぜに「すぐれた評伝」とするのかまったく理解できない。「評伝」とするからには、史実をもとに野枝像を描くことでなければならない。

 

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「僕らは害虫ではない」

2024-09-02 20:45:31 | 演劇

 ことし、葉鶏頭の種を買ってきた。はじめはなかなかいいじゃないかと思っていたが、長期の日照りが続き、そしてその後には雨の日が続き、世話が出来ないままに、葉は虫に食われて無惨なすがたになった。葉はほとんど食われて、ただ葉脈だけが残っている。

 葉を食べた虫は、害虫となる。害虫は殺さなくてはならない!と、実際花屋さんで売られている花々には害虫駆除の薬品がかけられているはずだ。

 しかしわたしは薬品はつかわない。夕顔の葉にも蛾の卵が産み付けられ、その幼虫が葉を食い荒らす。ときどき、箸でつまんで殺すこともあるが、今年は日照りが続いたせいか、いつもの幼虫を見ない。夕顔が、今年も夜、白い大きな花を咲かせている。

 さて、人間を「害虫」とみなし、命令に服従させ、むやみに殺害するという事態が、人間社会では起きる。人間社会のどこかで、それは起き続けている。「強制収容所」。

 ソビエト連邦の強制収容所、ナチスによる強制収容所、日本の「入管」、そしてガザ。そうしたところに収容される人びとは、大きな権力を持つ者にとっては、「害虫」として映る。

 強制収容所の例として4つあげたが、そのような収容所はこれだけではない。4つあげた理由は、「戻り道を探して ミレナとカフカとマルガレーテ」(くるみざわしん・作)という演劇の台本に示されているからである。

 今日、ポストを見たらそれがあった。東京に住むOさんからである。早速読んでみた。内容は深刻で、過去と現在を行き来しながら、強制収容所からの「戻り道を探す」というテーマで書かれたものである。

 三人の名が記されているが、カフカはあの『変身』のカフカである。『変身』は、主人公グレゴール・ザムザがある日突然「害虫」となってしまうというところから始まる小説である。ミレナは、カフカの恋人であった人、彼女も強制収容所で命を落とした。マルガレーテは、『カフカの恋人ミレナ』という本を書いた人で、ミレナとは収容所で一緒だった。マルガレーテはソ連の収容所、ナチスの収容所を体験していて、それについて『スターリンとヒットラーの軛のもとで』という本に書いている。いずれも翻訳されているが、わたしは読んではいない。

 カフカの『変身』における「害虫」、その「害虫」ということばを強制収容所や「入管」に収容された人びとが「害虫」視されることとをつなげ、さらに収容所の看守などもみずからを「害虫」とみなし、そこからの「戻り道」を探す、害虫から人間へと戻る道を探そうとする、そういう設定が、この台本の内容である。

 もちろんカフカも、ミレナも、マルガレーテも、そしてナチスの強制収容所の看守らも、すでにこの世にはいない。ミレナは、棺に入っているこれらの人びとを起こしていく。

 看守らは、目を覚まされるが、再び過去の強制収容所での仕事を繰り返そうとする。過去の強制収容所で行われていたことが、日本の「入管」やガザで繰り広げられているからだ。台詞には「・・・ちっとも変わらないな。ここにまた強制収容所が現れた。そこらじゅうにあるんじゃないか。今も。」がある。

 なぜ強制収容所があるのか。

 「問題は収容所のなかじゃない。外だ。貧困。恐怖。差別。戦争。そいつらが強制収容所を作っている」

 この台詞は、収容されている人びとが収容所をつくっているのではなく、収容所に収容されていない人びとの差別、恐怖、戦争・・・・が、収容所を設けていることを如実に示す。外にいる人びとの無関心や無知、それらが強制収容所を必要とし、収容される人びとを「害虫」としているのである。問題は、収容所の外にいるふつうの人びとに問いが投げかけられるのだ。「あなたたちが人間を害虫に変える仕組みを」つくっているのだ、と。

 「自分達が一番だと思い込んでいる連中は」、「遅れた野蛮人から土地と資源を取り上げるのは自分たちの権利であり、正しいことだと信じている」のであって、彼らに「素直に従えば家畜、逆らえば害虫」と、人びとを分別していくのだ。家畜たちは、「命じられるまま」に「害虫」を殺す。

 だが人間は「害虫」なんかではない。

 『変身』で「害虫」となったザムザが、「どうやったら害虫から人間に戻れるか」、それが書かれているのかとパレスチナ人のアンハールが問う。しかし『変身』には書かれていない。

 収容されている人びとも「害虫」とされ、収容所の看守らもみずからを「害虫」であったと認識し、再び棺の中へと還っていくのだが、収容所や「入管」の存在を見て見ぬふりをしている「家畜」たちも、決して人間ではなく、「害虫」に近い。

 「害虫から」どうやって「人間に戻るか」、その問いを突きつけた演劇が、この「戻り道を探して」である。

 しかしこれは、深刻な問題提起なのだということが、行間にあふれている。

 

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「地位が人をつくる」

2024-09-02 07:44:51 | 社会

斎藤知事と風呂場で語り合った「1コ下」の元担当記者がみた知事の素顔 就任3年間で斎藤知事に何があったのか...

 上記の記事を読んで思ったことを書く。

 人間みんなチョボチョボだ、という認識を持つわたしは、いかなる有名人であっても、いかに地位が高い人であっても、近所の人でも、どんな人でも、わたしの対し方は変わらない。わたしが唯一考慮するのは「長幼の序」である。

 さて、在職中の同僚の姿を見ていると、「長」の肩書きがつく人には、卑屈な態度を取っていたことを思い出す。「出世」して管理職になった人は、その前までは「ヒラ」なのだ。その「ヒラ」だった人が、「長」としての貫禄をつくっていくのは、周囲の卑屈な態度ではないか。

 わたしは職場の組合の「長」になったことがあるが、職場の「長」と組合の「長」は同じ「長」なのであるから、対等に話すし、要求もする。兵庫県知事のような人間は、その人独自ではつくられない。まわりの卑屈な人間たちが祀りあげることによって、その人間を増長させ、エラそうな人格をつくるのだ。

 兵庫県の職員は、おそらく県知事に対して卑屈な態度で接していたのだろう。なぜ卑屈になるかというと、「長」にゴマすることによって、みずからを引き上げてもらい、「出世」したいという魂胆を持っていたはずである。公務員はよほどのことがない限りクビにはならないから、ずっと「ヒラ」でも一定の給与は保障される。いいじゃないか、ずっと「ヒラ」でも。ひょっとして「左遷」されることはあるかもしれないが、自宅から通えるならそれでもいいじゃないか。

 わたしは最初の赴任校でM校長と何度かわたりあい、4年過ぎたところで転勤することを命じられた。伊豆の南にある学校が赴任先である(「左遷」!!)が、わたしは内々示の段階で、いろいろ手を回してそれを阻止し、全県1学区の全寮制の農業高校(自宅から通える)に転勤した。転勤後、そこの校長から、「キミはそんなに悪い人間ではないなあ」といわれたことがある。おそらくM校長がわたしについてひどいことを書き送ったのだろう。

 最後の学校で、こういうことがあった。翌日雪が降るという予報があった。たしかに雪が降ったが、わたしは公共交通機関をつかって何とかたどりつくことができた。ところが校長がいない。生徒や教員は、全員ではないが来ている。翌日、わたしは校長にこう言った。「雪が降ることは確実視されていたのだから、校長は学校近くのホテルかどこかに泊まるべきであった。校長の自宅が山間部にあるから車では来られないことはわかる、だからこそ、万難を排して出勤できるようにすべきだ。一部の教員や生徒は来ているのだから、責任者が来ていないのはおかしい」と。校長は、わたしの指摘が正しいことを認めた。

 「ヒラ」であっても言うべきことは言う、そういう姿勢を堅持していれば、「長」が増長することはない。「長」がエラそうになるのは、まわりの人間の卑屈な姿勢である。まわりの人間が、エラそうな増長した「長」をつくるのだ。

 なおわたしは、研究会や運動団体で「事務局長」という「長」のしごとはしたことがあるが、給与をもらうところでは、いっさい「長」の肩書きはつかなかった。ストライキで処分を受けたり、昇給延伸という「罰」を受けたことはあるが、それでもその給与で生きてこられた。

 

 

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