窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ささがねの蜘蛛

2009年01月22日 | レビュー(本・映画等)
  以前、故大野晋教授の『日本語の源流を求めて』ご紹介しましたが、本書は古事記・日本書紀・万葉集で未詳語とされる言葉や意味不明の神話がタミル語で解釈することによって、実に明快に解き明かすことができるという事を豊富な事例をもとに解説し、またそれによって古代日本語がクレオールタミル語ではないかという大野説を支持しています。クレオール語とは言語接触から生じた混成語、ピジン語が発達し、それがやがて母語となったものを言います。大野説は比較言語学の立場から多くの批判にさらされていますが、大野説は古代日本語がタミル語のクレオール語であって系統的に日本語がタミル語から派生したと言っているのではありません。本書においてはこれらさまざまな批判に対する反論も詳しく述べられています。

  いずれにしても素人である僕にとっては非常に興味深く読み応えのある本でした。例えば本書のタイトルにもなっている「ささがね」は「蜘蛛」に掛かる枕詞で、その語義は不詳とされ、やがて蜘蛛の異称と考えられるようになりましたが、これをタミル語で解くと「細い網」という意味になり「蜘蛛」とのつながりが実に明快になります。このような決して偶然とはいえない事例が本書では豊富に紹介されています。中には口承で伝えられるうち、万葉集が成立した8世紀当時すでに意味不詳となってしまっていた語や、万葉集においては本来表意文字である漢字を表音文字として使用した万葉仮名や後世本来の意味とは別の漢字を当てはめてしまったためめに、それら当てはめられた漢字の表意に思考が拘束され誤った解釈が通説となってしまったものもあり、それらもタミル語を用いて再解釈するとより自然と思われる意味が浮かび上がってきます。

  とりわけ興味を惹かれたのは、古事記に登場する人物の名前などをタミル語で解釈するといわゆる「国譲り」の神話が蛇崇拝の王権が太陽崇拝の王権に服属する物語であることが明らかとなるという点です。これは以前ご紹介した『龍の文明・太陽の文明』(安田喜憲著、PHP新書)にもほぼ合致します。またこの説が正しいとすれば、やはり日本人や日本という国はある時多勢の外来勢力によって征服されて成立したのではなく長い時間をかけ、さまざまな勢力からの影響を受けながら変化して成立していった、あるいは仮に征服王朝があったとしても彼らは数としては少数であり、現地人と同化しながら王権を確立していったと考えられるのであろうと思います。結局、日本人や日本語の成立過程はきわめて複雑で、ある一つや二つの起源に集約できるようなものではないことだけは確かなようです。

ささがねの蜘蛛―意味不明の枕詞・神話を解いてわかる古代人の思考法 (古事記・日本書紀・万葉集と古代タミル語の饗宴)
田中 孝顕
幻冬舎

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経済はナショナリズムで動く

2008年10月30日 | レビュー(本・映画等)
  前作『国力論-経済ナショナリズムの系譜』の続編とも言うべき本です。経済思想史的側面が強かった前作に比べ、今回は世界経済がグローバリゼーションと呼ばれて久しいにもかかわらず各国の経済政策がよりナショナリスティックな度合いを強めていること、即ち各国がネイションを基礎においた経済・外交政策を展開している中でわが国がそれを見失い、市場に委ねれば何となく望ましい方向に向かうのではないかという幻想に埋没して俗に「失われた10年」と呼ばれる90年代、そしてこの21世紀最初の10年を経過しつつあることをより現実の事象に照らして述べています。

 経済活動の目的はあくまで国富、それは単純にお金だけでなく政治力、外交力、文化、国民の能力などを含んでいるのですが、の増大にあり、経済活動を市場に委ねるかあるいは政策による介入を必要とするのかはその目的に寄与するか否かで決定されるのであり、決して「市場か政府か」というような対立関係で捉えるべきものではありません。

 本書を通し一貫して述べられている主張は、それらもまた国力を構成する要素である企業経営において、また一個人においても適用可能だと思います。したがってこの本をビジネス書として、また自己啓発の書として読むこともできます。

 例えば90年代以降、企業は株主の所有であり株主価値最大化だけが企業活動の目的である、また80年代までの日本型資本主義は戦時体制を引きずった異質なものであり、アメリカ型(と信じられている)資本主義のみが普遍的なモデルであると言われてきました。しかし経済活動はネイションを形作る文化や歴史などから起こるものである以上、資本主義のモデル、ミクロなところでは企業のあり方も多様性をもつと考えるのが自然です。

 そうすると我々は多様な企業の中から自分の企業を企業たらしめている要素を把握し、それを企業力と呼ぶなら企業力の増大こそが企業活動の目的になります。企業のあらゆる経営戦略は企業力の増大に寄与する限り様々なパターンが考えられるのであり、例えば「年功序列から成果主義が世界経済の潮流」といったもので判断されるべきものではありません。

 より個人のレベルでいえば、それは自分のアイデンティティを見出す作業に似ています。例えば何かの資格を取ったから市場原理のように「見えざる手」によって自己実現が図られるのではなく、家族、友人、国家、歴史、死後の未来までも含めた様々な要素との相互関係によって自己は形作られているのだということを認識する必要があります。自己実現とはそれら要素との関係をよりよいものにするため自律的に行動してはじめてなされるものであり、人の行動はその営みに寄与するかどうかで是非が判断されるのであろうと思います。恐らく道徳や慣習はそのような営みの中から形成されてきたのではないでしょうか。

 話がだいぶそれてしまいましたが、本書を読んだ後、改めて前作『国力論-経済ナショナリズムの系譜』を読むと経済思想史に馴染みがなく前作がとっつきにくかった方でもより理解しやすくなるのではないかと思います。

経済はナショナリズムで動く
中野 剛志
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二日酔い予防のために水分を控える?

2008年09月26日 | レビュー(本・映画等)
 機内での暇つぶしにと成田でたまたま手に取った本ですが、今までの思い込みが180度覆りました。水分の過剰摂取は何と体に悪いというのです!

  これまで僕は水分は過剰な分は排出されるのでいくら飲んでも良いものだと思っていました。しかし、この本を読むと水分の過剰摂取が原因と思われる諸症状に思い当たる節が続々...。最も意外だったのは、二日酔いを防止あるいは和らげるために痛飲した日は寝る前に水分を少なくとも1ℓは飲んでいたのですが、これが実は逆効果だったということです。

  出張中少なくとも一晩にビール4本、ウィスキーをロックで半ボトル位飲んだのですが、半信半疑ながらも寝る前の水分摂取を最小限(体が要求する程度)に抑え試してみました。すると確かに翌日酒が残りません。それを出張先で3日間、帰国してからも昨日はビールをジョッキ3杯、焼酎をロックで3杯呑みましたが、やはり水分摂取を抑えることで二日酔いを回避することができました。これは本当に驚きです。

  その他の点について本書に書かれていることは正直まだ半信半疑なところが多々あります。しかしそれらは今後実体験の中で解明されていくと思いますし、少なくとも僕の場合「二日酔い」に関しては確かな効果を確認しました。確かに僕はこのところ水分摂取過剰で、例えばこんな感じでした。

・朝食時麦茶2杯
・出社前にお茶1杯
・10時にお茶1杯+時々ペットボトルのスポーツドリンクも
・昼食時にお茶2杯
・移動の車の中でお茶ペットボトル2本
・午後勤務時にお茶ペットボトル1本
・フィットネスジムでトレーニング中にスポーツドリンク1本
・移動の車の中でスポーツドリンク1本
・帰宅して水で割ったプロテイン500ml
・夕食時麦茶2杯

  振り返ると何かを飲んでいないときはないくらい異常な状態でした。言われてみればここ2年、γ-GTP値が急速に高くなっているのはお酒のせいというより水のせいだったのかもしれません。これについては引き続き検証が必要ですが、いずれにしても水分は多くとった方が新陳代謝が高まるのではないかという根拠無き思い込みが全く逆だということが判明したのは収穫でした。


「水分の摂りすぎ」は今すぐやめなさい―細胞が元気になる根本治療法
石原 結實
三笠書房

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファミリー・タイズ DVD

2008年07月11日 | レビュー(本・映画等)
 確か中2の夏休みではなかったかと記憶していますが、当時毎日楽しみにしており、またそれ以降ずっとDVD化を待望していた「ファミリータイズ」が6月22日ついに発売されました。

 言わずと知れた「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックスの出世作、今回発売されたのはシーズン4の23作です。吹き替えは22年前そのままに懐かしい宮川一郎太のアレックス、やっぱりマイケルの吹き替えは彼をおいてないと思います。

 ただ吹き替えは20年以上前のものなので、その時代を憶えていない人にはちょっとピンと来ない台詞や死語も沢山でてきます。ですから吹き替えに違和感を覚える場合は字幕版か英語そのままで観るのも良いと思います。

 最近本当に笑えるコメディーがめっきり少なくなりましたが、ファミリー・タイズの絶妙の間の取り方はやはり素晴らしい、今後続編やシーズン1からの発売が期待されます。

ファミリー・タイズ 赤ちゃんにジェラシー編

パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国力論 経済ナショナリズムの系譜

2008年06月16日 | レビュー(本・映画等)
 僕のような薄学の輩が言うのも何ですが、経済学史の通説を覆す一冊。とりわけマーシャルとヘーゲルについてはあまりにも既成の認識と異なっていたので、僕もこれをどう理解したらよいのか当初は頭が混乱しました。思想史を辿っていくと古典派経済学は決して今日通年として理解されているような地球規模で普遍性をもつ独立した社会システムとしてではなく、あくまでネイションの力を増大させるための手段として理解されていたこと、自由主義経済もその枠組みの中で自由主義なのであり、一度市場がネイションの力を蓄積するのに不都合な方向に向かいだしたときはむしろ積極的な政府の介入が必要であると理解されていたこと。これらは新鮮な驚きでした。このようにとらえればマーシャルはケインズとそうかけ離れたことを述べていたわけではないはずですが、弟子のケインズが師を十分に理解せず、むしろ正反対の立場に位置づけてしまったのは、自分の立場を強固に権威付ける必要があったのかどうかは分かりませんが、不思議なことです。

 また、現在では自由主義経済最大の擁護者と映っているアメリカですが、そのアメリカの建国の父たちが経済システムをネイションの力を増大させるための機能として理解し、当時後進国であった自国の立場にあって保護貿易を主張していたことは注目されるところです。この事実は現在「アングロサクソンシステム」として一括りに理解されている新古典派経済が、グローバルに普遍性をもつシステムであるどころか、恐らく僕の私見では60年代以降の政治的イデオロギーに過ぎないのだということを物語っています。

http://d.hatena.ne.jp/masayukisakane/20080615

国力論 経済ナショナリズムの系譜
中野 剛志
以文社

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中竹竜二監督2

2008年03月02日 | レビュー(本・映画等)
  今年の冬はどうにか風邪を引かずにすんだかなと思っていた矢先、先週の土曜日から一週間風邪を引いてしまいました。昨日太極拳に行き体調を整えたので、今日からは大丈夫だと思います。

  昨日はラグビー日本選手権の2回戦。第一試合の近鉄も健闘を見せましたが、早稲田もよくやったと思います。47対24と点差こそつきましたが、今シーズンのトップリーグは上位4チームが最後まで高いレベルで鎬を削っていたので社会人と学生の力量差はかなりあると見ていました。そういう中では最後まで今年のチームらしさ、部分的には十分トップ4にも通用するところを見させてもらえたので、本当に素晴らしい試合でした。それに何より3月までアカクロを見られた今シーズンは、学生の皆さんは大変だったでしょうが見物するだけの僕としてはラッキーな1年でした。

  中竹監督の言う「フォロワーシップが機能する組織」ということで言えば、五郎丸選手のような精神面においてもプレーにおいてもチームの支柱となった存在が抜ける来シーズンはさらに真価の問われるシーズになるであろうと思います。

  先週25日はその中竹監督の『監督に期待するな 早稲田ラグビー「フォロワーシップ」の勝利』が発売された日で、早速購入しました。あっという間に読めてしまう本なので、3回位繰り返して読みました。清宮前監督と対照的にマスコミへの露出も少なく、これまでたまに雑誌や書籍に寄稿される記事を除いて中竹監督の考えについて触れられる機会がなかったので、『オールアウト』から10年、主将だった時代から12年を経て中竹監督の考えにどういう変化が見られるのか、発売をずっと楽しみにしていました。

  結論から言うと、監督の基本的な考え方は『オールアウト』の時と基本的に変わっていないような気がします。恐らく現在の考えの基本形は主将になる以前から形成されていて、中竹組での実践やその後10年にわたるラグビー以外の世界での経験が付与されて今日の形になっているのではと勝手に想像しています。この本は「フォロワーシップの勝利」となっていますが、「フォロワーシップが機能する組織を作るためのリーダーシップのあり方」について早稲田の監督を務めたこの2年間を通して語っています。以前も述べたとおり、僕も感覚的には「フォロワーシップが機能する組織」というものを理想としているのですが、現実にはフォロワーを育てるために必要なリーダーとしての態度が不十分で、それ故に監督のこの2年間選手たちに対しどのように接してきたのか特に興味がありました。

・自分で考えようとしない(リーダーが与えてくれるのを待っている)
・自分の強みが分からない
・コミュニケーションが苦手(人に何か言われると被害者意識をもつ)
・自分のパフォーマンスではなく他人の失敗との比較で自分を評価してもらおうとする

  本の中では結構多くの企業で悩みとして抱えていそうな組織の問題点が次々と列挙されます。このような状態からフォロワーシップ、つまりリーダーが不在でも組織の構成員(フォロワー)が互いにリーダーシップを発揮すること、によって環境に適応できる組織を作るためにリーダーは何から始めるべきか。「情熱」、なかったら全ての話が不毛になってしまうのでこれはリーダーである以上所与としましょう。情熱の次に重要なのは、中竹監督が恐らく資質として備えているが故にあまり強調されていませんが、できていない僕から見ると何より「話を聞く態度」だと思います。さらに考えられる人を育てるために直ぐ先走って答えを言わない忍耐力をどれだけ持てるか。本文中にもある通り、「考える習慣のない学生たちが、自分たちで考えられるチームを作るには時間がかかりすぎる」、最初のシーズンの失敗はそれでもその年の内に結果を出さなければいけないという矛盾によるものだと思うのですが、そうでないならば時間のかかる作業であることを自覚して我慢することがリーダーに求められます。

  その前提に立って、第3に重要なのはリーダーもフォロワーも万能でなく、万能である必要もないことを自覚すること。様々な分野でリーダーシップの類型が試みられてきましたが、結局理想のリーダーシップというものが見つからないのは現実に万能なリーダーシップなどあり得ないということに他なりませんし、だからこそフォロワーシップが重要になってくるのだと思います。同様にフォロワーにも万能を求めてはいけない、その代わり個々の強みを生かした「スタイル」の確立が重要なのだと本文では述べています。その際に注意しなければならないのは、現実を直視し法外な理想を追いかけないことだそうです。

  フォロワー個々のスタイルを確立するための第一歩として各自に自分の強み(できれば弱みも)を考えさせる。ところがまず自分の長所を見つけ出すことが意外とできない。リーダーとしてはここでどれだけ忍耐強く考えさせられるかが大切でしょう。思わずアドバイスをしたくなりますが、それでは自分で考えるフォロワーが育たないと肝に銘じたいと思います。強みがまとまってきたなら、その強みを生かした独自のスタイルを考えさせる。それら個々のスタイルを組織として機能させるにはコミュニケーションが欠かせませんが、コミュニケーションが苦手というのは中々厄介です。リーダーとしては目的がブレないようにだけ気をつけて、これもコミュニケーションの繰り返しの中でコミュニケーションを育むしかないように思います。

  その他評価基準を明確にすること、リーダーのフォロワーだけでなく、そのフォロワーにもフォロワーがいて組織を構成するわけなのでフォロワーとしてケアするのは特定の幹部や幹部候補だけでなく全員でなければならないということ。この辺は『オールアウト』の中でも既に述べられています。できそうでなかなか手が回らないのが通常の組織の現実だと思うのですが、これができる中竹監督の手腕はやはり凄いものだと思います。

  最後にジャストとフェアーについても心に残りました。ジャストとはルールで正しい、正しくないということ、フェアーはその場にいる人間の行動がきれいか汚いかを指す、と本文では定義されていますが、これを企業に当てはめて言うならジャストはいわゆるコンプライアンスの問題、フェアーは社会道徳や企業の持つ理念や価値観と言えるでしょう。ジャストはどんな企業でもある程度明確になっていると思いますし、フェアーもあるとは思いますが、フェアーの方は漠然としがちなので、これをもっと組織が活動する動機として活かせるよう掘り下げていく必要があるように感じました。

  あくまで私事に準えての感想でほとんど自分に話しかけているようなものなのですが、結局フォロワーシップを発揮できる組織を作れるリーダーとしての資質の部分で自分にはこれだけ欠けている要素がある、本書から学べたのはまさにこの点において再認識したことです。これまで生きてきた迫力からして違うのでしょうが、改めてとても同い年とは思えない人です。

監督に期待するな 早稲田ラグビー「フォロワーシップ」の勝利
中竹 竜二
講談社

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俵屋 福岡 繊維リサイクル

2008年02月06日 | レビュー(本・映画等)
 『俵屋の不思議』という本を読みました。京都の老舗旅館「俵屋」を中心に、柱や風呂桶を磨く「洗い屋」、障子屋、畳屋、豆腐屋、湯葉屋、造酒屋、骨董屋などなど、俵屋に関わる職人さんの伝統と仕事へのこだわりが活き活きと描かれています。これら日本の伝統文化を辛うじて繫ぎとめている京都の風土、一方で現代に生きる我々があまりに本物を知らないために偽物が本物になってしまっている現実。
どんなに良い物を追求しても、その良さを理解できる受け手がいなくなれば衰退していかざるを得ません。このことが繊維リサイクルの現状と重なり合って感じられました。

 こうした伝統を全て捨て去ってしまった後の日本人には一体何が残るのだろうと考えさせられます。資本主義経済の中に組み込まれた、単なる浪費する単位の集合?既に非日常化している歌舞伎や懐石料理といった断片を拾い集めて「これが日本文化です」と世界に向けて発信したところで、自分たちにその価値を認める下地がなければ不毛なことです。

 さらに、ふと先週行ってきた福岡を思い出しました。僕が愛してやまない福岡、10年振りにじっくり歩いた町並みはすっかりその姿を変えていました。しかしただ昔の面影がなくなったということ以上に感じていた寂寞感、あれは一体何だったのだろうと思っていましたが、今こうして考えてみると恐らく福岡の独自性の衰退、東京への同質化のようなものを感じたからではなかったかと思います。

 少なくとも10年前は曲がりなりに東京とは違う福岡の独自性みたいなものを感じることができました。しかし今回見た福岡は東京の人がイメージする(あるいはメディアによって作り上げられた)、例えばラーメンやもつ鍋といったものだけが極端にクローズアップされた福岡の姿、その中に福岡自身が埋没しているように感じられました。これは異質というよりむしろ拡大された同質化と言えます。僕が福岡を愛することに変わりはありませんし、10年振りに歩いてみただけで本当のことが分かるわけでもありませんが、直感的にそう感じました。

 福岡で感じた寂寞感は世界の中の日本ということについても、リサイクルが直面している現状についても感じられます。我々は我々であることを辛うじて繫ぎとめている艫綱を自らの手で断ち切ろうとしているように見えます。そうならないよいうに少なくとも自分のやっている繊維リサイクルの仕事をもっと掘り下げ、我々が先祖から受け継いできた「将来のためにまだ失ってはならないもの」を発信していきたいと思います。

俵屋の不思議
村松 友視
世界文化社

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分かりやすいブランディングの本

2008年02月03日 | レビュー(本・映画等)
 『なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?』今回の出張のお供として読んだ本です。当世ありがちなタイトルですが、中身は真面目なマーケティングの本です。ナイキとスターバックスで著者自身が関わったブランディングの手法が物語形式で分かりやすくまとめられており、楽しく読むことができました。以前ご紹介した『新訳経験経済』で述べられている物質経済から経験経済へのプロセスをA.マズローの欲求五段階説に準えて説明しているのが新鮮で印象的でした。
 ただ残念なのがこの邦題と装丁です。実はこの本自体はかなり以前から知っていたのですが、この安逸なタイトルと僕自身がスターバックスに行きたがらない人間であったがゆえに今まで読もうと思う動機がなかったのです。この邦題でブランディングの本だと見抜くのは至難の業ですし、そうでなければもっと早く読んでいたのですが。原題は"A New Brand World"、このままで良かったのではないでしょうか?それにこの邦題は本当に「なぜみんなスターバックスに行きたがるのか」を知りたかった人にとっても親切ではないと思います。

なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?
スコット ベドベリ,Scott Bedbury,土屋 京子
講談社

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太陽の文明

2007年12月09日 | レビュー(本・映画等)
 『日本語の源流を求めて』を読んだのをきっかけに、PHP新書の『龍の文明・太陽の文明』を数年ぶりに読み返してみました。こちらは黄河文明とは異なる一大文明がかつて揚子江流域に存在しており、やがて中原の漢民族により滅ぼされたことにより一部が現在の中国雲南省方面に、また一部が海を渡って南九州や富山・新潟方面に離散していったという説です。中でもこのようにしてたどり着いた南九州や上越・下越の越人たちが大和王権のルーツではないかという説は一般に信じられている朝鮮半島からの渡来人による征服説よりも説得力があり実に興味深いことです。現在の富山から新潟にかけて越前・越中・越後と呼ばれていたのはその裏づけではないかとも思えますし、僕自身高校生の頃日本史を勉強していて継体天皇が何故福井から呼ばれ即位したのか腑に落ちませんでしたが、それもこの説が正しいとすれば頷けます。

 本書のあとがきでも述べられていることですが、一般に日本人は海外からの文化を抵抗なく受容し、その良い部分だけを消化して自国の文化に取り入れる能力を本質的に持っていると信じられていますが、歴史を辿ってみると実際はそのような呑気な話ではなく、古くは隣接する華夷秩序から、近くは列強の帝国主義秩序からと常に強大な軍事的・文化的圧力の中で自国のアイデンティティを喪失しなねない危機感の中で外からの先進文化の摂取に努めてきたという、非常に緊張感を伴った営みであったことが分かります。しかしそれが可能であったのは日本人に「海外文化の良いとこどりをして自国文化に取り入れる」本質的な能力があったからというよりもたまたま周囲を海で守られ、民族の存立を脅かすような規模での異文化の流入を防ぐことができたから地理的要因にあったからと考えるほうが妥当です。したがって、もしこの危機感がないとすれば日本人に残るのは海外からの文化を何の抵抗もなく受容するという性質だけであって、それを今後もまた自分のいいように血肉化して独自性を保持できるであろうと考えるのは少々楽観に過ぎると思います。現在、特にインターネットの普及と期を同じくしてグローバリズムの名の下、文化の同質化の流れが顕著になりつつあります。そうした時に果たして現在のわれわれが通念として信じているとおり本当に海外から入ってくる文化を自身の存立に照らして取捨選択し血肉化する努力をしているであろうか、再考のときであると言えるでしょう。

龍の文明・太陽の文明
安田 喜憲
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タミル人と日本人のつながり

2007年12月07日 | レビュー(本・映画等)
 今日インドのお客さんと初めて会う予定になっていたので、何か話題の一つにでもと思い、岩波新書の『日本語の源流を求めて』という本を買って読みました。そこには古日本語と南インドからスリランカにかけて分布するタミル語との驚くべき類似性と、言語学的アプローチに最近の考古学の成果を補完して水稲耕作や鉄器の最初の伝播、つまり弥生時代の始まりが従来の定説であった朝鮮半島や揚子江下流域からではなく南インドからであったとする大胆な仮説が述べられており、大変興味深いものでした。

 日本史を考えるとき、とかく世界の動きと切り離し地理的に限定された日本という範囲だけでとらえがちですが、日本史は「鎖国」と呼ばれた時代も含めて複数の文化が混ざり合いながら形成されていったと考える方がむしろ自然なのです。インド洋を広く移動したマレー人や太平洋のポリネシア人、彼らの航海能力を考えればたとえ縄文時代であっても文化の窓口が地理的に近い朝鮮半島や揚子江下流域に限定されるとは言えないのではないでしょうか。これとはまた別のアプローチですが、数年前に読んだ『龍の文明、太陽の文明』という本もなかなか興味深いものでした。こちらもいずれご紹介しようと思います。

 この本によれば僕の苗字である窪田、日本語で"kubo"と"ta"="tambo"ですが、これに対応するタミル語で"kuval"と"tampal"というのがあるそうです。他にも偶然の一致とは思えない事例がたくさんあります。ご興味がある方はぜひお勧めです。

日本語の源流を求めて (岩波新書 新赤版 1091)
大野 晋
岩波書店

このアイテムの詳細を見る


  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする