窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

江戸の古着屋

2009年02月21日 | リサイクル(しごと)の話


  仕事で日本橋を訪れた際、建設現場の塀に描かれた絵に目がとまりました。それは上の写真のような江戸の町の古着売りの絵で、説明書きには、

「寛永6、7(1629、30)年頃、家城太郎治という者が竹馬のようなものをこしらえ、それに呉服をかけ、常盤橋のそばで売ったのが初めのようです。お客の女性は『地もいとうすく、色もさめつれば価は安からん』といって、生地の具合を見ながら値切っている様子がうかがえます」(三谷一馬著『江戸商売図絵』(中公文庫)より引用)

とありました。

  資料に見られる日本での古着屋の登場は室町時代と言われており、僕はまだ確認していませんが、恐らくこの時代の習俗を描いたものとして有名な『洛中洛外図屏風』などに古着が売られている様子が描かれているのではないかと推測されます。日本の長い歴史全体から見れば、衣類に限らず需要を上回るほど供給が多くなったのはごく最近40年位のことに過ぎませんから、古くから古着屋が存在するのはむしろ当然と言えるかもしれません。ただし現在でもそうですが、需要があるからそこに業が成り立つとは限りません。古着屋が存在しうるためには安定した需要があると同時に、再販できるだけの良質な古着がまとまった数量で確保できることが必要です。

 したがって古着屋が成立するためには都市化と、それに伴って商品経済がある程度発達していることが条件になりますので、都が置かれた上方では室町時代頃やはり古着売りを生業とする業者が現れ、江戸において上記の説明にある通り1630年頃、すなわち二代将軍徳川秀忠が死去し三代将軍家光の治世に移った頃で、幕藩体制が確立しつつあった時期。徳川政権のお膝元である江戸の町が次第に発展し、人口が増加、商業や流通が整えられていく中で古着売りを生業とする業者が現れたと考えられるのではないでしょうか。

  三谷一馬著「江戸庶民風俗図絵」(中公文庫)によれば、「富沢町、橘町の古着店は毎朝晴れの日には大通りに筵を敷き、衣服を並べ、店にもならべて、買ったり売ったりしている。午前11時頃には店をたたんで、表に格子を立てる。村松町は筵の上では売らず、終日店を開いて、衣服を店に釣り、あるいは並べて売っている。日カケ町にも古着屋がある。日カケ町とは芝口より宇田川町に至る大通りの北の小さな通りをいう字である。浅草中町、西中町にも古着屋は多い」(現代語に直しました)と江戸の町で古着が売られている様子が『守貞饅謾稿』に記されています。また、安永元年辰年(1772年)11月26日に出された「古物商へ売買定法再令」では御紋(江戸で御紋といったら徳川家の家紋を指すのでしょうか?定かではありません)の入った道具類は一切買取ってはならないというお触れまでされています。今風に言えば偽ブランド品の流通を禁じるようなものでしょうか?「再令」とあるところをみると繰り返し規制されていたようで、この頃には貨幣経済の発達と米価の値下がりにより都市の武士の生活もかなり苦しくなっていますから、仮に徳川家の品でなくても由緒ある大名の家紋が入った道具類が質入などの結果、市中に出回っていたとしてもおかしくありません。何だか江戸時代の事ながら現代にも通じるところがあり、興味深いです。

  なお、古着屋ですが京や大坂などの上方では古手屋と呼ばれていました。上方落語に「古手買」というのがありますが、それには大坂船場の坐摩神社の門前に集積した古手屋が登場します。因みに、現在百貨店で有名な「そごう」はこの坐摩の前の古手屋であった「大和屋」が起こりです。  

江戸庶民風俗図絵 (中公文庫)
三谷 一馬
中央公論新社

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  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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