慶珊寺。富岡郷の地頭、豊島明重(信満)が1624年(寛永元年)に父母供養のため、館の東に建立した寺です。
まず目に付くのが元内閣総理大臣・岸信介揮毫による「孫文先生上陸之地」の碑。今年は辛亥革命からちょうど100年になりますが、1913年(大正2年)、第二革命において袁世凱に追われた、近代中国の父・孫文が、台湾経由で日本に亡命。横浜沖よりこの富岡に上陸したことを記念する碑です。孫文は、その後東京へと向かい、中華革命党を結成して反袁世凱闘争を続けました。
豊島刑部明重父子供養塔。慶珊寺の墓地には、豊島明重とその子吉継の供養塔があります。この供養塔には、次のような悲しいエピソードがあります。
老中井上正就の子、正利と堺奉行嶋田越前守直時の娘との間にある時縁談があり、明重が仲人となりました。ところが、縁談が無事調った段になって、突然春日局が正就に鳥居成次の娘との縁談を持ちかけてきました。三代将軍徳川家光の乳母であり、権勢並ぶ者なき春日局の申し出を正就は断ることができず、嶋田直時の娘との縁談は破談となってしまいました。これにより仲人の明重の面目は丸潰れとなってしまいました。さらに追い討ちをかけるように、明重は嶋田直時の後任として堺奉行に内定していたにも関わらず、正就の娘婿の水野守信が堺奉行に決まってしまいました。
いかに相手が老中とはいえ、度重なり武士の面目を潰され、怒り心頭に発した明重は、嶋田直時に不手際を詫び、家人には後事を託して江戸城へ登城。1628年(寛永5年)8月10日、江戸城西の丸廊下において正就と行き合うと、「武士に二言は有るまじき事」と叫んで脇差を抜き、正就を斬り倒しました。その場に居合わせた番士の青木忠精が止めに入り、背後から明重を羽交い絞めにしましたが、明重は脇差を己の腹に突き刺し、青木もろとも貫いて果てました。嶋田直時もこの件の責を感じ自刃しています。
これが江戸城で初の刃傷事件です。この咎で、明重の息子吉継も切腹。しかし、民を慈しみ、父母に孝を尽くし、神仏を尊んだ明重父子の非業の死を富岡の村人は悲しみ、公儀から見れば重罪人であるにも関わらず、領主の菩提を弔うため立派な供養塔を建て、守り続けたということです。
<つづく>
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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