『鉄道シリーズ』その176。今回は京浜急行羽田線穴守稲荷駅から天空橋駅まで歩いて見る。京浜急行空港線は京急蒲田駅から羽田空港国内ターミナル駅まで6.5kmであり、そもそもは1902年の京浜電気鉄道穴守線として大森〜穴守を結んだ。最初は穴守稲荷への参詣に加え、羽田島への海水浴や潮干狩り、その後は飛行場への人員輸送を行った。しかし、1945年の空襲で被災するなど大きな被害を受け、穴守駅(旧、羽田空港駅)まで復興させたが、拡張のために移転した空港からは遠く、厳しい収支を余儀なくされた。ただ、空港の拡張の際に東京モノレールのみでは輸送力に問題があるとする国の方針から再度羽田空港への乗り入れが認められ、晴れて空港とのアクセス機関として輸送量も増加した。
私は京急蒲田駅で一階下の急行のホームに移り、羽田空港行きを待つ。急行とはいえ空港線は各駅に止まる。まずは糀谷駅、ここは地上駅であるが、次の大鳥居駅は地下ホーム、再度地上に出て穴守稲荷駅に到着。
下車すると改札口のすぐ外に小さな狐の石像、さらに入口には鳥居がある。その前の道を左に曲がり、3本目を右に曲がると穴守稲荷の参道に。道沿いには古ぼけたビジネスホテルや骨董ものの割烹などが立ち並ぶ。
その先に穴守稲荷があるが、本殿の奥には稲荷らしく朱塗りの鳥居が並んでおり、奥にも参拝をする。元々参詣のため、鉄道が造られただけのこともあり、立派な社殿や舞台を持つ。
神社の先の道を右に曲がり、しばらく真っ直ぐ行くと海の香りが強くなる。そして、バス通りを左に曲がるとすぐそばには弁天橋が現れる。
欄干が灯台になっており、下を海老取川が流れる。よく見るとその奥には赤い鳥居が見える。今は周囲も静かで河口には釣り人、クルーザーなども係留されている。こののんびりした橋で約50年前の1967年に羽田事件(羽田闘争)がおこり、京大生が亡くなったことを知る人も少ない。私は若い頃に高橋和巳の未完の小説『黄昏の橋』を読んだが、その橋の1つがこの弁天橋かと思うと期するものがあった。
橋を渡り、空港の方に歩くがこの川の先はかつて占領軍がすべての民家を疎開させたため、民家は全くない。そして、唐突にある大鳥居は穴守稲荷の参道入口、かつての大鳥居駅そばにあったが、これを移転させたもの。住民たちがシンボルとして残したものである。
その奥にはもう河口が広がり、東京ではめったにみることができない干潟を見ることができる。(以下、次回)