hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

上野駅(2)

2017-08-28 05:00:40 | 日記

『メトロに乗って』その66。前回の上野駅の続き。西郷隆盛像の裏あたりには上野の戦いで多数死傷者を出した彰義隊の墓所がある。実は江戸から明治にかけて活躍したグループには『◯◯隊・◯◯組』が多く、その役割が間違って覚えているケースが多い。(白虎隊、奇兵隊、海援隊、陸援隊、新撰組、見廻り組など)

彰義隊は江戸時代最末期に15代将軍徳川慶喜の警護などを目的に旧幕臣や志士などが結成した組織である。慶喜が江戸城無血開城後水戸に移ったあとも寛永寺に立てこもり、1968年5月に江戸市中取締の任を解かれた。つまり、糸の切れた凧のようになり、警察が一夜にして逆賊となってしまったのである。

そして大村益次郎率いる新政府軍が7月に彰義隊を包囲、アームストロング砲で上野の山を砲撃、1日で撃破したものでこれを上野戦争と呼ぶ。その際に何と彰義隊105名が戦死したのである。


この彰義隊の墓の近くには寛永寺清水観音堂がある。寛永寺は天海が2代将軍秀忠から寄進された土地に江戸の鬼門を守護する目的で作られたものだが、その際に比叡山や京都の有名寺院になぞらえた施設を作った。


清水観音堂とは京都の清水寺をモチーフに作った施設であり、本物とは規模がかなり違うがちゃんと舞台まで設えてある。さらに歌川広重の江戸百景にも描かれた『月の松』もあったが、これも現代に復活されていた。


また、他にも王仁博士(日本書紀を書いたと言われる人物)の碑や寛永寺を開いた僧天海の毛髪塔など色々な碑が立ち並んでいる。また、碑の説明板で驚いたのは天海は108歳まで生きていたことである。


それにしてもこれだけの狭い範囲に歴史の1ページを飾る人々の記念碑や建物がある場所も少ないであろう。上野は探ってみると中々深い場所である。

なお、不忍池や観音堂などにはまた改めて伺うことにしたい。