hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

日本橋馬喰町

2014-10-11 07:53:56 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その12。今回は日本橋馬喰町。町の位置は中央区の北東の端、西側に小伝馬町、南側に横山町、東側に東日本橋に接し、北側は千代田区東神田、また、神田川にも面している。

隣の横山町同様に繊維問屋街を形成、ただ、横山町より大きな会社が多く、特に『エトワール海渡』のショップは至る所にある。また、pop商品の『シモジマ』も多い。


地図をふと見て気がついたのだが、馬喰町だけあって不思議なことにちょうど馬の首のような形状で一丁目が『首』、二丁目が『頭』のように見える。

因みに『馬喰』とは『博労』とも書き、元々は馬の良し悪しの鑑別人や馬の医者なども指す言葉だったが、近世には馬の売買あるいは仲介をする者のことを指すようになった。そして、この町の名の由来だが、天正年間に博労頭高木源兵衛・富田半七が住んでいたという記録はあるものの、それが起源か否かまではわかっていない。

江戸時代の馬喰町は旅籠屋の町として知られ、42の旅人宿があつまっていた記録がある。これは元は浅草橋のたもとに郡代屋敷があったため、訴訟のために地方から上京した人が宿泊するため発達したらしいが、問屋が近く、商人もやがて盛んに宿泊するようになったらしい。因みに今もその郡代屋敷の跡が浅草橋のたもとに碑になり残っている。


アクセスはJR総武線馬喰町駅に加え、都営新宿線の馬喰横山駅、また、都営浅草線とJR総武線浅草橋駅も至近にあり、極めて便がよい。ただ、それ故か裏道に入っても建物は殆どが新しく、昔の風情を感じさせない町となっているのは残念である。

ホテルやオフィスビル以外には日本橋女学園の建物くらいしかないが、神田川沿いの校舎もよく見ないとオフィスビルに見紛う高層ビルである。今や清洲橋通りや江戸通り、靖国通りなどに挟まれ、すっかり新しくなった町である。


東京メトロ丸の内線方南支線

2014-10-10 06:14:21 | 日記

鉄道シリーズ その82。今回は東京メトロ丸の内線方南支線を取り上げる。中野坂上駅で本線と別れて方南町まで3.2kmを10分足らずで結ぶ丸の内線の支線だが、その歴史は古く、1961年に新宿~新中野が開通した折に中野坂上~中野富士見町は同時に開通、翌年に方南町まで延伸して今に至る。当初は新宿以西は地下鉄荻窪線と呼ばれていたため、この線も荻窪支線と呼ばれていたが、1972年に統合、方南支線と改められた。

この線はその利便性もあるが、中野富士見町に作られた中野検車区に回送をすることが、主目的である。そのため、新宿方向から来る直通列車は全て中野富士見町止まりで方南町は中野坂上か中野富士見町で乗り換えるしかない。これは方南町はホームが短いため、中野坂上~方南町は3両編成で運転している為である。


中野坂上のホームは良く出来ていて、方南支線の電車は2番線から出るが、その両側の扉が開き、荻窪方面も新宿方面もすぐに乗り換えることができる。中野坂上を出ると中野新橋、中野富士見町の途中駅2駅に止まり、方南町で終点となるが、方南町や中野新橋は開業当時の古い駅舎で降りると懐かしくなる。


なお、2016年には方南町のホームを延長して6両が乗入れられるようにして新宿方面と直通運転ができるようにする計画が最近発表され、また、中野新橋駅も改良工事に着手している。



東京都区内にもこんなのんびりした地下鉄があるとは、ゆったりした気分になれるが、すぐ終点か。

産業図案切手

2014-10-09 06:20:16 | 日記

切手シリーズ その33。今回は産業図案シリーズを取り上げる。前回取り上げた第三次新昭和切手が発行されて半年、1948年11月から順次新たな普通切手の産業図案シリーズとして発行された。

このシリーズは戦後復興途上の発行であったこともあり、色々な産業を取り上げた図案で、その生き生きとした点に共感を覚える。全部で12種類発行されたが、16円の穂高岳の切手以外11種類は働く市井の人々を扱った戦後らしさが感じられる。また、その時代の主力な産業を表しているとも言えよう。


農業水産業が2円農婦、3円捕鯨、5円茶摘み、20円植林の4種類、鉱工業が5円・8円炭鉱夫、6円印刷女工、15円紡績女工、100円電気炉、500円機関車製造の6種類と30円の郵便配達以外は全て農林水産業と鉱工業である。


見方を変えると、2円・5円茶摘み・6円・15円の4種類は図案に女性が描かれている。これは新憲法発布以降の男女平等の風潮を表しているものか。


それにしても『20円の植林』で植えた杉が30年の時を経て花粉症を起こすとか、『3円の捕鯨』が海外からの圧力で風前の灯火になるなどとてもこの時代には想像できなかったであう。


郵政省は最初のシリーズは昭和すかし入りの切手を発行したが、印刷効果向上と印刷技術確立によるニセものの発行が難しいとの判断から1950年11月からは透かしなしの切手に変更した。しかし、すぐに第1次動植物国宝シリーズが始まったこともあり、いわゆる『昭和すかしなし切手』はいずれも切手・エンタイアとも高額なものが多い。



根津・弥生の坂(文京区)

2014-10-08 06:28:14 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』シリーズ その7。今回は地下鉄千代田線根津駅で降りて周辺の坂を2回に分けて取り上げる。


根津駅は不忍通り沿いにあり、1番出口から出ると目の前に案内板。左に曲がり、しばらく行くと不忍通りふれあい館がある。ここには周辺のガイドマップあり、便利。その辺りには古い商店も目につく。


少し歩き、根津神社入口の信号を曲がると最近できたのかカフェや飴を売る店などが並びいい雰囲気。その先右手に根津神社がある。




根津神社の先には新坂、この坂はS字のようになっていることからS坂とも呼ばれる。その名付け親は森鴎外で『青年』という小説の中にこの坂のくだりがある。また、権現坂とも呼ばれるが、これは降りたところにある根津神社が根津権現とも呼ばれるから。

少し元に戻り、次の細道を右折、さらに突き当たりを右折、そして左折すると目の前に階段が現れる。人呼んで『おばけ階段』。なぜ、何の変哲も無いこの階段がおばけ?なのか。それは登りは40段、しかし降りてくると39段。やってみると確かにそうだ。本当におばけがいるのかな?



先を急ぐと道は細いまま左に曲がり、二又になる。左に行くと異人坂。坂を降りようすると坂の上に仲の良い三毛猫が2匹。どちらもメスのはずだが、じゃれている。しばし猫を見てから坂を降りる。
異人坂は明治初期にお雇い外国人の宿舎がこの坂の上にあり、当時珍しかった外国人をよく見かける坂であるため、この名前が付いた。お雇い外国人はこの坂を降りて上野の森や不忍池などを散策したらしい。


坂を降り、真っ直ぐ行くと言問通りにぶつかる。これが弥生坂の途中。坂の名前は町から取られた。別名の鉄砲坂は坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったためである。


さらに右に坂を上がっていくと右側に東大のキャンパスが登場。坂を登りきった辺りに弥生式土器発見のゆかりの地の記念碑がある。この辺りは本郷の台地に向かって坂や階段が多くあり、坂マニアにはこたえられない場所である。

千石駅(都営三田線)

2014-10-07 06:20:33 | 日記

『metroに乗って』その5。都営三田線千石駅を取り上げる。三田から西高島平まで走る都営三田線の巣鴨駅の一つ手前の駅で不忍通りと中仙道(国道17号線)の交差点近くに駅がある。


『千石』という地名は文京区千石1~3丁目に由来するが、この名前は1967年の住居表示変更の時、周辺7つの町を統合する際に小石川植物園近くを流れる『千』川と小石川の『石』を足して作った地名で歴史もなく、また、米の石高とは関係ない。


周辺には学校が多く、駕籠町小学校、村田女子中高、東洋大学、小石川中等教育学校などがある。特に小生にとっては小石川中等教育学校の前身の都立小石川高校で約40年前に高校受験をしたことが思い出深い。今は校舎自体建て替えられたが、雰囲気はあまり変わっていない。


また、同じく青春の思い出といえば大学生の頃に駅の裏にあった300人劇場でデートがてらに劇団雲のベニスの商人を見にきたことがあったが、それも2006年に閉館し、今はマンションになってしまっていた。


駅から歩くと10分くらいかかるが、名園で名高い六義園もあり、表通りから一本中に入ると静かな住宅街が広がる。六義園は柳沢吉保の下屋敷として造営した大名庭園で87,000平米ある。明治維新以降、岩崎弥太郎が購入して整備し直し、その後1938年に東京市に寄贈、今に至る。とにかく、桜と紅葉が有名でもう少し寒くなってから、天気の良い日にゆっくり訪問したいものだ。さらに六義園から10分も歩けばもう駒込駅、坂も少なく、ぶらっとするにはよい場所である。

交通公社の時刻表(昭和39年10月号)

2014-10-06 05:00:00 | 日記
鉄道シリーズその81。祝!50周年、交通公社の時刻表昭和39年10月号。丁度50年前の時刻表を久しぶりに眺めてみた。この時刻表は高校生の時に大枚7000円を叩いて購入したもので愛着がある。特に時刻表の表紙にも0系の新幹線の姿が写っていることを気に入っており、内容もダイヤ改正号となっている。というのは新幹線開業に合わせて従来在来線の昼間特急こだま、富士、つばめ、はとなどが廃止になって、新幹線に切り替えられた号であるからだ。

新幹線は当時ひかりとこだまの2種類があり、停車駅は超特急ひかりは東京・名古屋・京都・新大阪の4駅のみ、特急こだまは全て各駅停車と極めてシンプルに分けられていた。発車時刻もひかりは6時から20時まで00分に東京を発車し、4時間ちょうどで新大阪に到着。こだまも始発の2本と終発をのぞき全て30分に発車5時間で新大阪に到着していた。

それではそれまではというと第一こだまは東京を7時に出発、横浜・熱海・静岡・名古屋・京都・大阪と止まり、所要時間は6時間20分であった。つまり、新幹線を使うことで超特急ひかりならば2時間20分、特急こだまでも1時間20分時間を短縮できたのだから画期的なものであった。さらに翌年の10月からはひかりが3時間10分、こだまが4時間とスピードアップした。

当時、小生は幼稚園児であったが、夏の京都への帰省の際に新幹線で京都まで帰った話を幼稚園でして大いに羨ましがられた記憶がある。何しろ当時の時刻表のキャッチフレーズが『つばさのないジェット機』というのであった。また、新幹線の紹介の際には『夢の超特急』というのが枕詞であり、0系新幹線がさっそうと走っていたことを思い出す。今では行先案内は車両の横に電光式で出てくるが、開業当初はサボがついていたことも驚きである。

祝!500日

2014-10-05 00:04:46 | 日記

今日でこのブログ『hokutoのきまぐれ散歩』もスタートして500日となった。(スタートは2013年5月23日、また、5月31日からは毎日更新)はじめの頃は何でも気付くことを適当にレポートしただけだったが、今は鉄道シリーズ80回、切手シリーズ32回、古刹シリーズ23回、風景再発見シリーズ13回、日本橋町巡り11回、坂シリーズ6回などかなりシリーズ化されつつある。

まあ、マンネリ化と毎日継続を両立するには止むを得ないが、とにかく居酒屋探訪ばかり、あまり回を重ねるとあまり若くもない小生の肝臓にボディブローのように効いてくるため、この程度の頻度でご容赦賜りたい。また、これからも肩のこらないブログを続け、さらに話題も幅を広げて行きたい。

因みに、始めた頃は訪問者10人、閲覧数50人程度だったが、今は訪問者が100人強、閲覧数が300~600人のブログとなったのも応援していただける読者がいらっしゃることに感謝する次第。

最後にこれだけで終わるのは忍びないので500の付く駅に付いて調べてみた。JRでは1駅だけで東北本線の『五百川』駅、福島県本宮町にあり、本宮駅の一つ手前。駅名の読みは『いおかわ』でなく、『ごひゃくがわ』である。

他に私鉄には箱根登山鉄道大雄山線の『五百羅漢』(ごひゃくらかん)駅、富山地方鉄道立山線の『五百石』(ごひゃくこく)の二つである。まあ、あまり盛り上がるテーマではなさそうなので、ご挨拶。

これからも『hokutoのきまぐれ散歩』をよろしくお願い致します。

金木犀(キンモクセイ)

2014-10-04 07:41:35 | 日記

平日は駅まで約10分の道のりを歩いているが、途中のお宅の庭木に季節を感じることが多い。3月末から4月にかけては梅の花を皮切りにピンクの桜や濃い赤の花海棠、少し経って白やピンクのハナミズキの花、梅雨の頃の紫陽花の紫、夏の紅葉葵の赤い花、百日紅のピンクの花と目を楽しませてくれる。

しかし、この季節は鼻を楽しませてくれる金木犀(キンモクセイ)の香りに気がつく。キンモクセイは何ということのない常緑樹だが、今の季節に小さいオレンジの花を沢山つけ、良い香りを放つ。花の一つ一つは小さく、目立たないが、しばらくすると落下して地面にオレンジの雪が積ったようになる。

数えてみると駅までに8本のキンモクセイが植えられているが、一説には昔の便所の悪臭対策にこの樹を植え、さらにトイレの芳香剤にも使われたため、それを連想する人も多いとか。

しかし、人工的な香りと違い、通勤路で香るキンモクセイは春の沈丁花や初夏のジャスミンと共に気分を和らげてくれる。

因みに中国では桂花と呼び、楊貴妃が好んだ桂花陳酒はキンモクセイの香りをつけたもの。花が小さいこともあり、花言葉は「謙虚」である。


新昭和切手(その2)

2014-10-03 06:10:54 | 日記

切手シリーズ その32。第3次新昭和切手が出されたのは1948年1月からだが、その発行の理由は戦後のインフレによるところが大きい。

第1次新昭和切手が出された1946年7月は封書(20gまで)が30銭、ハガキが15銭だったが、1947年4月にはいきなり封書が1円20銭、ハガキが50銭と約3倍に引き上げられ、それに対応して第2次新昭和切手が発行された。

さらに1948年1月に新郵便法が施行され、逓信省が郵政省になったが、7月には封書が5円、ハガキが2円と約4倍に引き上げられ、この時点で第3次新昭和切手が発行された。その内容はハガキの値上げ分である1円50銭、ハガキ用の2円、封書の値上げ分である3円80銭、さらに10円と4種類である。

このうち1円50銭と3円80銭は第2次新昭和切手の35銭(ハガキ15銭→50銭)、45銭(ハガキ5銭→50銭、封書30銭→2枚で1円20銭)と同様にこれは不足分を貼付するのにわかりやすくしたため、額面が図案の切手である。(台湾数字切手を除き、いままで額面だけが図案の切手はこの4枚だけである。)しかし、実際にはあまり使われた例は多くなく、エンタイア(実際に使用された例)は高値で取引されている。

また、第3次新昭和切手からは日本郵便が左書きになり、菊の紋章も消えて戦後らしい切手となった。しかし、その寿命は短く、1948年11月からは産業図案切手にとって変わられることになる。

また、インフレもなかなか落ち着かず、1949年5月には封書が8円、1951年11月には封書が10円となり、ようやく安定することになる。そのあたりはまた次回。


ご近所の家~2軒の家が完成するまで

2014-10-02 05:28:47 | 日記

近所のお宅が売りに出て、業者が買い、上物が取り壊されたのが、消費税引き上げ直前の3月末。それから折角だからとどのように家が建てられるのかを観察してきた。

まず、整地をして、間取りを決めたのが5月3日。

次に土台を作りコンクリートをながす型枠ができたのが、5月18日。

さらに、型枠にコンクリートを流したのが5月25日。

流し込んだコンクリートが乾いて、土台が完成したのが5月30日。

6月28日には上物の建築に入る。

7月1日には柱が立ち上がり、骨組みと屋根はあっと言う間に完成した。

7月28日にはシートや足場も取られ、窓ガラスや戸が付けられ、概ね建物が完成、外に断熱材が貼られた。

その後、夏の間は土日も作業、ずっと内装をやっており、外見はあまり変わらず。そして、ほぼ住宅が完成したのが9月5日。さらにいよいよ外構をやりながら、販売も始まった。

毎日前を通るのでついつい記録をしてしまった。因みに2LDK➕ロフト74平米で5830万円、まだ2戸とも売り出し中みたい。今なら間に合うかも。少し狭いが、久我山駅から8分、便利だよ。(完成した家は最初の写真)