hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

梅の実と葡萄の房

2015-07-12 05:00:46 | 日記

夏の近づく梅雨空にふと気がつくといつもの通勤路にはブドウと梅が実り始めてきた。


最初は梅の実、普通の梅はもう実も実り、落ち始めているが、源平の遅咲きの梅の木は今まさに熟して、何十という大きな実が見ることができる。

それにしても源平咲きの梅にもこれだけの立派な実がなることは発見である。

そしてブドウだが、2軒の家にブドウが実り始めている。うち1軒は普通の塀に這わす形で生えており、黄緑の実が葉っぱの影でひっそり、しかし、しっかり実をつけ、日に日に大きくなって来ている。


周辺にはカラスやメジロ、モズや椋鳥のような実の好きな鳥が多いが、なぜか突かれていない。


もう1軒はしっかりした葡萄棚が建てられ、そこから沢山の房が下がっている。房にもよるがかなり大きく、さらに長く垂れ下がる。まだまだ、ほんの子供のような房もあるが、生育は順調なようだ。


毎日、少しずつ大きくなる実や長くなる房を見ながら通勤路を急ぐ、そんな毎日である。

壮大な会社名の鉄道

2015-07-11 05:00:07 | 日記

『鉄道シリーズ』その108。今回は壮大な計画はあったが、残念ながら実現されなかった私鉄の話。

『名は体を表す』という言葉があるが、鉄道会社の場合も同様で、例えば小田急は創業時は小田原急行電鉄、つまり『小田原への路線を持つ急行も運行する鉄道会社』、京王も『東京と八王子を結ぶ鉄道会社』、京阪も『京都と大阪を結ぶ鉄道会社』 というのが、その起源である。しかし、最初は壮大な夢を持って開業したが、残念ながらその通りにならなかった鉄道も結構多い。

まずは今も現存する方から紹介する。千葉県市原市のJR五井駅から上総鶴舞などを経て夷隅郡大多喜町の上総中野までつなぐ『小湊鉄道』。この鉄道は関東ではもう珍しくなった非電化私鉄の一つだが、上総小湊は通っていない。

元々は日蓮が生まれた誕生寺への東京方面からの参拝客目当てに外房の上総小湊を目指して1925年に建設が始まった。ただ、上総中野では外房の大原から来るいすみ鉄道(当時は国鉄木原線)と接続したところで資金不足や当時の技術ではその先の難工事を克服できないといった事情があり、1934年にこれ以上の建設は断念した。

それでも今も頑張っているのだから、大したものである。

次はさらに壮大な計画を持った鉄道である。かつて九州に『熊延鉄道』という小さな私鉄があった(現在は熊本バスとして存続)。鉄道路線は南熊本~砥用の26.6km。開業は1915年、全線開通が1923年であり、鉄道は1964年に全線廃止された。

この鉄道の名前だが、『熊』は熊本、それでは『延』はどこと思われるか?何と最初は宮崎県延岡市まで九州横断鉄道の建設を目論んだが、わずか26.6kmで断念してしまった。因みに九州横断線は国鉄も宇土(熊本県)~高千穂(宮崎県)の計画もあったが、着工には至らなかった。

しかし、さらに凄いのがある。これが福島県猪苗代湖近くにあった磐梯急行電鉄(通称、沼尻鉄道)である。磐越西線川桁駅~沼尻駅の15.6kmを結んでいた鉄道で元々は沼尻鉱山で採れる硫黄を国鉄川桁駅まで運搬する目的で1913年に開業したもの。ところが、戦後海外の廉価な硫黄や石油由来の硫黄との価格競争に勝てず採算が悪化、1968年にはついに閉山してしまう。

元は日本硫黄麻耶軌道部と言っていたが、観光に転換するべく1967年に社名を『磐梯急行電鉄』に変更した。しかし、このネーミングが凄い。というのは『磐梯』は地名だかや良いとしても、『急行』とついているが、全て普通列車。『電鉄』というが非電化と看板に偽りありである。というのは1960年代にオーナーとなった男が東証2部に上場していたこの会社に壮大な計画を作らせ、株価を引き上げさせてその後1968年には倒産をさせてしまうというひどい話であった。

他にも戦前には近鉄系の会社で信貴山急行電鉄というケーブルカー(鋼索線)+鉄道といった変わり種の路線もあった。こちらは中間駅すらなかったが、それでも急行が社名に付いた例もある。
まあ、今ほどうるさい事を言う事もなかった時代の話なのかもしれないが、『急行』でも『電鉄』でもないのに急行電鉄はやはりおかしいのではないか。

木槿の花

2015-07-10 05:00:36 | 日記

木槿(むくげ)の花が咲き始めた。木槿は高さが3~4mのものが多いが、じつは剪定された場合であり、自然に放置すると10m位まで伸びる。古くから庭木として使われており、その色や柄なども多種に及ぶ。中国では木槿(ムーチン)、韓国では無窮花(ムグンファ)と呼ばれる。


その花は花弁が5枚、花の中心に雌しべ、その周りを囲むように雄しべある。都市伝説で『一日花』と言われているが、花は朝開き、夕方にしぼみ、翌朝開くものもあるが、大抵は花は咲き続け、一重のもので2~3日、八重のものは2週間楽しむことができる。また、花がしぼむと花弁が落ちるのではなく、萼のところから落ちる。


花の種類は多く、八重咲きのもの、白地に底赤のもの(日の丸)、紫掛かったもの、全て白いものなど同じものがあまりないほどである。


韓国の国花であり、アオイ科フヨウ属に入る。同じ属にはフヨウ、ハイビスカス、紅葉葵など比較的華やかなものが多い。よくみると確かにハイビスカスによく似ている気もする。


玄海灘~日本橋グルメ

2015-07-09 05:00:09 | 日記

最近は忙しくてなかなかゆっくり飲みに行けない。さらに、飲み友が地方に赴任したため、さらに機会が減ったきもする。そんな中で久々に前の職場の友人たちと呑むことができた。場所は日本橋『通人の店 ふくべ』という名店のすぐそばだが、この辺りも再開発で随分風景が変わった。そういえばふくべにも久しく来ていないが、店構えから見るとしっかり昔を貫いているようだ。

今日の店は『玄海灘』、なぜかそばには『青玄海たまゆら』『白玄海』といった店が多い。まあ、この店はわかりにくい。外には看板はないし、その上地下にある。それだけ、自信のある店らしい。

席に着くとまずは生ビールで乾杯。すぐに刺身の盛り合わせが登場。さば、カツオ、鯛、ハマチなど中々鮮度が良さそう。醤油も普通の本膳と九州の醤油が2種類。鯖はやはりこの九州の醤油がよく合う。東京では久々のうまい鯖に出会う。鯛もカツオも大変美味。

遅れて魚の甘露煮が登場、これは突き出しらしい。つぎはサラダ、野菜不足のオッサンの飲み会には必須である。

次は大アジの干物。3人なので1枚か2枚かと聞かれ、相棒がすぐ2枚と答える。鯵の開きはとにかくデカイ。写真では縮尺がわからないが、30cmはある。これが2枚は中々の迫力だが、脂はのっているが、塩梅よくうまい。あっと言う間に骨だけに。

(写真では中々大きさがわからないが。)

次は鯖の竜田揚げ。味は薄めだが、魚が新鮮なのか、軽い。酒は『九平次』『美丈夫』と2合がすぐに空いてしまう。

そして『一口餃子』、さすがに九州料理をかたるだけあり、酢醤油で食べる。気がつけばあと数個のところで柚子胡椒をお願いし、赤霧島に合わせる。あ~あ、美味いなあ。

〆は鯖茶、不味いはずがない。久々の九州の味に舌鼓を打った。やはり、博多が懐かしい。


玄海灘
中央区八重洲1ー4ー4不二ビル別館B1
0332310252

麻布十番周辺の坂道(2)

2015-07-08 05:00:41 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その48。麻布十番周辺の坂道の続き。大黒坂を登り切り、一本松坂と暗闇坂が接する変形の四つ辻からスタート。この3つの坂道以外の道を行くと道が狭くなり、下り坂が現れるが、これが『狸坂』。


今も面影があるが、暗くて狸に化かされるような坂道のためにこの名前が付けられた。動物がついた坂には特徴があり、鼠坂はいずれも細くて急な坂道で鼠くらいしか通れないような道、蛇坂はぐねぐねと曲がった細い坂道、狸や狐、狸穴などが付く坂道は暗闇坂と同様に暗くて曲がったり、細くてきになる坂道だったようである。

狸坂は最後は一方通行になるほど道が狭く、急坂になる。坂の下はまた四つ辻になっているが、それを左に曲がるが、この辺りから警備の警察官が増える。

坂道を上がるが、これが『狐坂』である。この坂には標識がないが、この名前の由来も王子の狐同様に人をたぶらかす狐がいた伝説がある。これは明治初年頃にいた狐で美しい娘に化けてはほろ酔い気分の男が下心を持ち声を掛けるとこの辺りを引っ張り回し、最後は坂下の溝に突き落とされたという目にあった者があり、そのために狐坂と呼び、用心したものらしい。

狐坂の途中にはオマーン大使館と中国大使館があり、今は24時間体制で警備しているので騙されることはないだろう。

そのまま歩くと少し太いテレビ朝日通りに出るが、左折すると左手に向かう坂があるか、これが『中坂』。これは懇屋坂と北条坂の真ん中の坂道のために付いた名前らしい。

少し先には左に下る『紺屋坂』がでてくる。あまり確かではないが、この付近に紺屋(こうや)があったため、その名前が付いた。

反対側には中国大使館があり、その警備が厳しく、写真も撮りにくくなる。塀には中国の名所やオリンピックの活躍を示す絵が描かれ、なんとも珍しい。

また、代書屋のような店も並び、それなりに人が入っている。他の国の大使館にも行ったことはあるが、代書屋があるのはここだけのようだ。

その先の麻布消防署を右手に曲がると『宮村坂』、これは昔、この辺りが宮村町と言われたためだろう。この辺りには他にも色々な国の大使館がある。


坂を下りて行くと先ほどの狐坂の下に出てくるが、今回は雨も強くなり、かなりくたびれたのでここで一旦終了にし、また改めて来ることにしたい。
麻布十番周辺は外国の大使館や外人用の高級賃貸物件が並び周辺とは一線を画す地区でそのためか、緑も多く、あまり変わらない街並みが残されている。

消防博物館

2015-07-07 05:00:47 | 日記

博物館にもいろいろあり、このブログでも鉄道博物館を始め、地下鉄博物館、紙の博物館、警察博物館、日本新聞博物館など色々と取り上げてきた。

今回取り上げるのはかなり以前より気になっていた四谷消防署と同じ建物の中にある消防博物館にお邪魔した。場所は四谷三丁目駅から徒歩0分の地上出口が入口となっている。建物自体は10階建で展望休憩室があるため、まずは10階に。テーブルが食堂のように置かれ、子供会の集まりか、子供とお母さん方が20人程度賑やかに昼食中だが、周りの風景を眺める。


新宿駅方向には高層ビル群、四谷駅方向にはスカイツリーなども望めるが、天気が芳しくなく、あまりいい風景とは言えなかった。



階段で5階まで降りると展示が始まる。まずは江戸時代の火消し、町方と武家に分けて展示され、町のミニチュアなどもある。その中で町火消しの纏が数多く並べられ、圧巻である。



4階は近代の消防の展示で明治時代のポンプ車や白木屋火事で実際に使われた避難用ロープ、空襲への対応のニュース映像、関東大震災や阪神淡路大震災のパネルなど中々充実している。


3階は現代の消防の仕組みをジオラマなどで展示してあり、子供達も真剣に見学していた。また、ヘリコプターを使った消防の様子の紹介に加え、実際の消防ヘリコプターのコックピットも展示されている。


地下は少し前から現代まで消防車や救急車が8台も展示されており、大人も愉しめる。これが無料で観ることが出来るのだから、四谷あたりに来た際には是非寄ってみると良いのではないか。個人的には警察博物館より迫力を感じた。

雨の表現

2015-07-06 05:00:16 | 日記

『改めて日本語を知る』その12。梅雨だからやむを得ないのだが、毎日よく雨が降る。それだけよく雨が降る日本だけにその降り方の表現にもいろいろあるが、その表現と強さについて考えてみた。

『雨は今どのくらい降っている?』と聞かれて『今はしとしとと降っているよ。』と答えることがあるだろう。しかし、違う人が『いや、ぽつぽつ降るくらいだよ。』と言ったとした際にどちらの方が雨は強く降っているのだろうか。
実はその強さの度合いには順番がある。弱い方から『しょぼしょぼ』『しとしと』『ぽつぽつ』『ぱらぱら』『ざあざあ』となっている。因みに英語には『gently』『heavily』の2つしかない。まあ、直訳すれば『弱い』『強い』の2つしかないのだ。

では雨の表現による違いはしっかり分かっているだろうか。昔、欧陽菲菲のヒット曲に『雨の御堂筋』という歌があり、『小糠雨ふる御堂筋~』と始まったが、その雨は強いのか弱いのか、子供心に分からなかった。

実は小糠雨とは糠のような細かい雨つぶが音も立てずに静かにふる様を言う。また、『時雨』は降ったり止んだりするあまり強くない雨だが、季節は秋から冬にかけてである。『村雨』は降り出して直ぐに止む雨、『天気雨』は晴れているのにふる雨、『にわか雨』は降り出して直ぐ止むが、つよくなったり、弱くなったりする。

それでは『驟雨』『氷雨』『涙雨』はどういう雨であろう。一度調べてみるのも良いかもしれない。

とにかく。雨だけでもこれだけ色々な表現があるし、さらにこれに『五月雨』『菜種梅雨』『狐の嫁入り』など季節感のある表現も加えると数限りない。もちろん、最近加わった『ゲリラ豪雨』といったあまり風流でないものもあるが。まあ、日本語の奥は深いことに改めて感心する。

赤羽岩淵駅(東京メトロ南北線)

2015-07-05 05:00:38 | 日記

『metroに乗って』その23。今回は東京メトロ南北線赤羽岩淵駅、南北線の終点かつ埼玉高速鉄道の起点であるが、殆どの電車が直通運転をしているため、単なる通過駅のような感じがする。


場所は北区赤羽1丁目、北本通りと赤羽駅前からくる通りのT字路交差点あたりである。赤羽駅までは430m位である。北本通りを川口方向に歩いて行くと右側に立派な寺が見えてくる。


この寺が正光寺で鎌倉時代に開基した古刹であるが、数年前に建て替えを行ったため、まだ新しい。境内には岩淵大観音が鎮座し、山門からは正面に見える。



北本通りに戻り、道なりに緩く右にカーブし、橋が見えてくるがその手前を右に曲がると小山酒造が見えてくる。この酒蔵は東京23区で唯一であり、丸真正宗などを作っているがら試飲だけでもお金を取られるため、見学は諦めて先を急ぐ。


新荒川大橋はまず新河岸川そ してその先に荒川にかかり、都県境である。日中でも車の数は多い。一つ目の新河岸川は川幅も細くゆったり流れている。


その先には荒川が流れているがこちらは流石にかなりの川幅がある。



次に旧岩淵水門を見に行く。これは荒川と隅田川を仕切る水門で1924年に作られ、赤く塗られているため、赤水門の愛称で呼ばれる1960年には船を通すため5番ゲートが改造されたが、地盤沈降などに悩まされ、1982年に新水門が完成すると役目を終えた。しかし、取壊されることを地元の人たちからも惜しむ声が出たため、保存されることとなった。その後1995年に産業考古学会から推薦産業遺産と指定された。


その先にあるのが、新水門で色から青水門の愛称で親しまれている。RC造で10m幅の水門を三門備え、100年に一度の水害にも耐えられることとなっている。

赤水門の前には釣り客が多数いてリール竿を垂らしているが、あまりあたりは無いようで残念ながら釣る姿はみることはできなかった。

梅雨の中休みで橋の下で休む人、釣り糸を垂れる人、北本通りを忙しく走るトラックとは対照的にのんびりした空気が流れていた。

罵倒語~オタンチン・パレオロガス

2015-07-04 05:00:41 | 日記

『改めて日本語を知る』その11。今週のNHK歴史秘話ヒストリアでは夏目漱石と妻と猫の話が取り上げられたが、その中で『オタンチン・パレオロガス』ていう言葉を久々に聞いた。今回はこうした『罵倒語』の語源を記してみたい。

オタンチン・パレオロガスは東ローマの最後の皇帝でオスマン帝国に滅ぼされてしまう。その人物がかなり出来が悪かったようでこれをなぞらえ、漱石が『吾輩は猫である』の中で登場人物の苦沙弥(くしゃみ)先生を介して山芋の相場を知らない妻に向かって『オタンチン・パレオロガス』というくだりがある。つまり、バカだなあという意味である。

しかし、『おたんちん』を辞書で調べると江戸時代の廓言葉で『馬鹿な人』『間抜けな人』を指す意味で語源は『御短(短い)』+『珍(男性の生殖器)』とも言われており、この2つの言葉の関連はよくわからない。

では『馬鹿』の語源はご存知だろうか。これは司馬遷の記した史記の中に『指鹿為馬』という故事から来るとの説がある。これは秦の時代に宦官の趙高が謀反を企み、廷臣の敵か味方かを判別するために宮中に鹿を引いてやって来た。趙高が『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献上し、皇帝が『これは鹿ではないのか』と尋ねたが、趙高から廷臣に『これは馬に相違ないな』と言うと彼を怖れるものは馬と言い、気骨のある者は鹿と言った。そこで趙高は鹿と言った者を全て殺したというものである。ほかにも梵語の愚かを表すmohaの音から来ている説などもある。

関西ではあまり馬鹿という言葉は使わず、『阿呆』(あほ、あほう)を使うが、この語源は中国の江南地方の方言『阿呆(アータイ)』からきており、日明貿易が盛んだったころに京都に伝わったという説がある。因みに中国での意味も『おばかさん』程度の軽いものでそれが今もニュアンスで生きているのかもしれない。

『アンポンタン』は江戸言葉で18世紀末に江戸に出回った『アンポンタン』という魚(カサゴの一種)が大きさの割に美味くなかったため、『独活の大木』のように使われたのが起源の一つと考えられる。
一方、『あほんだら』はそういう鱈がいた訳でなく、『阿呆太郎』からきたもので阿呆を強めて言うときに使われる。

因みにこういった『罵倒語』を研究している人もいるようで『賞賛語・罵倒語辞典』という本が出されていることを始めてしった。一度機会があれば是非読んでみたい。

四谷三丁目駅(東京メトロ丸ノ内線)

2015-07-03 05:00:27 | 日記

『metroに乗って』その22。今回は東京メトロ四谷三丁目駅。実はこの駅は小生は大変よく利用する。しかし、それは常に宵闇迫る頃で日中に訪れるのは銀行時代に数回あった程度ある。

駅は外苑東通りと新宿通りの交差点辺りに位置し、上りと下りのホームが離れた造りで反対側には改札内の階段を利用するしかなく、さらにトイレは2番線の改札外であるため、注意が必要である。


2番線から地上に出ると出口そのものが四谷消防署の建物である。消防署といっても10階建ての立派なビルで最上階にはヘリポート、消防博物館も中にあるが、その様子はまた改めてレポートする。


この辺りにはいわゆる銘酒居酒屋と呼ばれる素晴らしい地酒を呑むことができる店がなぜか多くある。消防署の並びには『酒徒庵』『山ちゃん』、左門町側に渡ると『日がさ雨傘』。

四ツ谷駅方向に歩くと『萬屋おかげさん』、荒木町には『たきぎや』『たく庵』『与太呂』など行ったことのある店だけ並べてもきりがない。ただ、こうした店も昼に行っても何もない。


信濃町駅を目指すとすぐに四谷警察署がある。この前には黄色いミニカーのような警察車両があり、中々珍しい。

その先を左に曲がり、突き当たりを右に行くと東海道四谷怪談で有名な於岩稲荷が向かい合わせである。右手にある古いほうが『於岩稲荷田宮神社』、左にあるのが『於岩稲荷長陽山陽運寺』。



神社のほうは物語にある田宮家が今も管理している。ただ、鶴屋南北作の怪談と実際の田宮伊右衛門・お岩夫妻の暮らしぶりはかなり異なり、夫妻は円満で任侠沙汰は起こしてはいないようである。


この2つの社の経緯だが、1636年にお岩さんが逝去、1825年に鶴屋南北の四谷怪談が初演、これが大ヒットした。以来、出演者たちのお岩稲荷参りが始まるが、これが神社の方。この神社は四ツ谷田宮家内にあったお岩さんの手で祀った稲荷であり、明治5年に田宮神社に改称。

しかし、明治12年に火災で新川の田宮神社に移転。その間に寺が四谷稲荷と称した。しかし、両者とも昭和20年の空襲で焼失。昭和27年に田宮神社が四谷に再興された。まあ、簡単に言うと微妙な関係にあるようであり、幽霊よりも複雑である。



なお、通りの反対側には佃煮の錦松梅の本店などもある。また、その先の荒木町はまた飲み屋に行った際にでもゆっくり巡ることにしたい。