かぶれの世界(新)

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私はこうして英語を学んだ

2014-07-27 22:02:12 | 日記・エッセイ・コラム

 中学生になって1学期を終わり期末テストの結果が学校のロビーに張り出された(私の時代は普通のことだった)。私は多分学年トップか2番だったと思う。私は大満足で意気揚々と家に帰ったが、父母に通知簿を見せると彼等は私の英語の点数が他の学科に比べ酷く悪いのに気付いて心配したようだ。文句を言われた記憶はないが、トップの成績を褒められた記憶もない。

 だが、父は2学期が始まる前に手を打っていた。どこで調べたのか英語の先生用の教科書の解説本とレコードにポータブル・レコード・プレイヤーを頼んでもないのに買ってくれた。無理やり押し付けられた訳でもなく、「これ参考になるよ」くらいの感じでくれた。

 プレイヤーが手に入ったのでポップスのドーナッツ版レコードが欲しいというと、父は買ってくれた。私の初レコードは父が買ってくれたヘレン・シャピロの「悲しき片思い」だった。今思えば良く調べて買ってくれたもんだ。お蔭で2学期になると英語の成績は急上昇し得意科目になった。私はポピュラーソングと一緒に入って来たアメリカ文化に憧れ、その後は英語の勉強が寧ろ好きになった。

 その後英語はずっと点数を稼げる得意科目になったが、会社勤めを始めて意識が変わった。希望したコンピューター技術者になった私だが、先進技術が総てアメリカ発の英語で入って来る状況に圧倒された。20代から30代初め頃にかけ会社が主催する自主研修プログラムに参加し主にビジネス英語や技術英語を学んだ。その頃結婚し子供が生まれた。

 30代半ばを過ぎると管理職になり仕事漬けになった。英語の勉強の為の勉強はしなくなったが、仕事の為に英語の論文や技術資料を読む機会が増え、普通の英語ではないが結果的には生きた英語を学んだと思う。この頃に新聞社が主催したコンピューター業界の為の米国視察旅行に社費で参加し、米国企業や大学及び展示会を見学する機会を与えられ勉強の動機付けになった。

 その頃古本屋で英語のエロ本を手に入れ次々と読破し、変わった英語の勉強になった。根が助平な私は一見普通のペーパーバックの読書に励み、自宅で読んでも家内は横文字の本を勉強しているくらいにしか思わなかったはずだ。一方で地道な勉強もした。英語教育雑誌の提供するヒアリングの練習の為のテープが役に立った。仕事上読む英語ばかりでヒアリングも上達したかった。

 40代になると資材購入の責任者として海外の会社との取引をすることになり、それまでの読む英語から本物のビジネス交渉になった。といっても、英語の堪能な帰国子女の部下や代理店が間に入ってくれ交渉が進み、彼等の助けを得て最終的な判断をする役目だった。しかし、何度も繰り返すうちに海外ビジネスマンとの交渉のやり方やボディランゲージが分かり、言葉以上の知識を身に付けたと思う。人と通じ合うには大事な能力だったと思う。

 若い人に比べ言葉としての英語は上達しなかったが、総合的なコミュニケーション・スキルはそれなりに身についた。米国ビジネスマンの発想や文化を理解した上での交渉をそこそこやれるようになったと思う。そうなると、会社は薄情で私を一泊三日の弾丸海外出張に行かせ、単独交渉を強いるようになり、終いには素人の私に米国シアトルのオペレーションをみさせた。酷い話だが、私は普通では出来ない良い経験をさせて貰えるチャンスだと思い嫌ではなかった。

 海外赴任の半年前に実用的な英語勉強をさせて貰った。会社の自主研修プログラムで、サバチカル中の南カ大教授が先生の英文速読コースだった。ペーパーバック1冊を1時間弱で読んで粗筋を説明するのが目標だった。英語文書を読むのに日本語の5-10倍もかかっては仕事にならない。それが半分になるだけで効率が大違い、米国での仕事に役に立った。

 海外赴任後は英語の勉強もくそもない、単語を繋いだだけの滅茶苦茶な英語と(部下に)言われようと、間違いなく相手を理解し意志を伝え実績を上げるだけ。会社が若い優秀なスタッフをつけてくれたので何とかなった。最も上達したのは度胸だけかもしれない。仕事以外では日本人村には近寄らず、英語しか使えない現地の人達に積極的に近づいて行った。

 度胸がつくと落ち着いて相手の話を聞くようになり、それで英語がより理解できるようになったと思う。日本人スタッフと良く行ったタイレストランの人気娘と、赴任後2年後位たって偶然にも地元のフィットネスクラブ出会った時、私の英語がよく分からずやっていけるか心配したと言われた。そんなに酷かったのかと改めて実感した。

 私の英語は長い間勉強した積りだが、文法無視の単語羅列型だったようだ。というか、当時の教育システムでは英語で話す勉強など殆どなかった。読み書きに比べ話し方を教わった時間が極端に少なかった。度胸を含めた総合コミュニケーション力で米国赴任時代を乗り切ったと思う。

 多分、英語力はこの頃がピークだったと思うが、帰任後4年に退職し海外支援ボランティア活動に参加するためTOEICを受験すると895点だった。それ以降英語は不要となったが、リーマンショック直後には海外の投資情報を必至になって読み漁った。又、イチローが大活躍した頃は現地の評価を知りたくて地元新聞の記事を沢山読んだ。英語を勉強してきたのが別のところで役に立った。

 25年前だったかに長男が中学生になった時、家内に英語の成績が良くないと聞かされた。やっぱり私の子供だと思った。父のことを思い出した。その時はNHKラジオの英語教育番組を勧め、彼は毎日早朝番組を聞き成績が改善したようだ。他の子供達も同じ番組のお蔭で英語が苦手にならずに済んだ。その後は私の様に日常から英語が必要な仕事にはついていない。私も原文のペーパーバックを読むこともなくなった。■

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