財政赤字州の公務員組合が標的
緊迫する中東情勢とNZ地震に隠れて注目されていないが、リーマンショック以降急激に悪化したウィスコンシン州財政危機に対して、共和党系の知事が強硬な対策を採り公務員組合との間に深刻な対立が起こっているニュースが気になっていた。正確に言うと、米国の州レベルの事件など全く気にもしなかったのだが、毎日速報で伝えられるのでつい調べてみたというところだ。
ウォーカー知事は組合員の年金負担金や医療保険金を上げ、組合の団体交渉権を制限する法案を提出し、それを組合攻撃と見做し反対する運動が全米50州に広がったとCNNは26日に伝えた。この組合規制の動きは共和党系知事のオハイオ、ニュージャージー、フロリダなどに広がる見込みで、危機感を持った全米の組合が立ち上がったというところか。
日本の一部自治体の最近の動きに一脈通じるものがあるように思う。というのも、大阪府や名古屋市の首長選で起こった熱狂とそれを利用しようとする国政に同種の危うさを感じた。
阿久根市と大阪府の場合
具体的には鹿児島県の阿久根前市長と議会の対立に始まり、大阪府知事就任直後の橋下知事と議会の対立や、最近の愛知県のトリプル選挙に共通する問題を含んでいると思われる。日本の場合は、各自治体の首長の個性を反映した取り組みで共通政策がある訳ではないと感じる。
阿久根市の対立は市長のエキセントリックな性格が注目され、政策の争点がぼけてしまった。だが対立の背景は市民生活の困窮の一方で財政悪化と行政と何の貢献もない議会の特権的な収入であり、大阪府と共通するものがあるように感じる。
橋下大阪府知事の財政危機の取り組みも過激に見えても、基本的には公と民の両方に痛みを求め効率的でバランスのとれた自治体運営を目指す、ある意味常識的な政策のように私は感じていた。財政問題を解決し子ども達に借金を付け送りしないという明らかなメッセージがあったと思う。
名古屋市の場合
だが、先のトリプル投票で圧勝した愛知県の首長選挙では、名古屋市民や愛知県民が投票で示した民意の解釈が納得できず、気になっていた。私は選挙結果を見て裏づけになるデータが十分あったわけではないが、過去の延長とみて高齢者の票が勝敗を決めたと下記のように推測した。
トリプル選挙の衝撃と底流 http://blog.goo.ne.jp/ikedaathome/d/20110210
河村名古屋市長は恒久減税と議員の報酬半減を訴えて圧倒的な支持を得た。だが、名古屋市も例に漏れず厳しい財政状況にあり、減税を訴えて更に市の財政赤字を増やすのは若者にツケを回すやり方だと断じ、選挙で勝ったのは現在の生活が大事な老人だろうと解釈した。
米国との共通点と相違点
共通する点はリーマンショック後、脆弱だった地方自治体の財政が更に悪化し維持できなくなっていることだ。公共事業削減だけではジリ貧になる一方、大きな負担になっている行政コスト(地方公務員の給与や年金・医療保険)が削減の対象になって対立が生じたというところだろうか。
米国の場合は首長と組合の対決であり、団体交渉権を規制する法案が「組合潰し」と受け取られ反対運動が全米に広がったことであろう。日本の場合は大雑把に言えば、首長の改革と議会の既得権益の対立という特徴がある。日本では個々の政策に違いがあり共通の旗印として「広域自治」という曖昧なコンセプトでは、必ずしも争点は明確ではなくまとまりがない。
違和感と不安
実際のところ、愛知県の広域自治体案は同時選挙に合わせて後付けで出てきたコンセプトで、橋下知事人気と連携を図ろうとするイメージ先行の動きのように感じる。これを利用して民主党内の党内抗争や選挙を優勢に戦おう姿勢には違和感がある。近年のポピュリズム政治の典型的な現れのように感じるが、国民(多数派の老人)は支持するか、或いは選挙目当てと思うだろうか。
だが米国の場合も「問題は州財政ではなく権力闘争」だと、クルーグマン教授は興味ある指摘をしている(NYタイムズ2/20)。ウォーカー知事は(偶然にも河村市長と同じように)州財政を悪化させる減税を主張してきた。元々超富裕層の政治力で実現した規制緩和が起こした経済危機で財政が悪化し、彼ら超富裕層をチェックする最後に残った「公」を葬り去ろうとしている皮肉、と。
ポピュリズムは破綻を招く
社民党が聞いたら大喜びしそうな論理だ。私はこの指摘については中立だが、知事が酷い州財政にも拘わらず減税を主張し(ティー・パーティの支援を受け)権力を手に入れた手方が名古屋市長選とオーバーラップする。選挙に勝つ為には何でもありの今、このポピュリズムのトレンドが蔓延ると国を誤まらせると信じる。
2008-9年の世界同時不況は先進国に深刻な財政赤字をもたらし、余裕の無い欧州の小国に財政危機に追い込み、日米の自治体も財政が悪化した。自治体の場合お札は刷れない。政治と住民が対応を誤まればもっと悲惨な生活(夕張のような)が待っている。決めるのは政治と民意であるが、メディアはかつて日本を戦争に追い込んだと同じ責任を負うことを最後に強調したい。■