ピケティ読まずの為の本
昨年後半からピケティの「21世紀の資本」が話題になっていた。日本経済新聞はお正月に1面を使ってピケティの特集をやり、本屋に行くと地味な澄ました感じの表紙の「21世紀の資本」が平積みになっていた。世界的なバストセラーと言われているが、歴史を検証し格差が拡大しているという経済書程度に思っていた。何より古本しか読まない私には値段が高い。
手に取るとやたら分厚くとっつきにくい文章で、とても全部読みたいとは思わなかった。多分そのせいだろう、ピケティ本の倍くらいの面積を使って半分くらいの厚さの解説書と、更にその半分くらいの厚さの’ピケティ早わかり’みたいな感じの本があった。読まない(読めない)けど評判だから内容は知りたいという需要があるのだろう。
私は皆が騒ぎ出すと「読みたくなくなる」天邪鬼だが、最近ピケティ氏の有名な発見(r>g)の一部だけを抜き出して自説を主張し相手を攻撃しようとする人達を見かけるのが鼻についていた。こういう人達のどれだけがピケティを読んだのか大いに怪しい。遂にNHKが今朝の主婦向け番組で全く知識のない人達の為にピケティを紹介していた。
ピケティは都合のいい道具
こうなると私としては天邪鬼的ピケティ論を展開せずにはいられなくなる。どうにも悪い性格だ。先ず「格差」という言葉に引っかかる。日本は今でも珍しいくらい格差の少ない国のはずであり、そののことを一言も言わないで格差を云々するのは議論をミスリードする。この機会に何故日本は格差が少ないのか、寧ろその原因を深堀すべきではないかとさえ思う。
親の収入と東大入試合格者の相関関係をよく目にする。だが、親が馬鹿でも金を持っていたら東大に合格したなんて話は聞いたことが無い。収入と東大合格の相関関係は他のパラメーターを無視した乱暴な議論だ。知的能力と収入に相関関係があり、収入のある親の遺伝子を引き継いだ子供が東大入試に合格する確率が高まるのではと私は推測する。
ピケティの発見の格差論だけを都合よく利用する人達を見ると、90年代頃から始まった反グローバリゼーションを声高に主張した学者達のことを思い出す。絶対に避けられない世界の潮流に対し意味のない反対をし、グローバリゼーションにしっかり対応し利益を得る備えを邪魔した人達のことだ。その為に我が国は随分損をし他の国に出し抜かれることも多々あった。この時期にアジア危機で酷い目にあった韓国が導入した政策をどうするか、まだ日本は揉めている。
先人に学ぶ
ここで幕末に活躍した下級武士の若者達について論じたい。活躍したのは下級武士であり大名の上級幹部でも当時もっとも金持ちだった豪商の子弟でもなかった。数百年に亘り「極貧」の中で子供をきちんと躾て教育してその精神を子孫に伝えていった。数百年後に出番が来た時、彼等の才能は花開き縦横の活躍をした。彼等の凄さは富ではまだ甘い、命が懸かっていたのだ。彼等は貧しても鈍しなかった。我々は退化したのか。
私が心配するのはこの精神が日本に残されているかだ。今の小学校の運動会は駆けっこで順位を付けないのだそうだ。私の中学生時代、ロビーに張り出された期末試験の成績順位は公表されなくなった。才能や努力で頑張った結果優れた成績を残すと正しく評価される社会の中で子供を育てる必要がある。寧ろ勉強・運動だけでなく奉仕等あらゆる活動に広げるべきだろう。
所得の再配分は必要
我国の格差は比較的少ないとはいえ収入の再配分の仕組みは必要と私も思う。だが、それは最低限のセーフティーネットであるべきで、多くのマスコミや政治家のポピュリズムとは違う。再配分の優先順位は世代間格差を少なくする方に向かうべきだ。再び幕末に戻ると、当時訪日した野蛮人(外国人)は彼等から見て日本の子供が異様に大事に育てられるのを見て驚いたと伝えている。これまた昔の精神に戻れと言いたい。
格差社会への反論として「頑張った人が報われるとか自己責任の社会」が言われる。ピケティは頑張った人(g)より資産(r)を持つ人が益々富めることを発見した。我々が昔から気づいていたことだ。雇われるサラリーマンより、会社を経営・投資する方が遥かに収入を得る。だが、彼等はサラリーマンの何倍ものリスクを冒している、収入の差はリスクの差であることを認めないと我が国は衰退に向かう。ピケティも経済成長は必須だと言っている。■
昨年後半からピケティの「21世紀の資本」が話題になっていた。日本経済新聞はお正月に1面を使ってピケティの特集をやり、本屋に行くと地味な澄ました感じの表紙の「21世紀の資本」が平積みになっていた。世界的なバストセラーと言われているが、歴史を検証し格差が拡大しているという経済書程度に思っていた。何より古本しか読まない私には値段が高い。
手に取るとやたら分厚くとっつきにくい文章で、とても全部読みたいとは思わなかった。多分そのせいだろう、ピケティ本の倍くらいの面積を使って半分くらいの厚さの解説書と、更にその半分くらいの厚さの’ピケティ早わかり’みたいな感じの本があった。読まない(読めない)けど評判だから内容は知りたいという需要があるのだろう。
私は皆が騒ぎ出すと「読みたくなくなる」天邪鬼だが、最近ピケティ氏の有名な発見(r>g)の一部だけを抜き出して自説を主張し相手を攻撃しようとする人達を見かけるのが鼻についていた。こういう人達のどれだけがピケティを読んだのか大いに怪しい。遂にNHKが今朝の主婦向け番組で全く知識のない人達の為にピケティを紹介していた。
ピケティは都合のいい道具
こうなると私としては天邪鬼的ピケティ論を展開せずにはいられなくなる。どうにも悪い性格だ。先ず「格差」という言葉に引っかかる。日本は今でも珍しいくらい格差の少ない国のはずであり、そののことを一言も言わないで格差を云々するのは議論をミスリードする。この機会に何故日本は格差が少ないのか、寧ろその原因を深堀すべきではないかとさえ思う。
親の収入と東大入試合格者の相関関係をよく目にする。だが、親が馬鹿でも金を持っていたら東大に合格したなんて話は聞いたことが無い。収入と東大合格の相関関係は他のパラメーターを無視した乱暴な議論だ。知的能力と収入に相関関係があり、収入のある親の遺伝子を引き継いだ子供が東大入試に合格する確率が高まるのではと私は推測する。
ピケティの発見の格差論だけを都合よく利用する人達を見ると、90年代頃から始まった反グローバリゼーションを声高に主張した学者達のことを思い出す。絶対に避けられない世界の潮流に対し意味のない反対をし、グローバリゼーションにしっかり対応し利益を得る備えを邪魔した人達のことだ。その為に我が国は随分損をし他の国に出し抜かれることも多々あった。この時期にアジア危機で酷い目にあった韓国が導入した政策をどうするか、まだ日本は揉めている。
先人に学ぶ
ここで幕末に活躍した下級武士の若者達について論じたい。活躍したのは下級武士であり大名の上級幹部でも当時もっとも金持ちだった豪商の子弟でもなかった。数百年に亘り「極貧」の中で子供をきちんと躾て教育してその精神を子孫に伝えていった。数百年後に出番が来た時、彼等の才能は花開き縦横の活躍をした。彼等の凄さは富ではまだ甘い、命が懸かっていたのだ。彼等は貧しても鈍しなかった。我々は退化したのか。
私が心配するのはこの精神が日本に残されているかだ。今の小学校の運動会は駆けっこで順位を付けないのだそうだ。私の中学生時代、ロビーに張り出された期末試験の成績順位は公表されなくなった。才能や努力で頑張った結果優れた成績を残すと正しく評価される社会の中で子供を育てる必要がある。寧ろ勉強・運動だけでなく奉仕等あらゆる活動に広げるべきだろう。
所得の再配分は必要
我国の格差は比較的少ないとはいえ収入の再配分の仕組みは必要と私も思う。だが、それは最低限のセーフティーネットであるべきで、多くのマスコミや政治家のポピュリズムとは違う。再配分の優先順位は世代間格差を少なくする方に向かうべきだ。再び幕末に戻ると、当時訪日した野蛮人(外国人)は彼等から見て日本の子供が異様に大事に育てられるのを見て驚いたと伝えている。これまた昔の精神に戻れと言いたい。
格差社会への反論として「頑張った人が報われるとか自己責任の社会」が言われる。ピケティは頑張った人(g)より資産(r)を持つ人が益々富めることを発見した。我々が昔から気づいていたことだ。雇われるサラリーマンより、会社を経営・投資する方が遥かに収入を得る。だが、彼等はサラリーマンの何倍ものリスクを冒している、収入の差はリスクの差であることを認めないと我が国は衰退に向かう。ピケティも経済成長は必須だと言っている。■