かぶれの世界(新)

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私的・高齢化社会2006

2006-08-29 22:22:24 | 社会・経済

田舎に戻り2ヶ月間母と顔をつき合わしいささかうんざりした。体は紙みたいに薄くなり、日曜以外毎日点滴を受けている。それなのに朝夕野良に出て仕事をしようとする。体は弱ってもぼけてない、それはそれで始末が悪い。一言で言うと可愛くないのである。

去年と比べても酷く衰えた。もう来年はないかもしれないという気持ちがある。今にも倒れそうで痛ましいと思い、「これをしろ、あれをするな」と言っても素直に言うことを聞かない。しかし翌日になると普通に話できるようになるのが救いだった。

帰京を1週間後に控え、構わずやるべきことをやることにした。冬寒い時に洗濯物を干しに外に出るのは大変だろうと考え、乾燥機付の洗濯機に買い換えた。母は入院した時全自動洗濯機を使って化繊の衣服が縮んだので、乾燥機付と聞いて素直に喜ばず露骨に嫌な顔をしたのを見て、がっかりした。母は感情が直ぐ表情に表れ、私もそれを見てイラつく。どうにもうまく行かない。

それでも洗濯機が配達され取り付けてもらい操作法を聞く頃には、新しい機械を珍らしがり乾燥機を使わない方法もあることを理解して文句言わなくなった。他人の説明は良く聞く。最初からよく説明しない私がいけなかったというのが彼女の結論のようだ。

近所の老人達がベッドで寝ているのを聞いて、母は自分もベッドに寝たいので、出入りの大工さんに話をしてくれという。最初何で大工さんなのか訳が分からなかったが、誰かの聞きかじりのようだった。元々私が気を利かすべきことだったのだが。

目的が分かったので、市から委託を受けた介護サービスの地区担当の方に連絡すると直ぐに来て相談に乗ってくれた。私の関心はベッドだけでなく母の体力が急速に低下してきたのを見て、今はOKでも先々直ぐに必要になる手当てを全てしておきたかった。しかしそれほど単純ではない。

というのは、便利にすればするほど体を使わなくなり老化が進むので、必要以上に便利にしてはいけないということである。母も私もこの説明には納得した。なればベッドは最初から電動にすべきではなく、段差もむやみに無くしてはいけない。

母は毎日医者に行き点滴を受けていても、自力で行き来できるので介護保険の対象にならないことを再度確認した。それでも担当の方は昨年からの経緯もありこちらの事情を知って頂いているので色んなケースについて説明してもらった。

結論は介護サービス機器専門業者からベッドをレンタルし、必要になったとき電動式に取り替え、もしくはアップグレードできるのがベストということになった。業者を何社か紹介してもらいその場で決め、昨日業者の方を連れてきて来て頂き、商品の仕様・価格・設置条件などを決めた。

今日午前中に家具を移動しベッドの置き場所を作り、午後ベッドの搬入・設置をしてもらった。通常のベッドに比べ鉄パイプの塊で、モーター付で80kg、モーター無しだと50kg余で後から動かせる重さだ。ついでに隣部屋の箪笥の向きを変えてもらい通路を確保し、自動振込みの手続きをした。マットレスを含め1ヶ月1500円のレンタル料と意外と安かった。

その後、独居老人の為の市が準備してくれた非常連絡ボタンをベッドの横につけ、電話を手の届く位置に置けるようにし、クーラーやテレビのリモコン操作を確認した。クーラーは2部屋カバーすることになるのでやや効果が落ちるが程度で済んだ。最後にインターネットカメラでベッドの様子が見える確認をして終った。■

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米国でのバドミントンの思い出

2006-08-27 18:46:31 | スポーツ

私にとって米国でのバドミントンは現地の生活に慣れる為のサバイバル・ツールだった。95年にワシントン州に単身赴任したとき、普段の私をよく知る上司は趣味のバドミントンが米国でやれるか真剣に心配してくれたようだ。他国での一人暮らしには何か気晴らしが絶対必要だと思ってくれたからだ。日本にいた時仕事漬の私の気晴らしはバイクとバトミントンだった。ゴルフや酒の付き合いは私にとって仕事の延長線上にあり気晴らしにはならなかった。

米国に行ったらバイクは止めようと思っていた。もう年だし、何度も危険な目にあって潮時だった。40代になっていたが地域の年齢別バドミントン大会で、そこそこ勝てる程度の力があった。愛車のカタナは出発前に廃車手続きしたが、ラケットは米国行きの荷物の中に入れた。

赴任して生活が落ち着いた9月のある日、職場のグレッグ係長が気を利かして地域のバドミントン・クラブを紹介したフライヤーを持ってきてくれた。仕事が終わり、住所を調べて地図を頼りにタコマ市郊外のコミュニティセンターに行くと老若男女約20人、上手いのから下手なのまでてんでにやっていた。一見アジア系など移民が多い感じを受けた。

まとめ役のジョーに会うと即入会をが認めてくれた。飛び入り(ビジター)4ドル、会費月15ドル、シャトル持参、水曜の夜7時から10時まで、初回はトライアルで無料にしてくれた。日本にいた時と違いジムの掃除・整理整頓などはジャニターの仕事、やっちゃいけないということのようだった。

誰も準備運動無しで直ぐゲームを始めた。それはいいとして、バドミントンするために最低限必要な言葉が分からなくて最初戸惑った。もう殆ど忘れたが印象的な言葉を少し紹介する。シャトル・コックを鳥(私にはBirdieと聞こえた)、ダブルスの最初のサービスをカミングイン、2度目はワンダウンといった。得点の数え方は変わらないが、タイ・スコアの時例えばツー・オールの変わりにツー・イン・ピースとコールしていた。

練習はドリル、ハイクリアはlift、ストレート・ショットはdown-the-line、クロス・ショットはhit-cross-courtといった。慣れてくるとダブルスのパートナーが日本で言うtop-and-backup-and-backというのに気が付いた。side-by-sideは同じ。何度か聞けば、感じはつかめた。

後に知り合った日系アメリカ人のユージンは日本に行って大学生と合宿したことがあり、その時彼らがゲーム中聞いた「シャー」と叫ぶのはどういう意味か聞かれたことがある。それは「ヨッシャー」といっているのであり、goodgood shot!とかwell done!という意味だと説明した。

今なら卓球の愛ちゃんの「サー」だ。その後ゲーム中に私が時折発する掛け声も「シャー」としか聞こえないと彼はチョット疑わしい目で言った。米国人は「ヨッシャー」のような決まった掛け声は聞かなかった記憶がする。

暫くしてジョーがくれた州のバドミントン協会報に紹介されているシアトル西部のハイランド高校(日本の学校開放みたいなもの)に顔を出すようになった。そこで州バドミントン協会長のスティーブと知り合い、彼の紹介で更に他のクラブにも顔を出し、トーナメントにも参加するようになった。

州レベル大会は会員のみ(closed)とオープン、市・地域のクラブレベルは通常オープンのトーナメントがあり、私は何事も経験と積極的に参加した。出場の要領は紙情報があるので辞書を引いたり聞いたりで何とかなった。州のオープン大会だとカナダのバンクーバーあたりからも沢山参加があった。

参加費用は例えば1種目だけなら13ドル、2種目は5ドル、先払いは3ドル割引の特典と、さすがマーケティングの国と感心したものだ。会員でない場合はそれ以外に10ドル払うので、大抵はシーズンの最初の大会で入会手続きした。

スティーブとは同年齢で気が合いダブルスを組んで試合に出たり、シングルスで当たった事もある。州大会クローズド・ベテラン・クラス・カテゴリー(つまり州の協会会員のみ参加できる)シングルスで運良く準優勝し(その時スティーブに負けた)、驚いたことに賞金$10の小切手を貰ったことがある。この後マッサージで120ドル払ったという小話は職場の仲間に受けた。

米国ではバドミントンは日本よりマイナー、競技人口が少なくオリンピッククラスから初心者まで一つのジムで練習することは珍しくなかった。何度か相手をしてくれたアトランタ五輪出場の女子選手はさすがに強く全く勝負にならなかった。ジュニアの強化選手の身体能力に驚いたこともある。

バドミントンのシーズンは93月のところが多く、その後バスケやバレーボールに体育館を明け渡す。シアトル近辺では1年中活動しているクラブは限られており私もその間お休みした。9月に再開した時、以前勝てた相手に勝てなくなっていた。最初の冬はクラブのトップクラスも一目置いてくれたのだが。

気が付けばたった1年で体重が増え運動能力が低下した。更に1年経った2度目の冬はもうワンランク下げないとゲームにならなくなり、自然とバドミントンから足が遠のき、週末といえばバックパッキングに専念した。カリフォルニアに転居後は近くにクラブが見つからなかった。体調も優れず、最早バドミントンのようなタフな運動は出来なくなった。

その後日本に戻って34年後偶然会った友人に勧められバドミントンを再会したが、もう昔のようにバドミントンを楽しむ体力は取り戻せなくなった。私にとって米国でのバドミントンの経験はスポーツというより異文化コミュニティに溶け込み生き残る為のサバイバル・ゲームの道具であった。体力維持には貢献しなかったが、多様な交際相手ができ楽しい経験が出来た。■

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06夏の田舎暮らし-夏の終り

2006-08-26 15:02:26 | 日記・エッセイ・コラム

朝夕涼しくなって来た。昨日は豪快な雷と夕立が来て一気に涼しくなり、思いついていつものコースをジョギングした。山の端や谷間に低い雲が流れ墨絵のようだ。雨季のレニア山麓をハイキングした時の幻想的な景色を思い出した。この時期に歩くと登山口で低い雲を見上げ、雲の中に入って行き、更に登ると雲の上に雄大な山塊が広がっていた。

ジョギングの途中から実家の方角を見ると谷間に薄い霧が立ち込めている。少しでも雨が降ると湿度が急上昇するのも理解できる。実家の三方を取り囲んだ森が盛り上がって見える。殆どの水分を逃がさず取り込み真夏の暑さで蒸発させるからだ。

実家は築100年近い農家だが、お寺や神社のように床を1m位上げ、風通しを良くしてある。柱は石の上に乗っかっているだけで、地震があるとどうなるのだろうと子供の時からの疑問がまだ解けていない。

先週雨の中、母と妹の家族と連れ立って旧鹿野川町営のレストランでお昼を食べた。季節物の鮎の塩焼きを食べた。今年は形が小さいそうだが川魚特有の香りが懐かしかった。雨に煙る肱川ダムを見ていると落ち着いて静かな気持ちになった。私の大好きなひと時だった。

夜バドミントンの練習時オニヤンマが飛び込んできた。7月初め頃から赤とんぼを沢山見かけたが、数は少ないが昔この時期に見かけた真っ赤なトンボを見かけない。そういえばシオカラも余り見かけない。

一昨日からクーラーをつけずに寝始めたが、昼間は空気が澄んでいるのか日差しがかえって厳しい。午前中見えていたうろこ雲もなくなり、相変わらず蝉や虫の声が鳴り響く。しかし、澄んだ空の色を見ると徐々に秋の空になりつつある。そろそろ東京に戻る時期になった。■

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痔主物語、その後

2006-08-24 15:37:26 | 健康・病気

      

痔主初心者の参考のため為にその後の経過を報告します。

一週間経ち薬が切れたので一昨日医者に診てもらった。痛みはなくなった。時々血がにじむことがあるが出血はほぼ止まった、比較的柔らかい便が続いている、東京に戻るので念のため見ていただきたいと自己申告した。

先生は腫れが退きもう薬をつける必要ない、しかし後1週間程度は出血が続くので用心するようにといわれた。もし悪化するようなことがあれば肛門科でなくとも外科に行けば診てくれるといわれた。昨日バドミントンの練習をやり、今朝排便時やや大目の出血があったが取り立てて痛くも何ともなかった。その間の治療費はたったの1160円。

ということで思ったより凄くあっさり治った。実はお盆とこの数日間は晩酌程度のお酒は飲んだ。机に向かう時間は少し減らした。今後、便秘もしくは固い便が出たら注意しようと思う。分かったことは、痔は大した病気と思われてない、しかし早期に医者にかかることは絶対お勧め。ご心配かけました。■

                                      

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高校野球が見せたスポーツマンシップ

2006-08-22 22:43:02 | スポーツ

全国高校野球決勝戦は文字通り高校野球史に残る死闘だった。しかし試合後互いの健闘を称える両校のフェアな態度が全国に爽やかな印象を与えた。全力を尽くした者が見せる表情が両校の選手にあった。特に二人のエースが笑顔で並んだ記念写真は象徴的だった。勝者は驕らず敗者を思いやり、敗者には卑屈にならず勝者を称える心があった。

このところ相手に対する思いやりに欠ける光景を何度も見たので本当に爽やかな気分にさせてくれた。ジダンの頭突き、セリエAの八百長、ドーピング、亀田親子の対戦相手に対する不尊な態度、北朝鮮女子サッカーの審判暴行など醜い光景ばかり見てきたので本当に清々しい気持ちになった。

この差は何だろうか。プロとアマの差だろうか。高校野球は教育の一環として位置づけられており、監督も先生として教育を受け指導している。不祥事が起きたら連帯責任を負う。コーチの差があるかもしれないが、実は甲子園は将来のプロ選手の見本市だ。

全国クラスの選手はプロを目指し既にプロ級の実力を備えている者もいる。甲子園での活躍は即巨額の契約金に結びつくと考えるとプロアマの差はどれほどのものか。一方、プロの世界でもスポーツマンシップに溢れ相手を尊敬し子供のお手本になることが一流選手の条件である。

世界野球カップ(WBC)決勝で日本とキューバの選手が試合後一列に並んで握手し相手を称え交流したシーンを思い出した。米国のプロ野球(MLB)では絶対に見かけない新鮮なシーンだった。韓国が日本戦の後に見せた態度と対照的で、勝敗とは別に日本チームが見せたスポーツマンシップを私は誇りに思った。高校野球が求める厳格さは時に形式的な感じを受けるが、それが日本野球のよき伝統に貢献しているかもしれない。

最後に野球少年だった私のチョット専門的な思い。両投手は将来日本を代表するピッチャーになる素質があると思うが、あんなに無茶苦茶な連投をさせて大丈夫なのか。高校野球時代がピークだったということにならないか。選手生命にかかわることであり科学的な調査が必要と思う。マスコミがヒーローの家族まで追っかけプライバシーを暴き選手をスポイルするのも程々にして欲しい。■

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