かぶれの世界(新)

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多摩湖へ家族旅行(1)

2025-03-10 15:15:28 | 旅行記
土曜日の午前中から、娘が計画した近場の温泉旅行に強引に参加させられることになった。娘はお正月に山梨への温泉旅行を計画したが、私が年末からの体調不良で参加出来なかった為に中止にした。私は体調が回復すれば参加すると伝えていたが、体調に変化なく曖昧なままに中止した。

今回も娘と家内はやる気満々だった。娘はホテル代は支払ったし、当日になってホテルのキャンセルは出来ないという。娘に電話して今回も体調に自信がないと伝えると、それならタクシーで参加しろ多摩湖は遠くないんだから、と言って譲らなかった。こういう時の娘は絶対に譲らない、そういう姿を何度か見て来た。途中で体調が悪化したら戻るという条件で渋々参加することにした。

昼食後に家内と息子の3人で出掛け、世田谷からの娘と孫の二人と府中駅で合流して国分寺までバスで行った。初めて乗る西部多摩湖線で小平から東村山・武蔵大和を経由して、あっという間に終点の多摩湖駅に到着した。何度か車で通った経験があるが電車で通ったのは初めてだった。

終点から左に多摩湖沿い右に西武遊園地の歩道を西部球場方向に向かって歩いた。道の両側の景色は整備されており、特に歩道から林に見え隠れする多摩湖の景色は私の好みだった。10分かそこらで洒落た造りの掬水ホテルに到着した。不安だった足腰の具合も悪くなかった。

予約した4階のコーナーの部屋は二部屋あった。西向きの和室から多摩湖が見え、南向きの洋室から遠くに都心が見えた。広々とした窓から見える多摩湖は美しく、晴れた日なら富士山が見えるはずだったが窓の外は雪だった。窓から見えたのは湖畔の歩道を走る中年の人達と、窓の内側でゲームに熱中する孫の姿だった。

私は足腰に負担のかからないベッドのある洋室を選んだ、土曜日の夜は寒くてエアコンの設定を28度まで上げた。夕方6時過ぎから6階の広々としたレストランで多摩湖に面したテーブルに5人揃って夕食を頂いた。すぐ近くでピアノを演奏されて煩くて堪らないとクレームすると、ホテルは気を利かして別の窓際のテーブルを用意してくれた。

名物の中華料理コースを美味しく頂いた。延々と2時間続いた中華料理のコースを食べた経験はないが殆どは美味しかった。若干濃いい味だったので北か南か聞いてみると、上海料理だという。正直言うと、甘いもの好きの私には最後のデザートが美味しかった。

部屋に戻って風呂に入った。他の家族は全員食事前に風呂に入浴を済ませたが、私は寝る前に風呂に入ってお腹をすっきりさせたかった。残念なことに温泉風呂という感じがせず、着替えの隅の方は涼しい風が入って来て部屋風呂に入るべきだったと後悔した。■
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山口県旅行記(3)秋芳洞

2024-07-28 10:50:07 | 旅行記
最終日はホテルで朝食をとり山口市内の香山公園と、雪舟が築庭した公園のある常栄寺を見学した。皮肉っぽい私に言わせると歴史を造った支配者の為に作った立派な庭とお墓を祀った記念碑だ。かといって生きていた間に評価されることなく夭折した金子みすゞのことは全く知らなかった私だが。

言い訳するとしたら炎天下の常栄寺の庭で、座り込んで除草していたお婆ちゃん達と交わした会話「無理しちゃダメだよ、熱中症にならないでね」の方が私の本性を表しているかもしれない。実際、会話の途中で母や近所のお婆ちゃんのことを思い出していた。

その後バスで更に北に向かって走りこの旅のハイライトの秋吉台に着いた。残念なことに、秋吉台は雑草に覆われて広大な草原という雰囲気だった。年に一度の「野焼き」をやれば観光用の写真によく見かけるカルスト台地を見ることが出来たという。なのでバスは直ぐに秋芳洞に向かった。

秋芳洞の上側の入口に着いた時はまるで寂れた古い観光地の様相で、シャッターが下りた古びたお土産店が数店あっただけ。だが、鍾乳洞の中を歩き始めると月並みな表現だが、何百何千年を経て作られた自然の造形を楽しむことが出来た。

途中から次々と鍾乳洞の中の坂道を上ってくる観光客に出会い、海外からの人達もそこそこ見かけた。コロナ前のお客に戻ったと言うが最盛期の半分程度、つまりコロナ前からお客が減っていたということらしい。上り口に続く沢山のお土産店の半分はシャッターが下りていた。

お土産店の2階の団体客用のレストランで旅行最後の食事をとった。旅行中に何度か頂いた瓦焼きのゴボウ麺に舌が慣れたのか美味しく感じた。家内や息子もここは美味しかったという。往路と同じ萩・石見空港から羽田に飛び自宅に戻ったのは10時過ぎ、室温は35度もあった。

シャワーを浴びてエアコンで時間をかけて室温を下げながら家内と多めのお酒を頂き、ベッドについたのは12時過ぎだった。食事がまずいと文句を言いながら、しりもちをついて腰を痛めた(まだ痛い)が、総じて3日間の人生初の山口県旅行は楽しい経験だった。■
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山口県旅行記(2)下関から山口

2024-07-27 17:50:05 | 旅行記
2日目は同じバスで下関に向かい午前中に金子みすゞ記念館から、美しく長い角島大橋と123基ある真っ赤な鳥居が売りの元乃隅神社を見学した。観光客は戻りつつあるがインバウンドは余り見かけなかった。注目したのは26歳で夭折した童謡詩人だったが、私には彼女を語る文才は全くない。鳥居と大橋はとってつけた感じの名所で、橋と鳥居の先に何もなく引き返すだけだった。

それどころか、鳥居の先の岸壁の急坂を下る時に、スニーカーの裏底が岩の砂で滑り尻もちをついた。この岩道は誰も歩いておらず無理をする必要はなかった。しりもちをついた時は、右手で体重を支えて尻への衝撃を減らせた積りで、その時は大して痛みが酷くなるとは思わなかった。尻もちの直後は右肩に痛みが走ったが、2日後に腰の痛みが悪化し今日まで続き外出が出来なくなった。

昼食はお土産屋の2階のレストランで「アワビ付き会席」を頂いた。アワビを食べたのは多分初めてで私には無味だった。他にゴボウ麺だとかクジラやあんこうを頂いたが、私のバカ舌ではそれが美味しいのか不味いのかよく分からなかった。本音はもっと普通なものが食べたかった。

食後は高杉晋作が挙兵した功山寺を見学した後に、300m近くある火の山公園に上った。展望台で関門海峡から門司に続き振り返ると宇部市を一望した。景色に加えて標高300mの急坂を一気に登っていくのが気持ち良かった。その後、山中の高速道路を走り一気に山口に向かった。

山口は県庁ながら維新後に生まれた特徴のない町だと思っていたが、私は何も知らなかった。南北朝時代に大内氏が築いた西ノ京といわれる歴史ある町だという。戦国時代と異なり直線の道路が走っていた。湯田温泉のホテルにチェックイン後、市内の足湯を試そうと外に出た。

山口県が色々な所に温泉や秋吉台など火山の足跡があると私は知らなかった。家内と私は通りがかりの女子高生の助けを借りて観光案内所前の有料の足湯を試してみた。二人とも高校三年生で県立大学と福岡の某大学に進学の予定だという親切で可愛い女の子だった。時刻のせいかお客は我々の後にアベックが一組入湯しただけ、何かちぐはぐな市の観光施策と感じた。

ホテルに戻り食事前に湯田温泉を経験、名湯が売りのホテルというより普通の風呂という感じだった。もう一つの売りがフグ&瓦そば会席だったが、初日ほどではないが私には余り美味しさを感じなかった。だが、家内と息子は初日より不味くはなかったと言う。萩も山口も中居さんは全て東南アジアからの若い女性で、食事についてあれこれ言う気のは気が引けた。■
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箱館家族旅行(5)エピローグ

2024-03-08 20:52:36 | 旅行記
函館旅行から戻って5日経って家族に何が一番印象に残っているか聞いてみた。家内は雪だと答え、息子は雪とイカ料理だと言った。私も家内と同じ雪だった。誰一人として函館の夜景とか五稜郭ではなかった。出掛ける前の予想とは全く違った。

今朝目が覚めると我が家の前の路地道や物置の屋根に薄っすらと雪が積もっていた。都心でもちらほら雪が降っているとテレビニュースが伝えていた。逆に雪を見ると函館旅行のことを思い出す。今朝方降った雪は函館の雪とは異なり、水分が多く溶けやすいように感じた。

函館の特に教会を観光した時の坂道の吹き荒れた雪は乾いており、私は行った事はないが私が理解するニセコの「パウダースノー」の様だった。乾いた雪は握っても雪玉にならないらしいが、手足だけでなくコート全体に粉雪がまつわりついて真っ白になった。

だが、元英国領事館の暖かい部屋に入ると靴やコートを白くした粉雪は短時間に乾燥し寒く感じなかった。粉雪が積もった道を歩くとキュッキュッと音がして気持ち良かった。経験では大雪が降って衣服や靴に着いた雪は、直ぐに溶けて濡れたようになり寒々しくなったのだが。

二日目は寒さが緩んだからか広い通りの歩道は雪が解けて固くなったところがあり、時折足が滑る観光客の姿を見かけた。一度小学生の女の子が派手に滑って転び思わず大笑いして「大丈夫?」と声をかけると、両親の笑う声が後ろから聞えて来た。雪質が変化したように感じた。

気温が低いだけではこうはならないと思う。仕事でマイナス15度という極寒のボストンに何度か出張したことがある。その時は普通の革靴で歩いた記憶があるが、それ程「乾燥した雪」という印象はなく滑って転びそうになった記憶もない。マサチューセッツ州は車の滑り止めの塩を撒いていたので、それが違った印象になったのかもしれない。何れにしろ3人ともに楽しい旅行だった。■
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函館家族旅行(4)

2024-03-07 11:35:56 | 旅行記
前出の大沼公園へ向かう前に五稜郭に立ち寄り、五稜郭タワーに登り展望室を一周して雪の五稜郭と函館市の全体像を眺めた。更に展望室の内側を一巡りすると戊辰戦争の歴史を細かく説明したパネルがあり、家内は外側の風景より歴史の方に興味があったようで熱心に見てた。

私は例によって女性事務員を見つけると、何やかやとからかいながら雑談に熱中した。戊辰戦争のヒーロー的役割を果たした土方歳三の像の前で、「歳ちゃん」呼ばわりをしてきっかけを作り彼女に声をかけた。実は旧甲州街道の調布から府中にかけて新選組に係る記念物が幾つかある。

私は「我が家の直ぐ近くに歳ちゃんの先祖がいたよ」と話しかけ楽しく(少なくとも私は)雑談を交わした。彼女によると土方歳三」は日野市生まれだと答えたので、引っかかったとばかりに私は府中に住んでいて日野は隣町だよと調子よく答えた。全く好い加減なジーサンだ。

タワーを降りて家族3人で五稜郭内の箱館奉行所(昔は箱館と呼称した)を散歩した。五稜郭は元々は防衛上の目的で作られたものだったらしい。私は戊辰戦争の中心的な戦地だったとばかり思っていた。五稜郭の中を歩くと現在は意外に広い公園といった感じだった。

それから大沼公園に立ち寄ったが雪の公園道を歩いただけで何もせず、再びバスで函館北斗駅に戻り新幹線で東京に戻った。帰りは家族3人が一列に座れたが、窓の外は夜中の真っ暗だった。家内が買って来たお握りやビール等を食べ、大宮で下車し武蔵野線経由で自宅に戻ると10時過ぎ、急いで風呂を浴びお酒を飲んで12時過ぎにベッドについた。

実は後追いツアーをしたのは我々だけではなかった。前日と初日の早朝に地震が襲った千葉から参加した中年女性二人も、電車が遅れて東京駅発の新幹線に間に合わず遅れて函館に着いたという。彼女達は妙に仲間感を持って旅行中私と何度も話しをした。我々はJR在来線の電車が遅れたのが原因だが、彼女達は地震が遅れの原因だ。払い戻しがあれば、多分違いが出ると思う。

函館旅行に出掛ける前は北島三郎の銅像を見物するかと思ったが、一度もそんな話すら出なかった。私の単純な発想を家族に言ったのが恥ずかしい。旅行中は切符を無くして家族に迷惑をかけたりで、後期高齢者の衰えぶりを実感した。帰宅翌日と翌々日は疲労感が取れなかった。■
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