かぶれの世界(新)

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介護録10春(3-補)

2010-04-29 11:27:38 | 健康・病気

前の記事の補足を一つ。母の退院と老人ホームの入居の実行プランを考えたこの1ヶ月、ひょんなことで知った「トイレの神様」をよくYouTubeで聞いて、母の顔を思い浮かべた。この歌はいけない。そうでなくても涙もろくなった私は、毎回聞くたびに涙がにじんでくる。

お婆ちゃんの思い出をもとに作った歌だそうで、泣かせるリリックスを植村花菜さんの淡々とした歌い方でドラマティックに盛り上げ、聞く人の琴線に迫るというところが曲の印象だ。泣けてくるけど、これを聞いて母が生きている間に出来ることをしなくちゃと、この1ヵ月半を頑張れたところも幾分あると思う。お礼を申し上げたい。■

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介護録10春(3)

2010-04-28 22:48:54 | 健康・病気

昨日、母を退院させ介護付の老人ホームに入居させた。先々週、老人ホーム行きを母に伝えた時かなり強い拒否反応を示したので、その後は感情を刺激させないように黙っていた。病院の方でも伝えていなかったようだ。だが、前の日の夜にはいつも面倒を見てくれる看護婦や介護士から最後の夜だねと声をかけられ、母は「聞いていない」と答えたという。

私の作戦は説得を諦め、退院当日に老人ホームの専用車で迎えに来てもらい、日常のリハビリの延長で車椅子に乗り散歩に外出するルートを辿り、そのまま専用車に乗せて老人ホームの部屋にドア・ツ・ドアでスムーズに引越しさせるというものだった。

迎えが来る予定の1時間前に病院に行った。退院の事務的手続きは直ぐに終わり、各階にあるナースステーションに行き医者・看護士・介護士の引継ぎ文書と薬を受け取り、リハビリ成果の詳細を改めて聞いた。食堂の定席に座る母と一言二言話掛けて、近くのテーブルでアンケートに記入していると妹夫婦が顔を出してくれた。一瞬、母の顔色が緩んだのが見えた。

その後母の部屋に行き衣類やオムツからお茶器、ラジオなどの荷物をバッグに詰めた。暫くすると老人ホームの専用車が到着した。持参の車椅子への乗換えを促され、母は私の策略に気が付いたようで嫌がった。私が今度は病院じゃなくて、美味しい食事を頂き自由に外出できる、もっと住み易い所に移るんだよと言い、車椅子を母の傍に寄せると以外にあっさり諦めて乗り移った。

エレベーターの前に看護婦・介護士や病院のスタッフが集まりサヨナラを言ってくれた。それまで母の拒絶表現としてそっぽを向いていたが、最後に顔が崩れて泣き顔を見せた。可愛そうと思うと同時に、母がお世話になった人に対して感情を出してくれたことにホッとするものがあった。

小一時間かけて搬送車を追いかけ老人ホームに着き、直ちに車椅子の母は部屋に案内され荷物を収納した。その間母は車酔いせず落ち着いていたらしい。手際よく進んでいく。一通り荷物を整理したところで、3時のおやつタイムが来て母は食堂に案内されて行った。食べることが数少ない楽しみの母には実にタイムリーだった。顔色を見ると、不機嫌な時に見せる顔ではなかった。

その間に事務所に下りて先日交わした契約書に日付を入れて最終確認、控えを受け取った。担当医が決まったと伝えられ、母の車椅子の購入の手はずを確認した。ケアプランは今日受け取った引継ぎ書と担当医の診断を加味して見直すので、次回説明ということになった。

部屋に戻ると、母は車椅子で施設内を動き回り探検していた。以前に比べ前向きな感じがして、ホッとした。どうも新しい環境が気に入ったらしい。母が部屋に戻ると、ここは病院でないので許可を得て外出して買い物も出来る、家に行き気に入った服を持ち帰ることも出来ると、勇気付ける積りで言った。

「そんなに長くいるわけじゃないからいい」との母の返事に、私はむにゃむにゃと言葉を濁した。「終の棲家」と言えるはずが無かった。1日たち夕方に老人ホームに電話して母の様子を聞くと、食事は全部食べたし、ボランティアの音楽会にも参加して落ち着いた様子だったと言う。相変わらずの早食いだったらしい。一先ず安心。■

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平和な午後の残月論争

2010-04-26 23:25:47 | 日記・エッセイ・コラム

二日前に妹夫婦が大阪から帰省してきた。昨日夫君の提案で近くにある小高い山にある市営公園に行った。つつじが咲き乱れ暖かい春の日差しの中、あちこちにお弁当を広げる市民がいた。予想以上の人出だった。寅さんシリーズで印象に残っている、肱川にかかる橋と両側の町並みを見渡せるベンチに座り、3人で寿司をつまみビールを飲んだ。

小一時間後、肱川沿いの小さな喫茶店に入った。外観はいかにも野暮な作りのお店だったが、ドアを開け狭い階段を上っていくと壁に若かりしオードリ・ヘップバーンのモノクロの小さな写真が続き、更に50-60年代の映画スターやジャズ・メンの洒落た油絵がある喫茶店があった。隣は持ち主が同じオーナーの小ホールがあった。洒落てる。

このところの雨で水量が多い肱川と対岸が窓際から見え、暖かい日差しと水面の反射で窓を開けてあった。コーヒーの薀蓄(うんちく)や内外の旅行の思い出など次から次へと話題が続き、とても心地よい空間と時間が過ぎて行った。還暦を過ぎると、語るべき薀蓄の引き出しがあり過ぎて話出すと止まらない。

そのうちスィートの話題になり、私の長男がこの地方の名物の「志ぐれ」と饅頭「残月」は大洲市内の店で売っているものより、長浜町で作ったものの方が美味しいというがどうだろうかと意見を聞いてみた。義弟は食べ物には中々うるさいので明快な説明を期待したが、この領域は子供の時から当たり前の食べ物で余りこれといった意見がなさそうだった。

「しぐれ」はこの地方で昔から伝わる保存食だったもので、小豆を煮て餅米粉を混ぜてもう一度蒸した、甘さ控えめのモチモチした食感の菓子だ。県内の多くの店でお土産として販売する為、長期保存可能な防腐剤を混ぜピニールの袋に真空パックしている。一方、長浜町のあるお店では午前中に売り切れる数量限定商品で、防腐剤を使わずビニール袋にも入っていないから美味しいのだという説で余り議論も無く落ち着いた。

だが、残月については議論するには材料が不足していた。お店の気の良い感じの中年女性が突然口を開き、長浜と大洲のお店は兄弟が経営していると教えてくれた。残月という同じ名前を使ってはいるが、商品も包装紙も違う。息子が好きだという長浜町の残月は、あんこが白っぽく皮とあんこの間に隙間があって、その微妙な食感が良いのではないかと話しながら思った。

義弟がいうには長浜町のものはあんこと皮の熱膨張率の差が大きいために隙間が出来るのだろうと解説、もっともらしい。そうすると、結果として皮が比較的硬くなりあんことの微妙な組み合わせが息子にとっては良かったのかもしれない。私には大差ないように感じるが。たわいない雑談で初老の平和な午後が過ぎて行った。■

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自己崩壊の道

2010-04-22 23:13:56 | 国際・政治

普天間基地の移転先が決まらず迷走を続けている。パンドラの箱が開かれた。基地移設の候補地として表面化すると、全国どの地域でも激烈な反対運動一色で何も決められない事態になるだろう。絶対反対で賛否の議論すら起こらない、日本はそんな国になってしまったと、私は感じる。

平和と弱者の分配は求めるが、負担は断固拒否する。住民感情としては自然だし非難できないと思うが、そこで思考停止して良いだろうか。私のいつもの自説と反するが、今のリーダーは不人気になることを恐れ過ぎて、決断し民を説得することを全くしなくなった。

オバマ大統領が自ら出かけて行き説得を続け、反対論が強い医療保険改革を行った気迫を鳩山首相に求めるのは無理なのは分かっている。だが、このままでは政治の劣化どころか国民までスポイルしてしまうと恐れる。我々自身が身を守るしかないのか。■

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二つの縮図

2010-04-19 15:25:26 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、隣の集落の春祭りに参加する機会があった。そこで中学時代先輩だった地区長が挨拶の中で、今年度内に中学統合があると聞き驚いた。私は団塊世代で当時クラス45人、3クラス構成だったが、今年は統合する3中学合わせても37人、来年は30人を切るという。

遂にそこまで来たかという感じだ。市内の人口はそれ程減っていないから、老齢化と山間に住む人達の都市部への移動が同時進行したことが、学校統合を加速させた主な原因のようだ。山間に住む子供達は通学できるのか心配になる。

一方で、春祭りの集落はこの2-3年で人口が増えたと言う。地区長によれば特別な事はしていないという。子供達が田舎に戻って来て住み孫が生まれ、家族の再生産が進んだ為と言う。種明かしは、親達が子供達を助けて土地をあてがい、家を建てる支援をしたかららしい。昔なら当然のことだった。不況で雇用の悪化が背景にあるのかもしれない。

だが、家はあっても雇用は限られている。先月近くにあった大手電機メーカーの工場が閉鎖され市の財政に大きなインパクトを与えたと、同席した市会議員が嘆いた。そこに勤めていた人が近所にもおり、車で1時間以上かかる代替職場か退職の選択を迫られているという。

先日、中学時代の別の友人が表を通り過ぎた時、懐かしくなったと言って突然訪ねてきた。実に47年振りだ。彼はずっと金型製造の仕事をやってきて、今は第一線を退き後進の指導に当たっているという。私は90年代初めに金型購入にかかわったこともあり、当時既に後継者不足と海外移転など今日の問題を予測させる状況を感じていた。

当時の日本の金型はもの作り日本の土台を支えるものだった。新興国が容易に追いつけないとしても、10年も経てば相当に状況が変わっているだろうと思った。実際20年経った今、彼によればまだ日本は金型の優位性を保っているという。

台湾や中国のハイテック製品を見ると個人的にはそれ程差を感じない。彼の自信がどこから来るのか別の機会に本音を聞いて見たいと思った。自身が本物か空元気かどうか、我が国の将来に凄く影響するように感じた。

本題に戻り、お祭りにつき物の議員の名前が入ったお酒や金一封のお供え物が無いのは、前出の市会議員によると選挙運動の規制が厳しくなって何にも出来ないからという。来賓の挨拶でも次の参院選の話をしなかった。だが、小沢幹事長の故郷での演説を伝える昨夜のニュースを見てなんか変だった。

見かねたのか顔見知りの中年男姓が選挙運動の支援をと皆に呼びかけた。お祭りの会場には老人から子供までいたが、今度は自民党と言う声に中年以上が応えたが、若い人達は殆ど手を上げなかった。彼らのうち子供手当てを評価する人も多いはず、だが全体からみれば少数だった。この集落が今までどうだったか知らないが、こんな田舎でも風の変化を感じた。■

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