昨日のイラク国民議会選挙は武装勢力の脅迫やテロにもかかわらず、登録された選挙人の60%前後が投票したと報道されており、先ずは成功したと言ってよい結果となった。2001年9.11以来尊い血を流し3年3ヶ月目に得られた最大の成果といってよいだろう。ブッシュ政権の手法は国際的な批判を受け今後も楽観は許されないが、イラク国民の初めて訪れた選挙への熱意が非常に高かった事を示した。今後イラク情勢の好転を祈りたい。
9.11直後は米国の友人と政治の話をするのに躊躇いがあったが、大統領選を境に堰を切ったようにドンドン意見交換するようになった。友人達は全て反ブッシュであったのは意外だった。米国政府は9.11後次々と国家安全対策を実施し生活が窮屈になり影響がでている。昨年12月17日に私は「アメリカ離れ」と題して米国のセキュリティ強化の影響で日本からのブラジル行き旅行客がカナダ経由に流れていると報告したが、私自身、米国のセキュリティ強化の影響を実体験した。
2002年の夏カナダに旅行した時乗り継ぎのサンフランシスコで入国手続にひどく時間がかかりカルガリー行きのフライトに乗り遅れ、慌ててサンフランシスコから電話してピックアップの変更や現地ツアーのキャンセル、翌日以降のリスケをすることになってしまった。お陰で、空港内を探して息子とシャワーを浴び散髪する経験をした。その後も、搭乗前に行列から抜き取りで靴まで脱いで徹底的に持ち物をチェックされた。私と息子は何故か往きも帰りも例外なくチェックの対象となった。結局その日のうちにホテルにチェックイン出来なかった。しかし何処でも乗客は誰も文句を言わず黙々として長い列を並んでいたのは印象的だった。「アメリカ離れ」の報道を見るとその後も事態は変わってないようである。それ以降北米には行っていない。
2003年10月にB証券から私の居住国へのサービスを中止したので、証券を流動化するか他証券会社へ移管するか問合せの手紙がきた。私は日本に帰任する前の98年に長銀の倒産等のニュースを見て円に信頼を持てなくなっており、当地のドル預金を米国に残すことに決めていた。日本では未だ実施されていないラップアカウントをA銀行に開設し、ミューチュアルファンドを買った。 又、その子会社のB証券でファンド・オブ・ファンドを買った。更に友人の助言を受け、最寄の弁護士事務所でリボーカブル・トラストといって解約可能ないわば遺言書をつくり、まさかの時資産が州政府ではなく家族に渡るようにしていた。
この後アカウント・マネージャのアシスタントに連絡すると彼女は出産休暇、アカウント・マネージャは糸の切れた凧みたいに中々連絡がつかず、一般顧客サービス電話番号に連絡したり、その上司をプッシュしたりして約半年かけて各種ファンドを満期のタイミングに合わせ流動化し銀行口座(チェッキング・アカウント)に預けた。次にA銀行の資金転送の部門に連絡して日本のC銀行に電話連絡で電信送金できる設定をした。その後、手順に従って電話指示し資産転送し口座を閉じた。この手続が全て終わったのが2004年の5月であった。こんなに手間隙かかってフラストレーションの溜まるやり取りは初めてであった。その都度、銀行と証券会社の担当部門に連絡して事を進めなければならず、手続は基本的に文書でやらねばならないことが多く、メール連絡も出来ないので非常に効率が悪かった。実は日本でも又、C銀行からD証券への外貨転送の手続をする為に何度もやり取りが必要でうんざりしたのだが。それでも電車に乗れば日本語で交渉できる場所に行けた。
B証券のアカウント・マネージャは非公式のメールのやり取りの中で、「申し訳ない、ポスト9.11は以前とは全く違う世界になった。」と謝った。思い起こすと9.11後B証券は詳細に渡る身元照会の調査票を送ってきた。その内容を公証する(ノータライズという)必要があり弁護士の費用を惜しんで返事しなかったのがきっかけになったのかも知れない。A銀行やB証券内部で何があったかわからないが、多分全口座の氏名、住所、国籍、居住国、社会保険番号等をチェックして振り分けの方針が出た結果ではないかと推測する。
9.11直後は米国の友人と政治の話をするのに躊躇いがあったが、大統領選を境に堰を切ったようにドンドン意見交換するようになった。友人達は全て反ブッシュであったのは意外だった。米国政府は9.11後次々と国家安全対策を実施し生活が窮屈になり影響がでている。昨年12月17日に私は「アメリカ離れ」と題して米国のセキュリティ強化の影響で日本からのブラジル行き旅行客がカナダ経由に流れていると報告したが、私自身、米国のセキュリティ強化の影響を実体験した。
2002年の夏カナダに旅行した時乗り継ぎのサンフランシスコで入国手続にひどく時間がかかりカルガリー行きのフライトに乗り遅れ、慌ててサンフランシスコから電話してピックアップの変更や現地ツアーのキャンセル、翌日以降のリスケをすることになってしまった。お陰で、空港内を探して息子とシャワーを浴び散髪する経験をした。その後も、搭乗前に行列から抜き取りで靴まで脱いで徹底的に持ち物をチェックされた。私と息子は何故か往きも帰りも例外なくチェックの対象となった。結局その日のうちにホテルにチェックイン出来なかった。しかし何処でも乗客は誰も文句を言わず黙々として長い列を並んでいたのは印象的だった。「アメリカ離れ」の報道を見るとその後も事態は変わってないようである。それ以降北米には行っていない。
2003年10月にB証券から私の居住国へのサービスを中止したので、証券を流動化するか他証券会社へ移管するか問合せの手紙がきた。私は日本に帰任する前の98年に長銀の倒産等のニュースを見て円に信頼を持てなくなっており、当地のドル預金を米国に残すことに決めていた。日本では未だ実施されていないラップアカウントをA銀行に開設し、ミューチュアルファンドを買った。 又、その子会社のB証券でファンド・オブ・ファンドを買った。更に友人の助言を受け、最寄の弁護士事務所でリボーカブル・トラストといって解約可能ないわば遺言書をつくり、まさかの時資産が州政府ではなく家族に渡るようにしていた。
この後アカウント・マネージャのアシスタントに連絡すると彼女は出産休暇、アカウント・マネージャは糸の切れた凧みたいに中々連絡がつかず、一般顧客サービス電話番号に連絡したり、その上司をプッシュしたりして約半年かけて各種ファンドを満期のタイミングに合わせ流動化し銀行口座(チェッキング・アカウント)に預けた。次にA銀行の資金転送の部門に連絡して日本のC銀行に電話連絡で電信送金できる設定をした。その後、手順に従って電話指示し資産転送し口座を閉じた。この手続が全て終わったのが2004年の5月であった。こんなに手間隙かかってフラストレーションの溜まるやり取りは初めてであった。その都度、銀行と証券会社の担当部門に連絡して事を進めなければならず、手続は基本的に文書でやらねばならないことが多く、メール連絡も出来ないので非常に効率が悪かった。実は日本でも又、C銀行からD証券への外貨転送の手続をする為に何度もやり取りが必要でうんざりしたのだが。それでも電車に乗れば日本語で交渉できる場所に行けた。
B証券のアカウント・マネージャは非公式のメールのやり取りの中で、「申し訳ない、ポスト9.11は以前とは全く違う世界になった。」と謝った。思い起こすと9.11後B証券は詳細に渡る身元照会の調査票を送ってきた。その内容を公証する(ノータライズという)必要があり弁護士の費用を惜しんで返事しなかったのがきっかけになったのかも知れない。A銀行やB証券内部で何があったかわからないが、多分全口座の氏名、住所、国籍、居住国、社会保険番号等をチェックして振り分けの方針が出た結果ではないかと推測する。