東京から家内が義母を見舞いに田舎に来て、1泊していった。お土産の中に朝日新聞グローブ(日曜版4/17)を見つけた。何も言われなかったが10日も前のものをわざわざ持って来たのだから、読めということだろうと思って遅ればせながら読んでみた。
1面を見ると目次の「震災報道、テレビの現場」が目に付いた。テレビ朝日「報道ステーション」のコメンテーターの一色清氏が震災報道の内幕を紹介する記事だった。原発事故が表面化した時から従来の報道姿勢と異なり、明らかに抑制された伝え方に変わったと感じていたので、実際何が起こっていたのか気になっていた。
メディアによって評価が異なるような大事件でもない限り、ニュースステーションは見ない。キャスターの妙にテンションが高く正義感を振り回すような濃い味付けのニュース番組は好みではない。だが、震災後の同番組が少し変わったように感じていた。パニックを起こさせずに正しく事実を伝えるため最大限努めているという印象があった。高いテンションとか正義感が引っ込んだ。
一色氏の記事は、私がいう「抑制された報道」が実際に存在したこと、それは担当デスクや番組スタッフの指示によると伝えるものだった。報道ステーションはこの大震災は特別で、表現によってパニックや風評被害が起こる恐れがあることを認識していた。氏によればとても珍しいことだったという。やっぱりそうだったのか。
他の局でもそういう傾向はあったと私は思う。むしろ普段クールなNHKの詳細にわたる原発報道が視聴者に必要以上に不安を与え、更なる買占めや物不足を煽るかもしれないと不安になったくらいだ。私は、今回の原発事故について民放テレビ局の「抑制された報道」を評価する。お陰で水やオムツが無くなり野菜の風評被害が起こった程度で終りパニックにはならなかった。
上記の記事に戻ると、新聞に比べテレビは「情」のメディアであり、空気を意識しなければいけないという。多くの人が死亡したのだから弔意を表して黒い服で臨まなければいけないが、適当なタイミングでやめないと自粛を押しつける空気に加担することになるという。逆に言うと、視聴者に強い影響を与えると同時に、容易に批判されやすいメディアであると私は解釈する。
東電の記者会見は分かりにくいとの批判に対し、それはメディアの仕事かもしれないと思った、と一色氏は内省して記事は終っていた。何だ、私が普段思っている通りじゃないかと思った。なのにニュースステーションを見たいと思わなかったのは、今まではそうではないからだと勝手に納得した。そのうち元に戻るだろう、とも。
最後に、あるテレビ局が震災報道に満足か東北地方の被災者に聞いたところ、満足しているのは30%だったと報じていた。評判の悪い菅首相の支持率と同じだ。3万弱が死亡・行方不明になっているのに、一人も死んでいない原発事故ばかり報じている、という被災者の指摘はドッキリさせられた。私も原発事故の行方ばかり気になってニュースを追っていた。■