かぶれの世界(新)

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やっぱりそうだったのか

2011-04-30 23:18:12 | ニュース

東京から家内が義母を見舞いに田舎に来て、1泊していった。お土産の中に朝日新聞グローブ(日曜版4/17)を見つけた。何も言われなかったが10日も前のものをわざわざ持って来たのだから、読めということだろうと思って遅ればせながら読んでみた。

1面を見ると目次の「震災報道、テレビの現場」が目に付いた。テレビ朝日「報道ステーション」のコメンテーターの一色清氏が震災報道の内幕を紹介する記事だった。原発事故が表面化した時から従来の報道姿勢と異なり、明らかに抑制された伝え方に変わったと感じていたので、実際何が起こっていたのか気になっていた。

メディアによって評価が異なるような大事件でもない限り、ニュースステーションは見ない。キャスターの妙にテンションが高く正義感を振り回すような濃い味付けのニュース番組は好みではない。だが、震災後の同番組が少し変わったように感じていた。パニックを起こさせずに正しく事実を伝えるため最大限努めているという印象があった。高いテンションとか正義感が引っ込んだ。

一色氏の記事は、私がいう「抑制された報道」が実際に存在したこと、それは担当デスクや番組スタッフの指示によると伝えるものだった。報道ステーションはこの大震災は特別で、表現によってパニックや風評被害が起こる恐れがあることを認識していた。氏によればとても珍しいことだったという。やっぱりそうだったのか。

他の局でもそういう傾向はあったと私は思う。むしろ普段クールなNHKの詳細にわたる原発報道が視聴者に必要以上に不安を与え、更なる買占めや物不足を煽るかもしれないと不安になったくらいだ。私は、今回の原発事故について民放テレビ局の「抑制された報道」を評価する。お陰で水やオムツが無くなり野菜の風評被害が起こった程度で終りパニックにはならなかった。

上記の記事に戻ると、新聞に比べテレビは「情」のメディアであり、空気を意識しなければいけないという。多くの人が死亡したのだから弔意を表して黒い服で臨まなければいけないが、適当なタイミングでやめないと自粛を押しつける空気に加担することになるという。逆に言うと、視聴者に強い影響を与えると同時に、容易に批判されやすいメディアであると私は解釈する。

東電の記者会見は分かりにくいとの批判に対し、それはメディアの仕事かもしれないと思った、と一色氏は内省して記事は終っていた。何だ、私が普段思っている通りじゃないかと思った。なのにニュースステーションを見たいと思わなかったのは、今まではそうではないからだと勝手に納得した。そのうち元に戻るだろう、とも。

最後に、あるテレビ局が震災報道に満足か東北地方の被災者に聞いたところ、満足しているのは30%だったと報じていた。評判の悪い菅首相の支持率と同じだ。3万弱が死亡・行方不明になっているのに、一人も死んでいない原発事故ばかり報じている、という被災者の指摘はドッキリさせられた。私も原発事故の行方ばかり気になってニュースを追っていた。■

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被災者必ずしも善ならず

2011-04-29 19:02:55 | 国際・政治

ようやく復興モード

我国を人の精神状態にたとえると、大震災が引き起こした混乱と興奮状態の中から、ようやく復興に向けて冷静に考える理性が少しずつ戻り始めたというところだ。震災後こんなに長引いたのは、勿論、福島原発事故が与えた先が見えず得体の知れない恐怖だった。

こういう時は象徴的な出来事が社会の雰囲気をガラッと変えることがある。今回は原子炉を安定停止させる為の工程表を東電が発表し、仙台空港の再開と東北新幹線が次々に復旧したことがその役目を果たしたように感じる。まだ多くの問題が山積しているが、復興に向けて前向きに取り組もうという国民全体の意欲を大事にして更に高めていくことが重要と思う。

現在は復興がどこに向かうか判断の分岐点に近づきつつある。真に被災者の為とは何か、被災者とは誰か、この問いはそれほど簡単ではない。それは自治体の声か、インタビューに答える被災者か、農漁業や企業か。まるで冷戦終結後の民族紛争のように異なる論理で答えを見つけなければならない。例によって、被災者の声について私の皮肉で天邪鬼的な考察をしてみたい。

総論賛成各論反対が待っている

震災のサバイバルモードから脱した段階になって、色んなところから違った声が相対的に大きく聞こえ始めた。実際には被災状況は地域や個人によって異なり、不満は少数であっても注目されるとしばしば増幅されて流される。公平では無いがやむをえない。今までは生き残る為の戦いだったのが、今後どう生きていくかの選択を巡る戦いになる。換言すると多様化する。

頂上に至る道をどうするか論争が起こり、最悪の場合は登る山すら同じじゃないことになる。私は、「登るべき山」は必ずしも元に戻すことではないという意見が受け入れられていると聞き、ようやく理性が戻ったと感じて期待が湧いた。総論では未来志向のプランが出来そうだ。

だが、次の段階で政治がプランを「いびつ」にすると予測する。それは、総論は立派だが、各論となると話は違うというのが、今まで我国の改革を阻んできた政治の産物だった。今回でも、「そこに住む被災者の声、地域の声を良く聞け」という主張が政治的に巧妙に利用されそうな気がする。日本が立ち直る為きちんとした青写真を作り実行できるか、私はマイナスの効果を恐れる。

震災は誰でも善人にしたか

私はここで、先に投稿したリーダーの為に「贈る言葉」に続いて、復興プランを作る為には「被災者必ずしも善ならず」を肝に銘ずることを勧めたい。復興プラン作りは、ボランティアが被災者一人一人に向き合った支援をすべきという理論と同じではない。当たり前のように聞えるが、それほど簡単ではない。

被災地の人達は全て同じような苦しみに喘いでいるわけではない。中にはインタビューに答える被災者を見て不愉快な気分になる人もいて、ネットで批判する声が聞こえ始めたという。誤解を恐れずいうと、震災前から思いやりがあり身を捨てて他人を助けた人もいれば、以前は性格が悪いと皆に嫌われていた人もいたはずで、震災で人格が変わらなかったとしても不思議ではない。

テレビの映像は基本的に一人一人の発するニーズ、不満、主張を伝えるものなので、それが全体を代表する意見かどうか判断が難しい。というのは、何を基準に報じたかは必ずしも明確ではないからだ。かつて高校野球イコール純真、少年犯罪は悪化しつつある等々、データに基づかない思い込みによるステレオタイプ化が次の問題を誘発したことを思い出す。

被災者の声は分裂気味(報道だけ聞くと)

送り手は被災者イコール善的な扱いを極力抑制して、原発事故と同じように事実を淡々と伝え、受け手は事実を汲み取る姿勢で聞くべきだ。実際、詳細な現地ルポが徐々に明らかになってくると、同じ被災者といっても先人の教えを守り津波の被害から免れた地域がある一方で、先人の教えに無知か無視して被災し家族や家を失った人達もいる。

原発事故に喘ぐ福島県や周辺の自治体には、東電から巨額の補助金が流れていた。その周辺の住民の方の多くが今事故を収束させるために福島原発に詰めている。一方、新たに計画避難地域に指定された飯館村の人達は不満が爆発した。もし、彼らも補助金を貰っていたらどういう反応をしただろうか。逆に、補助金を貰っていた村町民の人達の声が余り聞けないのは何故か。

もう一つ重要な分裂がある。インタビューで不満をぶつける人達のかなりは(私のような)お年寄りであり、いわゆる弱者の仮面を被っている。だが、現実は少なくとも政治的には強者であり、政策決定に強い影響を及ぼす。一方で若い被災者達は困難に立ち向かう健気な姿のみ報じられ、今後の政策決定に影響を及ぼすような発言をしてない、もしくは取り上げられてない政治弱者だ。

復興プランは満点を取れない

復興プランは基本的に彼等の目先の最低限の生活を立て直すにとどめ、後は20-30年のあるべき姿を描いた上で重点投資するものとすべきだ。最も難しいのは使える財源について政治的な合意が出来てないことだ。先日の日本経済新聞の調査は、復興は国民全員が負担すべきでその方法として70%が増税に賛成したと報じた。

だが、与党内では増税に反対する声が強く揺れている。野党が主張する子供手当てや農家の戸別補償のバラマキをやめよというが、そんなものでは総額15-20兆円になる復興財源には全然足りない。財源論と総論賛成各論反対の対立は政局に発展しそうな勢いである。

更に、第2次補正予算に盛り込まれる復興プランの具体策は、限られた財源投入の優先順位が議論を呼びそうだ。上記の地域や被災者の声をどう反映して各論に答えるか、弱者切捨ての非難にどう答えるか、優先順位の合意が成立せず満点を取れない政治決定を強いられるだろう。誰も文句を言わないと思ったら、発言力の無い子供達が切り捨てられたことにならない様祈りたい。■

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寄付文化は変わったか

2011-04-24 22:41:07 | 社会・経済

昨年暮れの「タイガーマスク現象」と東日本大震災の被災者の復興支援は、日本には本来の意味での「寄付文化」がないという私の認識を見直すきっかけになったように感じる。以下のように以前の日本の寄付文化は欧米に比べると少し違うと思っていた。

国に住んだ経験から日本の寄付文化は少し違うと投稿(2003/11/4と2006/6/27)した。最初の記事では、日本の寄付行為は慈善団体より神社仏閣への賽銭に向かう、その目的は基本的に見栄やご利益を得るため、即ち自分のためで、キリスト教を背景にした利他的な欧米の慈善行為と異なると指摘した。私自身米国で働いた時、時給で働く社員が年末に1か月分近くの金額の寄付するのを初めて知って驚いたものだ。

その3年後に「寄付の文化(改)」を投稿した。というのは、当時世界一の大富豪だったウォーレン・バフェットが個人資産の85%に当たる370億ドルを、第二位の大富豪ビル・ゲーツ(マイクロソフト創設者)の慈善団体に寄付するニュースを見た時だった。一方で日本の富裕層の最大の関心事は「節税と相続」であるとのある金融機関の調査結果を見て感じるものがあった。

私はその表裏一体の関係として、何か問題があると国に解決させようとし、自助努力して解決していこうという姿勢が無くなった、いわば弱者の名を借りた「たかりの構造」が日本に広がり自助の精神が失われたことと関係するとの仮説を紹介した。寄付をためらわせる何かがあると。今読み直すと、こじつけだったかも知れない。

日本大震災でどれだけ寄付金が集まったのか、寄付をした人達の年齢分布などを調査したデータがない。だが、寄付よりもっと積極的な支援の形としてボランティア活動は記録され表に現われるので、調査分析すれば寄付文化の変化も読み取れるのではないかと推測する。

ボランティアは各自治体もしくはNPOに登録されているので、集計すれば正確なデータが得られるはずだ。報道によれば、今回若者に限らずあらゆる年代の人達が立ち上がりボランティア活動に広がりを感じる。会社勤めの人達が休みを取れる5月連休のボランティア募集をしたら、定員200人に対しあっという間に600人の申し込みがあり締め切ったのもその一例だろう。

日本の大富豪の孫氏が100億円の寄付、プロゴルファーの石川遼君が全賞金を寄付するなど、多くの著名人が寄付を申し出た。個人だけでなく会社・団体が寄付や無償の支援活動に動いた。彼らの行為は大々的に報道され良い手本になった。実際、それより前に多くの人達も立ち上がっていた。私が利己的だと思った日本の寄付文化が劇的に変化したように感じる。

本のボランティア活動が初めてスポットライトを浴びたのは阪神大震災だった。実はその直後に米国に赴任したので記憶は曖昧だが、当時多くは若者で全国から自然発生的に集まったという印象がある。今回はその後の経験を生かしシステマティックな活動をしているようだ。

阪神大震災をボランティア元年とすれば、それから16年経過し当時のボランティアは現在30-40代になるから年代の広がりは当然だろう。だがそれ以上に、冒頭に述べたようなボランティアの広がりの底流で日本の寄付文化が変わりつつあるように感じる。

16年前は新鮮な驚きだったボランティア活動は、今では孫氏や石川氏などの著名人が先頭を切って寄付を申し出て、国民全体の間で当たり前のことになった。逆に何もしなければ不作為を問われかねない雰囲気が出てきたと感じる。

特に若い人達に代表される持たざる者が支援に向かっているのが印象的だ。中生や高校生までボランティア活動に精を出し、大生はボランティア活動すると単位を取れる。それが好意的に全国に報じられ田舎まで届き化変化が起こる。タイガーマスク寄付が起こした雪崩現象のようで、何だかメディア主導のボランティア競争が起こったと感じた。決して悪いことではないのだが。

界的現象であるという側面が一方にあるのも事実だ。津波が東北の入り組んだリアス式海岸の小さな港町に襲いかかり、根こそぎ持っていく様子がリアルタイムで世界中に流され、その後も被災地のようすが刻々と伝えられた。

これ程の迫力のある映像を人類が同時に見たのは有史以来初めてのことだ。世界はこの絵を見て一瞬にして何が起こったか理解し、誰もが「深刻な人道危機」と思った。今日の国際社会は人道危機を座視しない(風見鶏、日本経済新聞4/24)。この映像を見て日本人も海外の人達も全く同じ理解をして行動を起こした、という側面もある。

つまり、宗教に関係なく人間なら誰でも同じように感じて行動を起こしたという事だ。言い換えると個人や国の貧富も支援の心には関係ない。日本からODA援助されている開発途上(5カ国)国が救助隊を派遣し、物的支援国のうち16カ国は途上国だったと上記事は伝えている。

その媒体となったのが映像の決定的な力であった。この映像を見て内外の老いも若きも、あらゆる世代が寄付をし、ボランティア活動に立ち上がった。映像が無ければ少なくとも支援の規模や早さがこれ程早い展開になったとは思えない。日本人が特別変わったと言うわけではなく、世界中の誰もが同じ反応をした。

ここまで書いてきて、総合すると日本の寄付文化は変わったと思うが、何故変わったのかどう変わったのか、正直言うと余り明確ではない。確かなのは、この変化はメディアを媒体としている。「匿名だけれども、行為自体は認識されたい」という心理があるように感じる。ケチをつけるつもりなどサラサラ無い、好ましい変化だ。具体的なデータが出た時点で再度議論したいテーマだ。■

蛇足ながら、上記の新聞に気になる記事(中外時評)があった。「1923年の関東大震災からわずか10日足らずで大量の救援物資を軍艦で運んできた米国が、1年も経たないうちに排日移民法を成立させ、日本人に衝撃を与えた」と歴史上の事実を報じている。これも一方の歴史だ。

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大震災のストレステスト

2011-04-18 23:59:34 | ニュース

東日本大震災発生後の海外メディアの日本注目度は爆発的に増えた。特に原発事故が収束出来ず危機的な状態が続き、各国メディアに「福島第一原発」の名前が出て来ない日が無いといった状況だ。こんな事は私の経験では一度も無い。

まさに世界各国の一流紙から三流紙までが、大震災と原発事故を微にいり細にわたって、事実からはっきりした嘘まで、連日にわたって報じている。普段、日本での報道に納得がいかない時欧米の記事を参照するのだが、今回国内外ともに溢れるばかりの大量の記事に圧倒され大局を把握するのに苦労している。その辺の混乱振りを先月「チョット気に入らないこと」で紹介した。

その後も状況はそれほど変わって入る訳ではない。一つ私が良かったと感じるのは、同じことについてこれだけ大量の記事があるので、記者やメディアが同じ事象をどう報じるのか特徴が分かってきたことだ。その結果として、私なりに信頼できる記者とかメディアの色分けが出来た。

上記の「チョット気に入らないこと(補)」で紹介したが、加藤祐子さんがgooニュースで海外メディアの報道振りを紹介する記事は、大新聞社などより余ほど網羅的・客観的だった。大量な記事で圧倒された私には、彼女はまさに信頼して時間を節約させてくれるヒーロー(ヒロイン)だった。

私が何故そう思うか。直近の海洋汚染についての海外メディアがどう報じたか、彼女の分析記事「放射能に汚染された水を海に……英語メディアは淡々と懸念」を読んで頂きければその理由が良く分かる。どこにもつまみ食いが感じられず、私には「書評を読んで本を読んだ気分」になれた。http://news.goo.ne.jp/article/newsengw/world/newsengw-20110412-01.html?pageIndex=1 

その対比として大新聞といえども彼女の足元にも及ばない例の一つが、4/9の私の記事「大震災と原発事故の常識を問う」で恣意的な意図を感じると指摘した日本経済新聞の記事だ。もっと劇的な対比として上杉隆氏の記事「日本が「海洋汚染テロ国家」になる日放射能汚染水の海洋投棄に向けられる世界の厳しい視線」http://diamond.jp/articles/-/11786を紹介する。

どちらとも長文の記事だが、読み比べて頂ければその差異は明らかである。上杉氏の記事には加藤氏が分析したような海外メディアの大局観が感じられない。汚染水の海洋投棄は問題だが、それより遥かに高い放射能汚染水の処理を優先した苦渋の決断という認識が無い。端的に言えば上杉氏の記事には何を優先するか判断基準がない。

氏は「記者クラブ批判」など優れた問題提起をしてきたと思うが、今度の原発事故に関する記事には賛同できない。記事のタイトルを「・・・・・海洋投棄に一部で厳しい視線」とし、「大勢は問題無しとした見方だが、こうこういう理由で大問題だと指摘する少数意見もある」と主張する程度の謙虚さがないと、何時の日かジャーナリストとしての信頼を失うことになるのではないかと思う。

今回の大震災は政府から個人まで危機管理のストレステストを受け、色々な問題が表面化した。私が技術者だった頃、電子機器を高温や低温下でストレステストし商品が売り物になるか確認した。先の世界同時危機では欧米の金融機関がストレステストを受け、健全性をチェックした。今回の大震災はメディアのストレステストになっているとつくづく思う。■

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妄想・自粛の遺伝子

2011-04-16 23:27:36 | ニュース

日本全国に自粛の嵐が吹き荒れている。大震災は地震と津波の天災に続く原発事故のトリプルパンチに見舞われ、リーマンショックから回復途上にあった日本経済に打撃を与えた。加えて先月の経済活動データが発表され、「自粛」という名の嵐が経済活動に悪影響を及ぼしていることが明らかになった。自粛は九州まで行き渡り全国規模で予想以上の深刻な事態になりそうだ。

未曾有の大震災が消費意欲を低下させる事はごく自然なことだと思う。これは幹の部分だ。だが、枝葉の部分では今回の自粛の一部に日本人独特の行動パターンと、情報や知識が無い為の準備不足があるように感じる。例によって誤解を恐れず自粛の底流を考察してみたい。私にはマスコミと違って国民(読者)におもねる必要は無い。

KY

を私は最初に思いつく。周りを気にして自らの行動を決める、数年前よく使われた言葉「KY(空気を読む)」の過剰な適応だ。東北の被災者があれほどの悲惨な目にあっているのだから、自分は派手な消費や目立つ行動を慎もうというものだ。この気持ちは理解できる。

この延長線上の先には自粛することにより、他人からの非難を避けようという気持ちがあると思う。これは基本的に自己中心的な考えである。その理由の一つとして、自粛といいながら全国のお店で水や乾電池などの買占めが起こり被災地を困難に陥れた。家族を守るためには自然な行為だろうが、行為の結果は自分だけよければ良いという考えの集合にしか見えない。

日本人を一括りで説明するのは無理がある。所謂「KYじゃない人」は、別の言葉で言えば信念の人とか人と違うことをする天邪鬼だが、いるにはいても我国では少数民族だ。戦後食糧難時代に禁じられた闇米を買わなかった裁判官が死んだというのは伝説だ。「武士はくわねど高楊枝」は死語になり、現代の教育や社会システムでは淘汰され絶滅種になった。

このシステムが生んだ国民は震災後、どんな悲惨な状況に追い込まれてもパニックにならず冷静に対応し、世界から絶賛されたのも一方の事実だ。国民は立派だけど政治が酷いというのは私には違和感がある。それは一面しか見てないからだ。喩えは良く無いが、「死刑囚は穏やかな表情をする一方、無期刑囚の心は波立っている」的な状況を日々見ているような気がする。

つまり、津波で全てを失った人は冷静だった一方で、放射能でこれから失うことになる(失うものがまだある)人達はそれほど冷静ではないのも我々は見た。現実を受け入れて冷静になれるのも状況次第なのかもしれない。これは社会心理学の専門家の意見を聞きたいところだ。

もう一つの特徴は、リスクに対する過剰反応だ。そのリスクが放射能のように理解不能な見ることさえ出来できず、政府の発表に加えマスコミや専門家が異なった情報を発信し、デマが流れて恐怖に煽られた結果である。これは情報不足とか説明不足、もしくは言葉尻の問題で済む話のようには感じない。だが、危機に向き合った日本人よりも欧州の方が過剰反応したようだ。

代日本人はリスクに比較的弱い特性があると常々感じている。2002年にオーストラリアに旅行をした時のことだ。9.11で激減した旅行者数が元に戻ってきたが、日本人だけはまだテロを恐れて6割方しか戻ってないと、現地エージェントが言ったのを思い出した。

我々には知識や訓練が足りず非常事態に対して十分に準備出来てなかったのも、結果的に恐怖を持たせる原因になったかもしれない。テロとか原発とか自由に発言し議論することが戦後長い間タブーだったことが、結果論ながら我々の知識不足と関連するかもしれないと思う。

全国的な自粛の広がりが震災後の経済回復に深刻な影響を与えると認識したからこそ、菅内閣からマスコミまで「自粛をやめて普通の生活に戻ろう」と大合唱を始めた。原発事故や計画停電といった現実が全国的な自粛を促した想いを無視しろとは言わない。チョット「あざとい」と言われても、KY思想の逆手をとって反自粛運動を進めると結構うまく行きそうな気がする。■

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