かぶれの世界(新)

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国調が行く

2010-11-30 22:28:44 | 日記・エッセイ・コラム

昨日朝、「国調」の立会いに実家から少し離れた山林に入った。京都から戻ってきた翌朝でチョット体が重い。市役所からの通知で集合場所のM氏宅に時間通りに行ったが既に出発していた。夫人らしき老婆に聞き急な山道を登ること10分で追いついた。市役所関係の人と私のような山林所有者併せて10人前後。

国調とは国土調査もしくは地籍調査のことで、農地や山林の境界を持主の立会いのもと確定させて測量し、GPSで電子化させる作業で、国交省が地方自治体にやらせている。役所関係の人はリュックを担ぎ地図を見ながら境界の目印を確認し、別の人が先端に赤や白のテープをつけた1m余りの竹杭を打っていく。因みに竹杭は中国製だという。

若手の役所職員らしき人がGPSにしては大きなアンテナをリュックから突き出させて担ぎ、タッチパッドに入力していく。彼らは全員山作業用の靴(多分底に鉄板が入っている)を履き、立会い人は地下足袋を履いていた。彼らの腰には鋸や山刀をぶら下げるか、柄が長い重量感のある山作業用鎌を持っていた。私だけパーカーとジーンズに農作業用のゴム長姿だった。

山奥に入っていくにつれ何故彼らがそういう姿なのか分かった。今は誰も入らなくなり獣道しか残ってない藪を払いながら進み、かつてあった目印の木やその傍の杭を見つけて現在の登記情報と突き合わせ、立会人が確認していくのだ。確認はゆうに80歳を過ぎているMさんの記憶が頼りで、彼がここはこうだったというと必ずその目印が見つかる。

Mさんは35年前に死んだ父のことを良く覚えていた。Mさんの広い山林に接する山の所有者が立会人として参加して確認していく1日作業だったが、面積の少ない私の分だけ先にやって午前中で開放してもらった。実際、全部併せても1,000平方m程度の小さな山林で、母からも一度も聞いたことのない物件だった。

山林の所々に平らになった部分があり、Mさんによればかつて芋を植えたことがあるという。市役所職員によると今回調査した辺りは戦国時代に九州から来た袖岡氏の城があった所だという。その数十年後の戦国時代の終りに山内氏が土佐入で逃れて来て土着したのが私の先祖だ。後から来て城の近くの山林を所有するには何か歴史があったのかもしれないと思った。

というのもこの1,000平方mの狭い山林は6つに分筆されており(異なる地番が付けられている)、一度に手に入れたのではなさそうだからだ。最初はよそ者として山に入り生き延び、時代が変わり袖岡氏の子孫が平地の田畑を手に入れ山を降りると、袖岡氏が住んでいた山間部の土地を譲り受け、更に時代が進み先祖も平地に降りて現在の実家辺りに住むようになったと私は想像する。

最後に調査結果に立会ったことを確認、6つに分筆された山林を纏めて一つの地番にする(合筆という)と合意するという署名と押印をして、私一人だけ立会いから解放してもらった。帰りに時々このブログに登場するアマチアカメラマンのSさんに会い、物知りの彼の情報を貰った。

国土調査は戦後始めて未だに延々と続いているのだそうだ。特に最近は自治体の財政難で、民間に依頼して大々的にやることが出来ず中々進捗しないのだそうだ。この土地では遠隔地で高い山を優先したのでやっと我々のような田畑と接する山林に調査が入るようになったのだという。

確かに後で国交省のHPを調べると未着手や調査中のところが40%余りあった。彼によると法務局が現在提供している登記用の地図はいい加減で、特に山林は不正確だという。彼の家に伝わる山林が地図上に存在しないが、明治8年の古地図を引用して見直しを要求し、隣接する山林の所有主も了解して修正されたというから凄い。

実は山林の境界は変化する可能性はまだ少ない。田畑は堤防の拡張や高速道路の乗り入れと区画整理などが反映されておらず、滅茶苦茶に不正確の事は私も経験した。しかし、お互いの持ち主が境界を認識しているのでトラブルにならないのだという。

来年には調査結果に基づく新しい地図ができ、そこで持ち主が再確認すると翌年か更にその次の年頃に確定し、固定資産税にも反映されると市役所の調査員は言っていた。その一方で、父や母が植林した実家の近くの山林の国調がいよいよ来年始まる。その時は立会いが必須だ。

今回の調査対象は先祖が守ってきた山林だけど生まれて一度も着た事が無く、多分死ぬまで来ないと思った。市役所の調査員に市に寄付できるかと聞くと、管理費用に見合うメリットが無い限り財政難の市が買うことはないとのこと。他人ごとみたいで無責任だがこうして山が傷んでいく。■

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京都もみじ半日観光

2010-11-28 23:01:34 | 日記・エッセイ・コラム

朝の八時ころ、京都駅の八条口の前に来たとき正気に戻った。運転手に一言「やってくれ」というと、タクシーの運転手はメーターを「貸切」に倒しUターンして疎水沿いを下って東福寺に向かった。琵琶湖から引いたという疎水は鴨川とは対照的に豊かな水量で流れていた。

夕方からの高専時代の同窓会に参加する為昨日京都駅前のホテルに行き、40年余り前のクラスの連中に会い旧交を温めた。別の宿泊先のホテルに移り深夜まで2次会を楽しんだ翌朝だった。ゴルフをやる連中は既にチェックアウトし、残ったものは夫々の都合で三々五々解散、私は特に予定も無く四国の実家に戻るつもりでタクシーを拾った。

四国の田舎から半日かけて京都に来て酒を飲み、何もせず田舎に帰るというと、運転手が「今京都は紅葉の最盛期、観光しませんか」と持ちかけてきた。予算を聞き、「現金持たない主義」の私の財布を覗くと何とか足りる。考えているうちに駅に近づいてきた。

次に京都に来る機会がいつかわからないと思った時、スイッチが入って観光しようという気持ちに切り替わった。何て馬鹿なことをしようとしてたんだと。何事も目的があって有用でないことはしないという私の功利主義が、時に行き過ぎになるのは自覚していた。

運転手のプランは紅葉が綺麗で人気のある東福寺、南禅寺、永観堂、銀閣寺に行き、午後一の新幹線に間に合わせるというもの。任せると一言。東福寺に着くと、貸切のタクシーは入り口の便利なところに無料で駐車でき、もみじ観覧コースの拝観料も運転手は不要だという。その時は切符販売窓口に並ぶ列が延々と続いていた。運転手は今年秋一番の人出ではないかと言う。

東福寺のもみじは境内を流れる小川沿いに植えられたもので、3つの橋とか斜面の上り下りから見た景色とか、もみじの赤とお堂や鐘楼などの古い建物との組み合わせが美しかった。木によってまだ葉っぱが青いものから、黄色や赤に染まったものの自然な組み合わせが美しかった。それにしても人が多い。拝観者が写真撮影に忙しく列が進まず大渋滞になった。木造の古い橋が落ちそうな位の人又人だった。

最も紅葉が美しかったのは永観堂で、その頃は日が昇ってきたせいで逆光で見る真っ赤なもみじが光り輝いていた。運転手はここが一番好きで2,3日前のテレビニュースで紹介されたという。それに比べると銀閣寺の紅葉は地味な感じだが、それが手入れの行き届いた庭とマッチしてそれはそれで味があると感じた。話は違うが、銀閣寺といっても別に銀箔が貼り付けてある訳ではないと説明書きを見て初めて知った。金閣寺に対比させる意味で銀閣寺といったのだそうだ。

残りのお寺も全部そんな感じで、朝京都駅前をUターンしたころは少なかった車が増えてきた。南禅寺では運転手は駐車待ちで車から出られず、ガイド無しで私一人歩く羽目になった。最後の銀閣寺についた頃は駐車待ちすらできなくなった。運転手は駐車禁止エリアで車に残った。今回はもみじの見物だからガイドがいなくても気にならなかった。最後の銀閣寺を出る頃は切符売りの窓口に並ぶ列が遠く離れた門まで続いていた。駅に戻る頃は狭い路地まで車が溢れていた。

半日のもみじ観光を終え、又半日かけて新幹線で岡山まで行き、美しい夕日の瀬戸大橋を渡り夕方実家に戻ってきた。満足感で暖かい気持で帰ってきて、車を降りると灯りの消えた真っ暗な実家の玄関に立ち、鍵穴を探しながら急に心が冷えてきた。■

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そろそろ本題に入ろうよ

2010-11-25 21:34:50 | 国際・政治

田法相の辞任をテレビ画面上のテロップが伝えているのを見ながら、22日朝母の見舞いに出かけた。実質更迭といわれる大臣の辞任は、先日の国会軽視と受け取られた発言の責任を取ったと報じられた。野党等が言うように大臣の資質を疑われる発言で辞任に追い込まれた。何物も生まない無駄な日が過ぎたという味の悪い思いが残った。

公式の場で発言する程馬鹿ではないが、支持者の前で気が緩み調子に乗って不用意な発言をしたと思われる。支持者の前でサービスの積りで要人が不用意な発言をして窮地に追い込まれる例を、自民党時代からうんざりするほど見てきた。メディアは明らかに失言を狙っているのにだ。

この局面だけを取り上げれば追求するのは当然だろう。同じ頃米国議会でもRangel議員が不適切な行動で問責を受けるニュースが流れてきた。日米両方ともスキャンダルは止まないが、深刻なのはそれでもって補正予算などの重要法案の審議が止まってしまうことだ。

正予算だけでなく中ロとの領土問題や貿易自由化とTPPなど、我国とって重要事項が国会で真摯な議論がさっぱりされなかった。北朝鮮の砲撃事件を受けて菅首相が急遽野党に協議を申し入れ、少なくとも補正予算の審議を明日中に終らせる見通しとなったのを聞きホッとした。そろそろ本題に入れよ、と叫びたい気分になっていた。

自民党を始め野党は国会審議が進まない事態を放置する積りだったのだろうか。自民党政権時代にやられたからやり返している積りなら、遠慮することは無いずっと野党でいれば良い。何が我国にとって重要か判断できないことを見せつければ良い。だが、国民を巻き込まないで欲しい。

日本経済が長期的に衰退し巨大な財政赤字を抱え、人々が自信を失って選んだ末の新政権の未熟さに、中ロが領土問題で付込んできた上、朝鮮半島が一触即発の事態になり我国の安全保障も脅かされる状況にある。不測の事態に備えて万全な態勢を整えておかねばならない。こんな時に内輪もめなどやる余裕は無いはずだ。

機に瀕して政治はどうあるべきか、ケネディ政権がキューバ危機時に対応を議論し最終決定する「執行部会議(エックスコム)」の様子を、最近読んだ本(ブッシュ家とケネディ家2003越智道雄)からテッド・ソレンセンの手記を孫引きながら引用して紹介したい。状況は全く異なるが取り組む心構えは是非マネをして欲しい。

「この会議の大きな特徴の一つは、皆対等であったことである。国家の運命が危険にさらされているとき、・・・(儀礼も、経験も、官位も)問題にならなかった。十五人いても皆大統領を代表し、各省を代表しなかった。次官補が上役の長官に猛烈に反対したりした。私は国家安全保障会議にこれ程自由な気持ちで出席したことは無く、・・・」

北朝鮮の砲撃事件の日本政府の初動が遅かったとの批判がある。その指摘が当たっているようだ。だがそれが国会で長々と時間を使って議論するのは本筋から外れる。首相の意思決定がどうだったかが最も重要なはずで、それについて議論されている気配が無いのはどういうことだろう。衰退していく国の政治家は何が大事かこの程度の判断しか出来ないのだろうか。

参考のためもっと極端な例を紹介したい。イラクがクウェートに侵入した時ブッシュ(父)大統領はサッチャー首相に強烈にプッシュされて初めて重大事件と認識し、湾岸戦争に突き進んだ。イラク侵攻の翌日開かれた国家安全保障会議ではイラク制裁に関心を示さなかったらしい。だが、初期の迷いでブッシュが非難された事は無い。石油の為の戦争と歴史の評価はあったが。

もう一度言いたい、そろそろ本題に入ろうよ。■

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遺骨放棄

2010-11-21 13:33:57 | 社会・経済

学時代の同窓会に昨夜参加して四十数年ぶりで旧友達に会った。参加したのは30人前後だった。昔の面影を残している人は殆どいなく、名前を紹介されても思い出せない人が半数くらいいた。138人の同級生のうち40人近くはもう亡くなっているという。

思い出と消息を交換後に話題になった一つが、金曜日に放映されたNHKのクローズアップ現代地方版で「遺骨放棄」といういささか衝撃的な題名の番組のことだ。松山市のあるお寺が紹介され無縁仏がここ5‐10年増えている、その現状と原因を探る内容だった。

インタビューを受けた住職によると、実際のところその半分は実は無縁仏ではなく「身寄りがある仏」という。NHKの調べではお寺だけでなく、焼き場で遺骨を引き取らない親族、空港の出発ロビーに骨壷を置き去りにする例もあるという。

計的なデータを取るところまで調査されて無いが、NHKが許可を得て遺骨放棄した人を追跡調査した例が紹介された。彼は府中市に住む61歳の男性で高度成長時代に上京し、会社を経営していたが5年前倒産、生活に精一杯でお墓を見守る余裕がなくなったという。

これを受けて、住職は今夏の棚行で檀家を回った時、今年ほど生活苦を訴えられたことが無いという。お墓の維持か生活のどちらを優先するか、そこまで追い込まれている檀家のお墓の放棄を云々出来ないと苦渋の表情で答えていた。生活苦とお墓と住居の距離が主な原因のようだ。

もう一人の出演者は大学教授で、高度成長時代に都会に移住した人達が長引く不景気で生活難に追い込まれた一方で、彼らの両親が亡くなる時期と重なり起こっている状況と分析した。かつて人の移動が無く親族が纏まって住む前提のお墓のあり方が問題を引き起こしているとの説明。

骨をお寺のお墓に納骨するのは現代の家族スタイルに合わなくなった。彼女は続けて、伝統的なものを今の生活に合わせることも選択肢として考えるべきと問題提起していた。例えば、「千の風に乗って」の歌のようにお墓じゃなくても良いのではないか。実際の例として墓石の無い共同墓地などが紹介された。

成る程と思うこともあるが、我が家のように数百年前からのお墓があり、山林田畑や家が残されているところはそれ程簡単ではない。私は遺骨放棄するほど経済的に追い込まれていないし、こうやって時々田舎に来るが、子供達は都会で育ち田舎への愛着もそれ程無い。

番組で紹介されたシチュエーションが、高度成長時代に同じ田舎から東京近郊に移動した団塊世代と、私に被るところが多く他人事とは思えなかった。同窓会の酒と老人ボケで思考能力が低下したのか、誰からも明快な解決策は出なかった。■

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デフレ脱却?

2010-11-17 17:11:56 | 社会・経済

本経済は長らくデフレに悩まされて来た。私自身も中古品・訳あり品・現品限りの展示品・型落ち品など、見かけにこだわらず必要な機能を満たせばいいと考え買い物をしている。その前に本当に買う必要があるか熟慮する。

不必要な機能を満載した商品を差別化と称して高い値札をつけて売り、それでも買ってくれる消費者がいた日本市場向け商品戦略は既に破綻している。この消費性向がデフレの主要因となっている。だが、これはデフレというよりむしろ「合理的消費への回帰」と何度か投稿してきた。

これが新たな標準(ニューノーマル)と考えて、企業は不要部分をそぎ落とし真に必要な品質機能を提供する商品を開発していくべきだ。だが、いまや競争はグローバルレベルである。国内に閉じこもって消費者に高い品物を買わせ続けるのは如何にも無理がある。百貨店でも流行の安価な衣料品の売り場ができ、訳あり品を売る時代になった。

長い前振りだが、実はここまでは能書きである。というのはデフレが進行する中で、急に値上がりし始めたものがある。ニュースになって無いが、それは航空券価格だ。

空券価格は政治的な理由で内外価格差が異常に大きかった。自由化され路線・シーズン・時間帯と予約時期によって近年半値以下で購入できるようになった。実際この格安航空券は新幹線より安く、私は1ヶ月以上前に日程を決めネットで購入して田舎と東京を往復してきた。

最近はついにLCC(低価格航空会社)にANA(全日空)が進出すると報じられており、航空券はこれからも値下がりしていくだろうと思っていた。ところがだ、割引航空券の最低価格が密かに(私にとっては)30%も値上がりしているのだ。デフレの世の中で最低価格とはいえ値上げを許す環境は何であろうか。

9月に帰郷した時、羽田松山便は最安値が10,800円だったが、先日家内が同じフライトを利用した時は14,100円だった。その時は週末のフライトだからと思ったのだが、来月前半に帰京するため航空券を購入した時も同じ価格だった。今の航空運賃は需給に直結して反映される。12月前半といえばハイシーズンではなく、値上げする理由は無いはずだ。

際線の競争は生き死にを賭けた激しい戦いだ。昨日の日本経済新聞によれば12月の成田発中国行きの航空券が、日中関係の悪化で利用者が減ると予測し10月に比べ約4割引き下げたという。その他に中国系航空会社の安価な航空券に対抗したとの見方もあると報じている。国内線の単価を少しでも上げて国際線の戦いに備えようということが底流にあると私は考える。

今回の最低価格の値上げの私の推測は、JALの経営破綻後に行われた路線の見直しに関係しているように感じる。羽田松山間のフライトは存続したが、松山から羽田以外の空港への便が撤退もしくは減便になり、総じて利便性に欠けると見てJALの客がANAに流れると見たのではないだろうか。

もっと直接的な理由として同一条件でJALの割引額が大幅に減ったからかもしれない。というのは巨額の公的支援を受けたJALが値引きキャンペーンをすることにANAは反発していた。それで以前ほど強い価格競争に晒されないと判断して、ANAは値下げ幅を減らしたのだろう。税金でJALを救済し、その上ANAの値上げを許したとすれば納得いかない気分だ。デフレ脱却には程遠い。■

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