昨日朝、「国調」の立会いに実家から少し離れた山林に入った。京都から戻ってきた翌朝でチョット体が重い。市役所からの通知で集合場所のM氏宅に時間通りに行ったが既に出発していた。夫人らしき老婆に聞き急な山道を登ること10分で追いついた。市役所関係の人と私のような山林所有者併せて10人前後。
国調とは国土調査もしくは地籍調査のことで、農地や山林の境界を持主の立会いのもと確定させて測量し、GPSで電子化させる作業で、国交省が地方自治体にやらせている。役所関係の人はリュックを担ぎ地図を見ながら境界の目印を確認し、別の人が先端に赤や白のテープをつけた1m余りの竹杭を打っていく。因みに竹杭は中国製だという。
若手の役所職員らしき人がGPSにしては大きなアンテナをリュックから突き出させて担ぎ、タッチパッドに入力していく。彼らは全員山作業用の靴(多分底に鉄板が入っている)を履き、立会い人は地下足袋を履いていた。彼らの腰には鋸や山刀をぶら下げるか、柄が長い重量感のある山作業用鎌を持っていた。私だけパーカーとジーンズに農作業用のゴム長姿だった。
山奥に入っていくにつれ何故彼らがそういう姿なのか分かった。今は誰も入らなくなり獣道しか残ってない藪を払いながら進み、かつてあった目印の木やその傍の杭を見つけて現在の登記情報と突き合わせ、立会人が確認していくのだ。確認はゆうに80歳を過ぎているMさんの記憶が頼りで、彼がここはこうだったというと必ずその目印が見つかる。
Mさんは35年前に死んだ父のことを良く覚えていた。Mさんの広い山林に接する山の所有者が立会人として参加して確認していく1日作業だったが、面積の少ない私の分だけ先にやって午前中で開放してもらった。実際、全部併せても1,000平方m程度の小さな山林で、母からも一度も聞いたことのない物件だった。
山林の所々に平らになった部分があり、Mさんによればかつて芋を植えたことがあるという。市役所職員によると今回調査した辺りは戦国時代に九州から来た袖岡氏の城があった所だという。その数十年後の戦国時代の終りに山内氏が土佐入で逃れて来て土着したのが私の先祖だ。後から来て城の近くの山林を所有するには何か歴史があったのかもしれないと思った。
というのもこの1,000平方mの狭い山林は6つに分筆されており(異なる地番が付けられている)、一度に手に入れたのではなさそうだからだ。最初はよそ者として山に入り生き延び、時代が変わり袖岡氏の子孫が平地の田畑を手に入れ山を降りると、袖岡氏が住んでいた山間部の土地を譲り受け、更に時代が進み先祖も平地に降りて現在の実家辺りに住むようになったと私は想像する。
最後に調査結果に立会ったことを確認、6つに分筆された山林を纏めて一つの地番にする(合筆という)と合意するという署名と押印をして、私一人だけ立会いから解放してもらった。帰りに時々このブログに登場するアマチアカメラマンのSさんに会い、物知りの彼の情報を貰った。
国土調査は戦後始めて未だに延々と続いているのだそうだ。特に最近は自治体の財政難で、民間に依頼して大々的にやることが出来ず中々進捗しないのだそうだ。この土地では遠隔地で高い山を優先したのでやっと我々のような田畑と接する山林に調査が入るようになったのだという。
確かに後で国交省のHPを調べると未着手や調査中のところが40%余りあった。彼によると法務局が現在提供している登記用の地図はいい加減で、特に山林は不正確だという。彼の家に伝わる山林が地図上に存在しないが、明治8年の古地図を引用して見直しを要求し、隣接する山林の所有主も了解して修正されたというから凄い。
実は山林の境界は変化する可能性はまだ少ない。田畑は堤防の拡張や高速道路の乗り入れと区画整理などが反映されておらず、滅茶苦茶に不正確の事は私も経験した。しかし、お互いの持ち主が境界を認識しているのでトラブルにならないのだという。
来年には調査結果に基づく新しい地図ができ、そこで持ち主が再確認すると翌年か更にその次の年頃に確定し、固定資産税にも反映されると市役所の調査員は言っていた。その一方で、父や母が植林した実家の近くの山林の国調がいよいよ来年始まる。その時は立会いが必須だ。
今回の調査対象は先祖が守ってきた山林だけど生まれて一度も着た事が無く、多分死ぬまで来ないと思った。市役所の調査員に市に寄付できるかと聞くと、管理費用に見合うメリットが無い限り財政難の市が買うことはないとのこと。他人ごとみたいで無責任だがこうして山が傷んでいく。■