かぶれの世界(新)

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サバ、サンマ、アジ、・・・オッパイ

2016-07-31 11:56:25 | テレビ番組
昨夜これを聞いて大笑いした。NHKの人気番組「ブラタモリ」でタモリは好きなものを聞かれて青魚を答え、ちょっと間を置いてオッパイと言った。NHKでもオッパイはありなの?言っていいの?私の好きなものとまるで同じじゃないか。正確に言うと、私の場合オッパイではなくペチャパイだけど。

番組で時折発揮する彼の考古学とか地質学の知識は大したものだが、一方で私と同年代なら言いそうなバカなことをいうものだから楽しい。人気番組ということは、タモリはもっと若い世代とも波長が合うということか。私は見るからに変な自称エロジー、タモリと同じ事を言うと若い人は思い切りひくだろう。■
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民主主義の理想と現実

2016-07-30 14:58:35 | ニュース
英国国民投票結果の衝撃
大そうなタイトルにしたが、英国のEU 離脱を決めた民主主義的意思決定の在り方について識者の論評を私なりに解釈した「良いとこ取り」の私の解釈を紹介する。先月25日に「世界を揺るがせた1日(比喩編)」と題して私の直感的な感想を投稿した。これも民主主義、馬鹿の怒りが理性に勝った等と酷評した。

理想を忘れた現実
その後成るほどと感じ入った論評は「英国のEU加盟は金の為で、再び戦火を交えない欧州統合の理念ではなかった」(日本経済新聞中外時評7/17)という卓見だった。そうであれば、経済的メリットが感じられなくなったら容易に離脱するという意見が国民に広がっていったと理解できる。

同記事で玉利氏(論説委員)は「理想主義の衰退」と指摘した。同じ文脈の延長戦上で後から加盟した東欧諸国は旧ソ連からの安全保障と経済的理由があったはずで、そのどちらかが無くなると再び離脱危機の恐れがあると私は予測した。玉利氏は「色褪せる欧州統合の理想」と指摘した。

民主主義の機能不全?
一方で、私が最も危機的な問題と感じたのは民主主義の意思決定プロセスが機能しなくなったという思いだ。冒頭紹介した記事を繰り返すと「バカの怒りが理性に勝った、これも民主主義」と投稿した。究極の民主主義と思われる国民投票で愚かな決定がなされた。何故そんな事が起こったのか、この問いかけが時々浮かんで来る。

これは多数決を否定することになる問いかけでだが、我々の日常で良く出て来る問題だ。選挙民の中でバカが沢山いたり、バカの投票率が高ければ間違った結果が出て来る。それも民意だと安易に言えない場合がある。良い例がマンション1階の住民にエレベータ修理の費用負担させるか否か聞けば、2-5階の住民の多数の支持を受けて決まってしまう、と言った争点形成上の問題(情報工場)もあるからだ。

多数決の幻想
どうも民主主義の理想は多数決で決まるなんてそれ程簡単ではなかったと今頃になって現実に気付かされた。もう人生残された時間が少なくなったというのに。果たして誰がバカか定義出来るだろうか、多分それは国民の常識が決めることか。何が常識か。それもマスコミの影響を受ける。日本が戦争に突き進んだ時、民主主義国ではなかったし国民投票もなかったが、マスコミに煽られ多くの国民が支持したことを忘れてはならない。

理想を忘れさせた現実の厳しさ
私が注目したのは「2005年以降に収入の停滞を経験した一般市民は、産業界や行政・政治を担うエリートたちの能力と誠実さを信じなくなった」と指摘した記事(MウルフFT 日本経済新聞7/24)だ。最近テロや極右台頭の原因とされる格差だが、同記事は「格差の拡大よりも自分の収入の停滞を気にする」という最近の研究結果を指摘している。こういう状態が続くと民主主義は機能しなくなる恐れがあるという。

処方箋は?
つまり、民主主義は人々が正しい判断する、或いは幸せになる最高のシステムではない。民主主義といえども時と場合によっては間違えることがあるし、戦争をすることもあるという哀しい結論なのだろうか。FTは対策として(1)繁栄の為の相互依存の理解、(2)資本主義改革し金融依存をやめる、(3)国際協調による課税制度改革、(4)経済成長と機会平等、(5)扇動政治家と戦うことを勧めている。

実体経済に比べ異常に肥大した金融経済を何とかしなければならないことには同意するが、全体としてあまり説得力があるように私は感じない。70歳を前にしてこんな甘っちょろい理想主義を語る積りはなかったが、トランプ大統領の実現だけは何としても阻止すべき世界の問題だと思う。■
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母の愛

2016-07-28 21:34:41 | 日記
5月に母を見舞いに来てくれた長男家族が、2か月余りで母の葬式の為に再び田舎に来た。5月に顔を見せてくれた時は二人の孫ともレストランなど公共の場だろうとどこだろうと、我儘放題で他人の迷惑など気にせず何という家族だと、思わず夫婦に「親の顔を見たい」状態だぞと苦言を呈した。

今回は母の葬式なので心配だったが息子の嫁さんには、「大丈夫、気にするな、手に負えなくなったらいつでも外に出て良いから。」と予め言っておいた。ところが来年小学校に入学する孫はずっと大人しくしていたし、2歳の子も齢相応に振る舞っていた。子供達が愚図って葬式の進行に苦労する最悪事態も覚悟したのに全て順調だった。

嫁さんに聞いてその訳が分かった。5月に東京に戻ってから上の子にも3:7で構ってやる様にしたら落ち着きを取り戻したというのだ。私は浅はかにも躾の問題と捉えていたが大間違いだった。嫁さんは問題を正確にとらえていた。上の子は母親の愛情を求め、母に構って欲しかったのた。下の子はいつも兄を見て育つ。兄が落ち着けばそれを見習うという訳だ。69才になって母が死んで初めて、息子の嫁さんから母の愛を学んだ気がする。

話しは違うが、このところ毎日冷凍の焼きおにぎりを食っている。その嫁さんが孫の為に買って来た冷凍食品だと思う。妹がいる間は食べてくれたが、彼女がいなくなると私が食べるしかない。焼きおにぎりは嫌いではないが流石に毎日だと飽きる。多分、これも嫁さんの置き土産だ。■
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母の思い出

2016-07-27 09:38:38 | 日記
葬儀の翌日に家族は東京に戻った。私が寂しくならないよう気遣って、代わって妹が来て2日間実家に泊まった。その夜は二人でずっと母のことを語った。母の死亡に始まり通夜から葬式・法要に続いて翌日家族が帰京した5日間で心身ともに疲れていたので余裕がなく、初めはぎすぎすした会話が続いた。

私は中学卒業後家を出て学校の寮に入りその後ずっと母と同居したことがなかったが、妹は地元の高校に行き東京の短大を卒業後新橋で働いたこともあったが、その後実家で何年か暮らした。それだけ、母との同居体験が長く深く刻まれていた。私の知らない綺麗事では語れない母の姿を知っていた。

初めは妹の言葉に反発した。妹も私に反発した。だが、妹がぽつりぽつりと語り始め最後には吐き出した母親像を全てではなくとも理解して、彼女が何故母親の死後も厳しい言葉を発したのか理解できた気がする。私のように美化した良い思い出ばかりではなかったが、言われてみれば私自身腑に落ちることもあった。

これは妹を良く理解して少額といえどもキチンと遺産分割し、これからも兄弟として生きて行く行く為に必要なプロセスだった。翌日の午後、妹夫婦と隣町の馴染みのカフェで長々と語り合って精神的な疲れが癒された。たったコーヒー一杯で入口の大テーブルを3時間も独占し馬鹿笑い、終いに他のお客がいなくなり二度も果物の差し入れがあり、後半都知事選とかEU離脱論戦にマスターが参加すると言う身勝手なお客を許してくれた。

その翌日はとても忙しかったが、母の死後通夜・葬式が続いた3日間に比べ、精神的に落ち着きを取り戻し普通に多忙な1日だった。

朝食を済ませ一人暮らしの実家から出る倍の量のゴミ捨てに行き、実家に戻るとすっきりした気分になった。楽しみにしている連ドラを見た後、押し入れにある沢山のオムツを車に積み込んだ。どれも封が開いているが使った様子が殆どない。多くの業者が売り込みに来たオムツだろうと妹は言う。出かける前に妹は母の衣服などを知人に貰ってもらうものと廃棄するものに分類してくれた。時間をかけてやった方が良いという。

松山市の施設に向かい挨拶を兼ねてオムツを利用して貰いたいと申し出ると快く受け取ってくれた。事務所の所長さんや担当の方や看護婦さん、介護士さん達の部屋を訪れ母の思い出話しをした。写真など一部を除き殆ど部屋に残し処分を依頼した。最後に「10年後には私がお世話になります」と私らしく笑わせて施設を辞した。

介護を受けた数年間、母が心を開くには時間がかかったようだ。介護士は定着せず止めて行き、入居した頃の馴染みの介護士は所長と事務担当になっていた。多分、看護婦さん達が一番長く傍にいて母を「チエちゃん」と呼んで毎週容態を聞かせて貰った。医者によればそれが母の寿命をここまで持たせたという。

施設訪問を終えると妹は待っていた義弟の車で大阪に戻って行った。いよいよ田舎の言取暮らしに戻る。その後松山にある遺族年金の差し止め等の手続きをし、友人と会って昼食をとりながら情報交換をした。1週間ぶりだったのに久し振りのような気がしたが、非日常から日常に戻ったような気分転換になった。

昼食後急ぎ大洲市に戻り、地域銀行で母親の口座を解約手続きし時間がかかるので、市役所に向かい死亡届を出した。既に火葬の許可を得る段階で市役所には母の死亡が伝えられており、種々の手続きが準備されていた。しかし、何しろ年金・介護保険解約から税金支払・水道料金などの口座変更までやたら手続きが多かった。

最後に行ったのが昔父が働いた別庁舎の水道課で懐かしかったが、対応してくれた女性職員は全く知らなかった。その頃父の部下だった新人が今や70代では知り様がない。最後に次々と手続きを案内してくれた感じのいい笑顔の女性職員に、「色々面倒を見て頂いて感謝してますが、何故ワンストップ処理できないのか、まるで技術はあるのに共通カルテに抵抗する医療業界みたいだ。」とついつい言ってしまった。

5時過ぎになって銀行に戻り、母の口座が解約され私の口座にお金が移されたのを確認した。長い事務手続きの一日だったが、母の死亡以来感じた重荷のようなものが半分以上取れた。昨日は郵便局に行って銀行とは全く違うけれども目的は同じ手続きの申し込みをした。郵貯の手続きは面倒で先が長くなりそうだ。■
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往く人来る人(11)

2016-07-24 21:22:17 | 健康・病気
怒涛の3日間が過ぎた。梅雨明け後の暑い3日間だった。事前準備、通夜、葬儀・火葬・法事を葬祭会館の助けで無事乗り切った。通夜の午前中に金融機関を回り葬儀に必要な当座の現金を確保し、翌朝直ぐに口座凍結後の支払や遺産相続に必要な情報を得た。通夜の午後に東京から到着した家族に「家族葬」の手順を説明、式場に向かい以降一連の行事をプログラムに沿って無事終えた。これ程疲れた記憶はあまりない。ヘトヘトになった。

葬儀の翌日に家族は私を残して東京に戻った。以前から予定していた孫の誕生パーティを是非やって欲しかったので私も勧めた。こういう時こそいつもの様に振る舞い予定した行事をすべきだと思う。「自粛」という言葉は好きではない。このシリーズのタイトル通り「往く人来る人」を文字通り実行することでもあった。母の死を惜しむ儀式が終り、その血を引き継いだ彼女の曾孫の誕生を祝う日が続く。母の孫や曾孫達にも記憶されるはずだ。

母が死んで以来、記事を投稿する余裕がなかった。今日の日曜日の午前中までに来客中の布団を干して総ての始末を終わり、午後は妹夫婦と隣町の馴染みのカフェに行きコーヒ一杯で3時間マスターと馬鹿話をし気分転換、少し元気になった。これから少しずつ興味があると思った経験を紹介していきたいと思う。■
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