かぶれの世界(新)

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首相の資質は民度の表れか

2011-05-31 21:03:42 | 国際・政治

内閣不信任案提出前夜?

内閣不信任案提出を巡って自公両党は明日明後日に提出する方向で調整に入り、与党の小沢系議員等が造反者を増やす動きを強め、与党執行部は造反阻止へ党内の引締めで対抗すると報じられている。政治が機能不全に陥る最悪の事態が起こる可能性が出てきた。

不信任案提出に大義名分が感じられない。「いまの時期に総選挙はあり得ない。東日本大震災による被災地のことを考えると政局をやっている場合ではない。」(長谷川経済同友会代表幹事)というのが良識ある国民の声を代表している。彼らが聞いているのは永田町の声か、マスコミの声か、何を聞いて判断しているのだろうか。

共通点は菅降ろしの一点

不信任案提出の理由は震災と原発対応を任せられないという点で与野党共通するが、政策では野党と小沢系では180度異なる。具体的な政策や対応について相違点を明らかにせず、ただ「菅降ろし」という一点でしか共通点がないのは国民の為に政策を実現するという国会議員の責任を放棄するものではないか。

更に、菅首相を代替する候補者とその政策を明らかにせず、ただ辞任せよと迫るのはありえない。それでは今より何が変わりどう良くなるのか全く分からない、国民は選びようがないではないか。今菅降ろしをドライブしている二人、谷垣総裁か小沢一郎?今までの発言から判断すれば私には良くなる気がしない。

マスコミは深刻な記憶喪失症?

このような政局を伝えるテレビ新聞にはあるべき判断基準が伺えず、事態を悪化させている。私には、国民や軍を煽って日本を第二次世界大戦に導く重要な役割を果たした当時の新聞が、無批判に政局を伝える現在のマスコミの姿とダブって映る。

菅首相批判の中に首相の資質に欠けるというものがある。報道によれば、全てが揚げ足取りではなく、非難が当たっているように感じるものもある。だが、小泉首相以降3代続いた短命首相と鳩山前首相と比べて菅首相がそれほど能無しかといえば、それ程の差があるようには感じない。

政治家・マスコミ・国民が作る政治システム

国家の危機にあって問われるのは、政治家とメディア・国民を含めたトータルな政治システムの力であり、適切な政策を決めて一致して実行するトータルな力であると指摘してきた。日本の政治システムはこの5代に亘る首相の間まともに機能しなかった。

必ずしも政治家だけの責任ではない、政治を報じるメディアとこれに反応して政治家を選び、その政策を受け入れ実行する国民が作り出した結果だ。税金が安くて道路や橋が出来れば良い、という民意は根強く選挙に強い。

日本に救世主となるような優れたリーダーが出てくるだろうか。「政治は民度の表れ」というが、首相の資質は結局のところ国民の資質の表れだろうか。そういう気もする。我国に優れたリーダーは高望みだろうか。それとも皆で協力し合うスタイルが向いているのか。

リーダーを選ぶ制度を変えよ

何十年か時計を戻しても優れたリーダーといえば中曽根・小泉の名前が浮かぶが、今なら誰だろう。誰も思いつかない。だが、首相を選ぶプロセスを改善して、候補者の過去の政治判断やリーダーとしての資質などが見えてくる制度、首相公選制とか大統領制にすれば状況は改善されると思う。だが、今すぐには変えられない。

全てを政治家のせいに出来ない事はギリシャを見れば良く分かる。国家破綻の危機に瀕し新政府が対策を打ち出しても国民は生活を変えることを拒否、危機から抜け出すどころか欧州全体を慢性的な信用不安に追い込み、裏では二流国と軽蔑されている。だが、ギリシャ国民が選んだ道(*)だ。今回の政局も最終的に問われているのは日本国民だと思う。■

*)最終的には債務再編に追い込まれ、EUから脱落する可能性が高い。

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G8サミットから見えてくるもの

2011-05-29 22:00:07 | 国際・政治

G827日首脳宣言を採択して閉幕した。報じられたところでは、主要テーマは中東・北アフリカの民主化支援、欧州の政府債務問題に加え、原発の世界的な安全性の推進だった。又、日本の被災者への同情と日本政府国民との連帯が表明された。

新聞テレビの報道を見ると首脳宣言の内容とその精神をキチンと伝えるより、斜めから見た日本の問題に重点を当てて報じている。先のNZ地震で日本人被害者以外何ら報道しないのと同じで、一体何があったか全貌が全く見えない。例えば日本経済新聞(5/28)は第1面に「声なき主役「日本」置き去り」であり、社説でG8関連を扱ったのは日経・読売のみで朝日は音なしだった。

中東情勢と南欧債務問題はいまだ着地点の見えない現在進行形の問題であり、G8首脳がどう連携して取り組むか今回最も重要とみなされた議題である。これをキチンと日本国民に伝え共有するか報道の姿勢が見えてこない。日本のマスコミは、先進諸国が重要と思う問題でも原発以外は興味がないという姿勢のように見える。

G8のハイライトは、チュニジアやエジプトの首脳を招き、200億ドルの支援を招き中東の民主革命をG8が支援するという姿勢を世界に宣言したことである。関連して中東民主化の貢献したグーグルやフェイスブック等ネット企業のトップが招かれ会議に参加した。世界が共有する価値観を実現した企業として。当然我々国民は知っておかねばならないことである。

もしかして「日本置き去り」というのは、原発事故とそれを巡る政局という目の前の問題しか見えず、G8のメッセージをキチンと受け止められない我が身を自虐的に説明しているのかもしれない。皮肉が利きすぎた(?)チョット寂しい。

もう一つの主要テーマは、いまだに解消の見通しが立たない財政赤字に悩む南欧諸国の信用不安への対処であるが、各国には特有の国内事情があり議論は深まらず具体的な合意に至らなかった。何ら進展がなかったといってよい。だが欧州だけではない、差はあっても民主主義国G8に突きつけられた皮肉な現実である。この問題の解決には民主主義が壁になる。

世界最大の借金を抱える我国にとって他人事ではないはずだ。万が一にも我国が一旦信用不安に陥れば、その影響の大きさは福島原発事故など比べられない事態になる恐れがある。以前から論争となっている赤字国債発行法案が成立しない場合、予算執行に支障が出るだけでは済まないもっと大きな問題に発展しそうな悪い予感がする。根拠は無いのだが。■

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とんだ茶番

2011-05-26 22:43:51 | ニュース

3日前に投稿した記事の枕で、復興委員会で福島第1原発1号機の海水注入の一旦停止を、菅首相の責任と非難する野党の優先順位と場所をわきまえない見識のなさを指摘した。が、まさかとんだ茶番劇が待っているとは予想もしなかった。

斑目原子力安全委員長の「ゼロではない」発言にはあきれたが、後になって実は現場責任者の判断で注水を続けていたと東京電力が発表したと聞き、当事者達のいい加減さに驚きを越え暗然たる気持ちになった。こんな人達が我国の原子力エネルギー政策を担っているのか。

だが、谷垣自民党総裁が「開いた口がふさがらない、・・・全ての責任は首相にある。即刻やめるべきだ」と強調した(読売新聞5/26)と聞いて、私は筋違いだと思った。本件を事実関係が曖昧なまま最も重要な復興会議に持ち出し、本来すべき議論の時間を無駄にしたことを国民と首相に陳謝すべきだと信じる。

谷垣総裁を初めとする野党や小沢系議員の発言を国民がどう見ているか。「政府の対応の検証は重要だが、海水注入の中断をめぐる野党の追及と政府側の説明の迷走は、政局の思惑がらみの動きに見える」(日本経済新聞社説5/25)だろう、国民に見え見えのはずである。

この件に関しては、マスコミも茶番劇を報じるというより主要な出演者になったと思う。何が重要で優先順位が高いか、どういう視点で報じるべきか判断基準の危うさを感じる。マスコミはもっともらしい事を言っても国民視点に欠け、政局の手助けをし復興を遅らせる役割を果たした。

最後に、東電は指示に反して注水を続け、今までその事実を隠していた現場責任者の処分を検討していると報じられたことについて。指揮系統が破られたら組織は機能しない。だが命令が間違っていたらどうか。大昔から繰り返されてきた問題だ。多くの場合は悲劇で終っている。

私にとって直近の最も鮮明に残っている記憶は、サブプライム取引に反対した金融機関の幹部は首になり同じ職場に戻ることはなかった。彼らの主張が通れば世界恐慌は防げたかもしれない。組織の論理と人間関係の複雑な織物が彼等の運命を変えたと思う。だが、今回に限って言えば現場責任者の処分は軽微にしてもらいたいと願う。■

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田舎暮し雑感11春(4)

2011-05-25 12:25:07 | 日記・エッセイ・コラム

ぐずぐずした天候が数日続いたが今日は五月晴れで爽やかだ。もう春じゃなくなった。連休明けに妹が帰ってきて1週間滞在した。その頃満開だったつつじは散り、シャクヤクの花が枝も折れよと咲いたのも束の間で、このところの雨でみじめな姿になった。今はサツキが満開でバラもあでやかな花をつけている。

連休直前に隣のオバサンからゼンマイの卵とじとタケノコの煮付けを頂いた。こういう季節感のある料理は珍しくておいしく頂いたが、何しろ独り暮らしで食べきれず3食続けて食べやっと消化できた。贅沢言っちゃいけないが、口の中に植物特有のアクのような味覚が残った。

家内の妹から頂いた京都のお土産のお裾分けでお返しすると、そのオバサンの孫から松山名物の饅頭をお返しで頂いた。この延々と続くお返しの交換がなんとも田舎の生活らしい。

昨日母を見舞った後、松山市内のホテルで地元の銀行が主催したセミナーに参加した。リーマンショックを予測し世界トップの業績を上げているという証券会社のアナリストが講師で世界経済を語るというものだった。内容はG7主導からG20が決める世界経済に向かう、新しいあり方に変るというものだが、それではどこに行くかというと具体性がなく当たり障りのないものだった。

リーマンショックで失った損失をどこまで取り戻したか、情報交換する老婦人二人の会話が後ろから聞えて思わず耳をそばだてた。講師の話より面白い。田舎訛でこの話題を聞くと何か深刻さを感じなくなるから不思議だ。いずれにしろ田舎で直に話を聞く機会のない私には刺激的で、講演後に色々と質問させてもらった。内容云々よりそういう会話が出来ること自体が嬉しかった。

講演の前に少し時間があったので繁華街のある大街道を散歩した。平日の昼間なので人通りはそれほど多くはないのだが、数年前に感じたシャッター街の寂れた感じはしなかった。昨日のニュースによると、昨年松山市を訪れた観光客は前年比12%増の588万人で今年もそれほど悪くないらしい。高速道路の値下げとドラマ「坂の上の雲」の効果が寄与したそうだ。

一方で、四国全県で交通事故が急増していると連休明けのローカルニュースが報じていた。倍増する勢いで増えており、特に香川県は人口当たりの事故が全国ワースト、ここ愛媛県でも急増して交通安全週間を延長して対応と伝えていた。東京や名古屋が交通事故を減らす対策を打ち効果をあげているというニュースを聞くと、この観光客増と交通事故増は全国のトレンドとは逆だ。ある意味この地方のエネルギーを感じるが、本当はどうなのだろうか。

今週の日曜日に久しぶりに田舎のバドミントン大会「南予オープン」に参加して楽しんだ。最近膝の調子がよくなり体調は悪くなかったのだが、成績はいつものように予選リーグ1勝2敗で終った。勝てそうなゲームをパートナーと息が合わず落としたのは少し残念。でも、くじ引きで参加賞としてユニフォームを貰ったので満足。

田舎暮しも残り少ない、後1ヶ月弱で東京に戻る予定だ。母は小康を保っている。今気になるのは梅雨時の田畑の手入れと実家の管理だ。昨年夏が明けて実家に戻った時、雑草に囲まれた荒屋の様に見え、家の中は湿気で傷みかかっていた。庭や田畑は背丈以上もある雑草で荒れ放題。あの時のショックは忘れられない。今回どう手当てをしておくか頭を捻っているが、今のところ名案が浮かばない。■

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謝罪大国

2011-05-23 23:41:46 | 社会・経済

民党や公明党は、菅内閣の原発事故対応の致命的なミスを見つけて追求し、マスコミがそれを増幅して支持を得れば内閣不信任に持ち込みたいと考えているようだ。今日の衆院東日本大震災復興特別委員会で、自民党や公明党は福島第1原発1号機の海水注水が一旦停止したのは官邸指示ではないかと迫った。

それが何故「復興特別委員会」の議題になるのか、どうやって復興に貢献することになるのか全く理解できない。前日のNHKニュースでさも重要そうに報じていたので、国会で議論されそうな気がしたが、実際その場面を見ると困ったものだと落胆した。原発事故対応の検証は過去の原発行政から大震災後の危機対応まで検証せねばならないが、現時点での最優先事項は日本の全力を挙げて超党派で復興に取り組むことだ。それが国民の求める復興委員会の役割だ。

大事件が起こった時、問題を構造的に検証しないで安易に犯人探し(責任追及)を始める。自民党総裁が安易に週刊誌的ネタを持って国会で首相に詰め寄るような、恥ずかしいマネは止めるべきだ。国民はこれでは菅政権を交代させても何も良くならないとあきれて失望するし、海外のメディアは馬鹿にして取り上げもしないだろうと私は予測する。

は今日の記事は、多少は関係するがこれがテーマではない。犯人(責任)が明確になったところで、犯人に謝罪を求める習慣についてだ。97年暮れ米国に駐在中に山一證券が自己廃業決定の記者会見で、経営陣が一斉に頭を下げて謝罪する「涙の会見」が異様に見えた。米国では絶対お目にかからない風景だった。日本に戻ると何かと謝罪という言葉が気になった。

私は日本には謝罪を強要する文化があると感じている。犯罪事件や大事故後に犯人や責任者が謝罪することを極めて重要視する、謝罪の念があることが裁判の結果にも反映されるのは法的にも裏付けられた習慣である。最大限の謝罪の表現として土下座がある。謝罪は儀式化し、コンサルタントまで登場し、謝罪をどうやるか(切り抜けるか)とても重要になった。

不祥事などが起こると会社や組織のトップと幹部が謝罪会見を行い、深々と頭を垂れる姿にフラッシュがたかれ全国に報じられる。日本でお馴染みの儀式となったテレビ仕様の謝罪表現である。テレビ仕様は元を辿ればスポーツ紙の表現、このレベルの知的基準をベースに置いた表現形式、即ちニュースバラエティ的表現である。

5

月に入りついに東京電力の社長が原発事故の被災者巡りを始めた。本命登場である。防災服に身を固めた東電の社長と付き添いの幹部がおずおずと避難場所の体育館に入ってゆき、当然のように土下座をして謝罪をした。テレビ画面は大声で罵倒する被災者とひたすら土下座を続ける社長の姿を流す。

多分、何度かリハーサルして好感度が悪くならないよう準備したはずだ。社長は全避難地域を巡って謝罪行脚を続けたはずだが、3度目くらいからニュース価値が無くなったと思われる。少なくとも全国ニュースではなくなった。東電はここまで計算していたと思われる。社長に謝罪の気持ちはあったろうが、謝罪行脚は明確な計画の下で(粛々と)実施されたと思う。

一方、被災者も地震や津波なら文句を言えないが、原因が原発事故なら怒りをぶつけずにはいられなかったはずだ。生活面の現実的な補償は必須だが、それとは別に明確な謝罪がセットになってなければならなかった。これが昨今の日本の謝罪文化だ。昔からこうだったわけではない。上記のようにニュースバラエティ的な謝罪儀式と私は感じる。じっと悲しみをこらえて涙が頬を伝わる様子を何時からか「号泣」と表現するようになったように。

東電社長の土下座と被災者の罵倒の交換とそれを取り巻く報道陣のフラッシュを含めて一つの謝罪パッケージという風に私には感じる。しかもこの謝罪パッケージは醜悪というか、私には食欲をなくさせる風景だ。何か自分の中の醜いものが曝け出された様に感じてしまう。謝罪がある種様式化がされたのだが、茶道や華道に比べ美しさに欠けるのだ。■

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