統一地方選の主要な争点は「アベノミクスの地方への浸透」を測るものとして注目されており、中日に当たる週末は与野党幹部が遊説などで各地を回って支持を訴えた。背景にはアベノミクスが全国津々浦々まで浸透するには時間がかかるという実態がある。一方で、地方選が反対派勝利に終わり沖縄普天間基地の辺野古への移転を巡る論争が、地方自治と国の安全保障政策の在り方という全く別次元の捉え方に注目した。
この論争には政治プロセスか信念(或いはイデオロギー)かという噛みあわない議論がある。辺野古基地移転反対が「沖縄の心」であり選挙結果は無視できないと主張がある。一方で国の安全保障を一自治体の判断でひっくり返して良いのかと問いかける。全体利益が一部利益のどちらを優先するかだ。この問題に双方の主張をテーブルに置いて何故か真摯に議論しない一部マスコミの報道姿勢に私は深く失望している。
実は民主主義制度下でこの全体と一部の利益が相克する例はいくつもある。基地問題についても、国と県の対立と同じように県と普天間市に対立はないのだろうか。何故辺野古の反対のみ伝わるのか。普天間市の住民の意見が全く聞こえないのは不思議だ。反対派やマスコミの中には意図してそういう意見を報じない様に私には感じる。普天間の誰も移転を望んでいないのか。本当に「普天間の心」と「沖縄の心」は矛盾していないのか。
視線を世界に向けると人類は二つの伝染病と戦っている。エボラ出血熱とイスラム過激派だ。これ等は人類の敵であるというのが現在の「世界の心」だと私は思う。世界各国と貿易をして日本は豊かな社会を築いた。その世界各国で殺戮を続けるイスラム過激派にどう立ち向かうのか。世界の誰かが血を流してやってくれるという「日本の心」で良いのだろうか。私には一時期盛んに言われた反グローバリゼーションを思い出す。
世界レベルから自治体レベルまで見通すと、全体と一部の相反する利益の対立だらけだ。正に世界は大小のマトリョーシカから成り立っている。当事者やその利益代表が自己の利益を主張するのは浅はかかも知れないが許される。民主主義は多数決で決まる、一部利益は受け入れられない場合が多いのは必然だ。
結果的に受け入れられない一部利益の主張を鮮明にしよりよく理解させる為には、全体利益と同じ土俵に立たせ議論することが極めて重要だと私は考える。私は安全保障に関わる問題になるとこのような立場にたって論評をする報道姿勢が欠落しているように感じる。このプロセスを怠って報じるマスコミはジャーナリズムを名乗る資格が無いし国民は不幸だと思う。来るべき統一地方選をこういう視点で見てはいかがだろうか。■
この論争には政治プロセスか信念(或いはイデオロギー)かという噛みあわない議論がある。辺野古基地移転反対が「沖縄の心」であり選挙結果は無視できないと主張がある。一方で国の安全保障を一自治体の判断でひっくり返して良いのかと問いかける。全体利益が一部利益のどちらを優先するかだ。この問題に双方の主張をテーブルに置いて何故か真摯に議論しない一部マスコミの報道姿勢に私は深く失望している。
実は民主主義制度下でこの全体と一部の利益が相克する例はいくつもある。基地問題についても、国と県の対立と同じように県と普天間市に対立はないのだろうか。何故辺野古の反対のみ伝わるのか。普天間市の住民の意見が全く聞こえないのは不思議だ。反対派やマスコミの中には意図してそういう意見を報じない様に私には感じる。普天間の誰も移転を望んでいないのか。本当に「普天間の心」と「沖縄の心」は矛盾していないのか。
視線を世界に向けると人類は二つの伝染病と戦っている。エボラ出血熱とイスラム過激派だ。これ等は人類の敵であるというのが現在の「世界の心」だと私は思う。世界各国と貿易をして日本は豊かな社会を築いた。その世界各国で殺戮を続けるイスラム過激派にどう立ち向かうのか。世界の誰かが血を流してやってくれるという「日本の心」で良いのだろうか。私には一時期盛んに言われた反グローバリゼーションを思い出す。
世界レベルから自治体レベルまで見通すと、全体と一部の相反する利益の対立だらけだ。正に世界は大小のマトリョーシカから成り立っている。当事者やその利益代表が自己の利益を主張するのは浅はかかも知れないが許される。民主主義は多数決で決まる、一部利益は受け入れられない場合が多いのは必然だ。
結果的に受け入れられない一部利益の主張を鮮明にしよりよく理解させる為には、全体利益と同じ土俵に立たせ議論することが極めて重要だと私は考える。私は安全保障に関わる問題になるとこのような立場にたって論評をする報道姿勢が欠落しているように感じる。このプロセスを怠って報じるマスコミはジャーナリズムを名乗る資格が無いし国民は不幸だと思う。来るべき統一地方選をこういう視点で見てはいかがだろうか。■