かぶれの世界(新)

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多摩湖へ家族旅行(2)

2025-03-11 20:12:00 | 旅行
土曜日の夜は息子と同室になったが、一晩中彼の凄いいびきで眠れず最悪だった。スマホで好みの音楽を聞いて眠りにつこうとしたが役に立たなかった。後から家内に泣き言をいうと、「彼のいびきは昔からのこと、何度も旅行に行って同室で寝たはずで気が付かなかったの」という。

横で聞いていた娘から助けが入った。家内と娘は隣の和室で寝たのだが、娘は隣から息子の盛大ないびきが聞こえて来たという。だが、それでも私と違い彼女は眠れたらしい。実際息子のいびきは朝の5時まで続き、私はそれから7時までたった2時間の睡眠がとれた。

朝食は前の晩と同じ6階の広間の窓際のテーブルでいただいた。食器は全て和風だったが、食事の材料や味付けは中華風だった。美味しいのだが私には若干の違和感があった。前夜と同じウェイトレス達が給仕してくれ散々褒めた後なので、一々味付けがどうのこうのと文句は言い辛かった。

それよりも残念だったのは多摩湖の先に富士山が見えなかったことだ。富士山が見えなくとも、ホテルから見下ろした多摩湖の景色は十分美しかったと思うが。写真で見た富士山は本当にきれいだった。一言付け加えると、前夜の夕食時に飲んだ地元のビールはギネス並みに美味しかった。出来たら夕焼けの富士山を見ながらドラフトビールを飲みたかった。

朝食後は長男が下の孫を連れて参加する予定で、それまで皆夫々にやりたいことをやった。私は多摩湖湖畔の道を是非とも歩きたくて、西武球場に向かって30分余り歩道を歩いた。昨夜の湖畔は雪が降り冷え冷えとしてたが、それでも歩道を走る人達がいた。そして翌朝も多少寒かったが気分良く歩けた。ジョギングする人達がどんどん追い越して行った。いつか足腰が治ったら走ってみたい。

ホテルに戻ると丁度娘がチェックアウトを終えた時で、そこで家族に別れを告げて私一人戻ることにした。家内に引き留められたが、私は美しい景色の見える多摩湖湖畔の南側も歩いてみたかった。前夜の寝不足に加え、その後合流予定の長男と元気な孫達についていけるか体力に不安があった。

早朝散歩した西武球場と反対側の多摩湖湖畔の南側はあちこちに観光客がいた。人工湖の多摩湖を構成する数キロの長い堤防と狭山公園には親子連れが沢山いた。私はこの思ったより長い堤防を歩く自信がなく、その横の長い勾配と観光客を見ながら西武多摩湖線の電車で国分寺まで戻った。長男と孫はその頃「西武ゆうえんち」で家内や娘たちと合流して楽しんだようだ。■
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山口県旅行記(1)萩

2024-07-26 20:04:22 | 旅行
たった1か月の帰京だが、日曜日から山口県へ旅行に行ってきた。以前から松下村塾と秋吉台に行きたいと言っていた私の声に応えて、家内が3日間のパック旅行を探して勧めてくれ息子が会社の補助金を利用して予約してくれた。事前に家内は松下村塾や秋芳洞をYouTubeで調べてくれた。これでは私が嫌というはずはなかった。

早朝に起きて府中駅から羽田空港行きリムジンバスに乗り、10時過ぎには萩・石見空港に着いた。飛行機の窓から見た風景は山ばかりで何も無かったが、いざ地元のバスが西に向かって山陰線沿いに走り始めると私の実家の周りと似た農村の風景が見えてきた。

間もなく萩市に入り海沿いの道の駅シ-マート内のレストラン「がんがん」で昼食をとった。最初に飲んだ「水」が生涯初めてというほど美味しく、その後食べた魚料理もとても美味しかった。皮肉なことにその後ホテルやレストランで食べたどの食事より美味しかった。これを機会に旅の途中の話題は食事が「がんがん」を基準に美味しいかどうかで、常に圧倒的に不味かった。

食後は世界遺産の反射炉から松下村塾と明倫学舎と歴史的建造物を見学した。目的の松下村塾は家内が見ていたYouTubeの情報がほぼカバーしていた。見学の終わり入ったレストランの主人に松下村塾生の名前が張り付けられた壁を見ながら、山口の人材が今も政治を動かしてると声をかけると、残念なことに今は林さんしかいないのだと彼は言った。

見学を終えて一旦ホテルにチェックイン後に、希望者を募って添乗員の案内で萩の城下町を散策した。旧町人地の広大な菊屋家を観覧し、その横にある高杉晋作家等の旧上級武士家地を見て回った。どれも毛利の家来の立派な家だった。前日まで萩は大雨だったが、翌日のカンカン照りの中を歩くのは大変だった。今回の旅行は3日間とも毎日10km前後を歩くタフな日程だった。

初日は萩市の海岸沿いの若干古びたホテルに泊まった。ホテルの窓から松林を透して見た海岸と張り出した半島の姿は美しかった。だが、ホテルとしての冷房や風呂等は一時代前のままで、食事は残念ながら私の口には合わなかった。家内や息子も全く同じ意見だった。

名物のフグ料理も私には手をかけ過ぎており、私が今迄に食べたことがあるさっぱりした味の刺身に比べしつこい味だった。だが、何か褒めたいと思った。なので少なくとも地元産の朝食の白いご飯はとても美味しく、萩焼特有の美しく色付けされたお茶碗は素敵だと給仕員に伝えた。予め食膳を揃えただけの夕食と、好きな物を選ぶバイキング方式の朝食の差が現れたのかもしれない。■
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山口県旅行記(0)旅を終えて

2024-07-25 18:44:43 | 旅行
日曜から三日間山口県の萩から下関を経て秋芳洞まで家族旅行をした。旅行中から帰京後にかけて世界中で重大事件が起こり、個人的にも事件が起こり右往左往して楽しい旅の思い出がかき消されそうになった。そこで私が受けた旅の印象より、旅行後の事件をまず報告したい。

旅行2日目に見学した元乃隅稲成神社の長く赤い鳥居の先の岩山で転倒し、右肩や腰に痛みが残った。その日から肩に痛みが生じたが、帰京後翌日すなわち3日目になって腰痛が酷くなり、普通に歩くのも辛くなり散歩や買い物を控えた。だが私には腰痛が改善すれば旅のお土産を渡したいところがあった。

というのは旅行前日の土曜日に皮膚科医に行き薬局で処方された薬を入手後、世田谷で食事会に参加する為に家内や息子と京王府中駅で合流する予定だった。ギリギリの時間になって急ぎ駅に向かった時の事だ。後方から薬局の女性職員が追い駆けて来て忘れた財布を手渡してくれた。財布がなければ旅行に行くことが出来なかったかもしれず感謝した。

そのことを家内に話て旅行のお土産を渡してお礼をしたいと言ったまま、恥ずかしながら私は忘れていた。旅の最終日に家内が気を利かし萩でお土産を買ってくれ、それを持って雷雨が治まったのを見計らって薬局に行き、午前中で仕事を終わり帰宅した彼女に渡すようお願いした。

不味かったのはその後遠回りして大國魂神社を経由して帰宅したことだ。途中から腰痛が酷くなり歩くのも辛くなりやっとのことで自宅に戻った。昨日はその後何もできなくなり、一日中家にこもりテレビ番組を見て過ごすことになった。風呂でシャワーを浴びるのも辛かった。

その間にも世の中は次々と事件が起こった。米国大統領選はバイデン氏が撤退を決め、代わってハリス副大統領が候補者に選ばれた。想定に反して彼女の人気は徐々に高まり、今朝米国から伝わってくる報道では簡単にトランプ楽勝とは言えない情勢という。世の中分からないものだ。

旅行中に次々起こるニュースを見て心配になったのは、運行管理ソフトの変調で世界中の飛行機が飛ばなくなった、新幹線の運行が停まった等と無事帰京できるか不安になった。他にも東北地方に降った豪雨による水害等のニュースに驚かされたが、幸運にも我々が帰京する頃には影響がなかった。リムジンバスで自宅に戻ると、家の中は熱気に包まれ寝室の気温35度に驚かされた。

今朝起きると腰痛の具合も少し改善されホッとした。血圧は旅行然と同じ150弱だった。初めての山口県旅行は楽しかった。次回から山口県の地域ごとに紹介したい。■
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四国88か所の巡礼者が減った!?

2024-05-23 14:29:03 | 旅行
帰郷後1か月経過したが、四国88か所の巡礼者を滅多に見かけない。私の実家がある大洲盆地は巡礼ルートが通るが、コロナ後に殆ど見かけなくなった巡礼者がまだ戻って来てない。ネット検索して調べると、最大の原因は定年延長や高齢者の再雇用だという。

巡礼者の老化とともに、寺院や宿泊施設、飲食店、バスの運転手の不足による団体旅行の減少が指摘されている。高齢化や過疎化で宿や宿坊も大幅に減少し、地域のボランティアが支えてきた遍路道の保全までが難しくなっている。全てが老化のせいだ。

だが、コロナ後各地で急増したインバウンド観光客もここにはいない。コロナ以前には外国人女性の巡礼者も珍しくなかった。私が声をかけた女性巡礼者は米国ハーバード大MBAとかカリフォルニアナパの住人とか、何故か88か所の巡礼者はインテリ女性が多いと驚いたものだ。

続けてネット検索で調べたところ、熊野古道の外国人観光客が爆発的に何と3500%も増えた。多いのは豪・英・米からの人達だという。ナパの彼女を実家に招き直前の大統領選など色々なことを話し合った。彼女はウォーレン女史の支持すると言い、私は支持範囲を中間派まで広げるバイデン氏を薦めた。そういえば彼女は四国に来る前に熊野古道も歩いたという。

一方、四国88か所の主な外国人巡礼者はフランス人だが400人程度だそうだ。多分、フランス国境に近い世界的なサンチアゴ巡礼路が影響しているかもと思う。しかし、少なくとも今は熊野古道とサンティアゴ巡礼が「二つの道の巡礼」とみられているようだ。

お遍路さん減少の原因を何もかも老化のせいにするのは絶対ダメだと思う、魅力のない所には誰も行きたくないだろう。熊野古道の人気がなぜ高まったのかよく調べて、適切な手を打ってほしい。ナパの彼女のように、競争より連携もある。■
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エアライン今昔

2023-03-06 13:54:43 | 旅行
日経ビジネスの記事「愛されエアライン首位はANAかJALか」(3/6)を見ていると、「国内では、格安航空会社(LCC)のシェア拡大が続いてきたが、NPSランキングでLCCは下位に沈み、支持を集めたのは旧来のフルサービスキャリア(FSC)だった。」と指摘する記事に注目した。私はコロナが影響した結果とみる。

この20年近く毎年飛行機を利用して実家のある田舎を行き来した。この3年コロナでフライトが大幅に減少し、その間にエアラインの評価がどう変わったか気になった。2003年に退職後は母の様子見に田舎に行くようになった。最初の頃は会社勤め時代に海外出張して貯め込んだマイレージを利用して無料で行き来した。

数年後にマイレージを使い切ると有料でANAかJALを利用するようになったが、そのうちケチな私は安価なLCCに乗り換え成田と田舎を往復するようになった。一時期は毎月のように海外出張していたので成田に行くのは苦痛ではなかった。だが、コロナ感染が拡がり突如フライトがキャンセルされ往生した。

この時のLCCの対応の悪さにうんざりして国内エアラインに戻った。フライトのキャンセルはやむを得ないとして、困ったお客を放り出すような扱いは許せなかった。海外旅行で天候不順や飛行機のトラブルなど何度も経験した。乗り継ぎフライトに遅れ紹介された空港近くのホテルに一泊し、翌日代替フライトに乗ったことがある。

しかし、常に対応策が示されていたので不安はなかった。予約した乗り継ぎのフライトが違うエアラインの場合には優先度が低く待ってくれなかった。しかも、英語のアナウンスが流れると聞き逃して対応が遅れた。それでも、放り投げられてどうしていいか分からず途方に暮れるなんてことはなかった。お金には代えられない。

今はJALかANAの安価なフライトの予約を1-2カ月前に済ませているが、それでも多分片道1万円弱余計にかかる。これが安心料なのかもしれない。ケチな私には痛い出費だが。

ここまで書いている間に飛行機に乗った思い出は、殆ど会社勤め時代に乗った米国でのフライトの記憶だ。日米間のフライトはベテラン(オバちゃん)CAだが、米国の国内線は若い女性が圧倒的に多かった。

困難な事態になっても楽しい思い出だった。シアトルからサンノゼまで西海岸を飛んだ時、予約なしで飛び乗り最後尾の席に座ると隣にCAが馴れ馴れしく座って来て会話が弾んだ。ボストンからノースカロライナまで東海岸を飛んだ時は同じホテルに泊まり、レストランで彼女のピアノ弾き語りで美声を聞いた。

これ等は70年代から90年代に起こったことで、今世紀に入って9.11後は一時期様子が変わったが、放り出された記憶はない。こんなことはJALやANAとかLCCでも、日本では起こるとは想像がつかない。エアラインのランキングにこういう思い出が加味されるとちょっと違った楽しみが出てくると思うが、どうだろう。■
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