日本航空(JAL)は東京地検に会社更生法の適用を申請し、企業再生機構の下で再建を目指すことになった。米国のGM破綻と同様に顧客や取引先などの関係を維持し操業を続けながら、計画的に倒産させ新会社として再出発させる。国交省が望んだ私的整理よりも透明なプロセスになる法的整理を選んだ。
米国では自由化以降エアライン・トップ4が会社更生法(チャプター11)で倒産し再生した。我国で一航空会社の倒産に対して過剰な政府介入という批判もあるが、未熟とまでは言わないが危機に対する耐性が脆弱で過剰反応しがちな日本社会では、止む得ない判断であったと私は思う。
私が初めてJALに乗ったのは1978年に全米コンピュータ会議(NCC)主催のショーの調査見学の為にロスアンジェルスに出張した時だ。当時は成田が開港直前で、羽田からだったと思う。その頃は、国内は全日空、海外は日本航空という明確な住み分けがあったと記憶している。
JAL国際線の客室乗務員(CA、当時はスチュワーデスといった)は誰もがうらやむ花形職業で、田舎者の私の目には彼女達は皆若くて美人、笑顔を振りまきながら機内を闊歩しながら(そういう風に見えた)サービスしていた記憶がある。彼女達は特別で光り輝いていた。
彼女達は難しい試験を乗り越えてCAになった才色兼備のエリートみたいな臭いをプンプンさせて、今風に言うと「私達国際線CAは特別よ、という上から目線」でサービスしていた。これは田舎者の私の単純な劣等感の裏返しかもしれない。当時男性CAは珍しかったが、彼らには何らのオーラも感じなかった。
その後、海外ビジネスに関連する職場に異動し、しょっちゅう北米等に出張する所謂フリーケント・フライヤーになった。出張回数が増えるにつれ米国系の航空会社を利用するようになった。というのは当時JALのマイレージ・サービスがお粗末だったせいだが、旅慣れた上司や同僚の指定したフライトに同乗するうちに、自然私もユナイテッドやノースウェストに乗るようになった。
米系エアラインのCAは概して太ったオバサンが多く、冷たい感じを受け言葉の心配もあった。蛇足だが、米国の国内線は殆どが若いCAだった。当時利用したイースタンとかPSAには映画で見るような美人のスチュワーデスがいて、飲み物や食事の好みを聞かれるだけでドキドキした。米系の国際線は経験のあるサービスのプロが乗務するという説明は私には残念だった。
それはさておき、何度も出張を重ねるとJALのCAのサービスがベタベタして過剰で多すぎるように感じた。私がアメリカンスタイルに慣れたせいかも知れない。機内で仕事モードになっている時、サービスを押売されるより、呼ばれない限り邪魔しないという方が気に入ったのかもしれない。
当時はまだ旅なれない日本人乗客が機内で行儀の悪い振る舞いをすると、米系のCAは結構厳しく対応していた。何十年か前の国内列車やバスでの団体旅行客の雰囲気は、田舎者の私でもいささか恥かしい思いをした。米系のフライトではそうした人が少数でとても静かだった。
いつの頃だったか、ANAも国際線に乗り出した直後のフライトを利用した事がある。その時のCAが初々しくて一生懸命サービスする接客姿勢が妙に新鮮だった。私の偏見かも知れないが、彼女達はJALのCAより概して若く見え、あの「上から目線」を感じなかった。
実はこの印象は殆ど国内線しか乗らなくなった今でも残っている。だから誇り高きJALは経営不振になったと言う積りではない。そうではなくて、「幼い時憧れた美しいおネーさんのつんとした印象が今も忘れられない」みたいな懐かしさと同じ感覚で、「栄華を極めたJAL(実際はスチュワーデス)の滅び」に懐かしさを感じる。この記事は変だと自覚しているがとりあえず告白。■