かぶれの世界(新)

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世界マッサージ紀行(3)

2005-07-31 12:00:33 | 健康・病気
パトリシアがニュージーランドに行った後、秘書が会社の近くのモールにシアトル・マッサージ・スクールがあり、そこで生徒の練習台になって安くマッサージを受けることが出来ると教えてくれた。物は試しと予約してもらい型どおり問診表を埋めマッサージを受けた。薄暗い大部屋をカーテンで仕切った一角に案内され服を脱いで暫くベッドで待っていると、生徒の若い男性が現れマッサージを始めてくれた。

悪くないと聞いていたのだが、予想以上に下手くそでただ触られ手を擦っている感じだった。そのうち先生らしき人が来て一言二言言い私に手を触れた瞬間、手が生きていると言うか、全く違った感覚が伝わった。やはりプロは違う。残念なことに先生は直ぐに行ってしまい二度と戻ってこなかった。時間が来てオイルを拭き取り服をつけ、通常の半値か3分の一程度の料金を払ったと思う。サンキュー、(もう来ないよ)。

そうこうしている内にある日突然パトリシアからNZから帰ったと電話が入った。早速予約を入れて久しぶりにセラピーを受けたが、以前とはマッサージのスタイルが変わっていた。NZのマオリのやり方を学んだといって、神秘的な力を持つという石を使い、精神から健康になることの大切さを説いた。マッサージする部分に長い間集中して手をかざし、かすかに熱気のようなものを感じた。しかし私は以前のほうが好きで、以前は楽しんだ会話も何故かギクシャクした。その後2,3回セラピーを受けたが徐々に留守電のメッセージを交互に残すだけで双方の都合がつかない場合が多くなり、自然と遠ざかっていった。

その後も替わりのセラピストを探したがこれはと言う人には見つからなかった。初夏になり、再びSさんからイサッカにある日系の女性が経営しているエステティック・サロンを紹介していただき、早速連絡を取り出向いていったが途中イサッカの町で道に迷い、スーパで待ち合わせ迎えにきてもらう羽目になった。

米国では道順は通常地図ではなく文章で伝える。電話で道順を聞いて目的地に到着するのは慣れない間は大変だった。パトリシアの診療所が時々変わったので新しい住所の時は道に迷ってもいいよう若干早めに出発しにしていたのだが、日本語で聞くと安心して余裕を持たないで出かけたものだから迷惑をかけてしまった。その後新しい町に引っ越した時地域の地図を買い、電話で道順を聞く時地図を見ながら確認をして間違いの無いようにした。

サロンでは経営者のサチコさんとアシスタントのユキエさんの二人にスゥエーデン式マッサージをしてもらった。二人とも資格を取っており、ユキエさんは例のマッサージ・スクールに通い資格を取ったそうである。パトリシアのように年季は入っていないが、二人にやってもらうのは初めてで悪くなかった。それにエステに使ういい香りのオイルや電子機器を使った顔面マッサージなどの役得もあった。料金は1回2時間で110ドル、10回分のクーポンを纏め買いし、通常は毎回次の予約をするシステムであった。

この頃は異国暮らしに慣れたのはいいが体重が増えバドミントンをやる体力・気力が落ち、週末日帰りの山歩きがメインになっていた。土曜日の朝エステでマッサージを受け、近くのスターバックスでコーヒーとパンを買って食べながら空港の南にあるフェデラルウエィ市の自宅(97年に引越しした)に戻り、午後は地図を調べ、食料などを準備し、翌日タコマ富士やオリンピック国立公園の山歩きをするのが習慣であった。土曜朝のマッサージの後車でコーヒーをすすり、何処の山に行くのか色々と考える時が最も楽しい一瞬だった。一寸寂しいけど、他にやることもなかった。

慣れてくるとマッサージ中の井戸端話が楽しみになった。サチコさんは日本人のご主人と、ユキエさんは米国人と結婚した日系アメリカ人でご両親は日本におられる。話題はパトリシアの時に比べより生活に密着した内容で、買い物情報、何処のスーパがいいか、日系人社会情報、ゴシップ情報等など。国際結婚の離婚と財産分割などの事情・日本との差と助言は万国共通の話題で実に興味深かった。この仕事は色々な顧客と長時間に渡り濃密なコミュニケーションをするので、パトリシアとも共通して沢山の雑多な情報があり毎回新しい事を聞いても尽きる事がなく、私の貴重な生活情報源となった。

死亡時遺言がないと日本の家族に渡らないので弁護士に依頼して遺言を作るよう勧められ、後に発展させてトラストを組む事になった。その話はまた別の機会に。サチコさんは経営者でもあり、投資してお金を運用するよう勧めてくれ、私がその後投資信託を考えるきっかけになった。彼女はカリフォルニア州で暮らした事もあり、マッサージ・パーラーの選び方として日本地名の入ったところ、例えばトーキョー・マッサージ、はやめたほうが良いといった。直ぐに何か理解できた。因みにバンクーバーに行った時やたらとその手の名前のマッサージ・パーラーが多かった。勿論彼女の忠告が本当か試していない。

折角慣れてきたのだが1年も経たないうちに仕事の都合でカリフォルニア州に引っ越さなければならなくなった。引越しでは日本と違い荷物がチャンと届くと期待してはいけない、特にN運送会社はダメと最後の助言をしてもらったのに、仕事の関係でそこに頼み結果的に酷い眼にあった。最後の助言を聞けばよかったと今でも後悔している。いずれにしても二人のお陰で退屈な週末を少しでも色付けして過す事が出来た。■


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「人口減少社会の到来」雑感

2005-07-30 21:14:14 | 社会・経済
総務省が実施した住民基本台帳に基づく人口調査によると、3月末時点の日本の総人口は1億2686万9397人で前年同期比0.04%増とほぼ人口増加がなかった。2年後には人口減少社会の到来が現実に始まる見込である。この人口調査は5年ごとに実施される網羅的な国勢調査と異なり外国人は含まれないが大勢に変わりはない。

報告によると再来年の2007年からついに人口減少が始まると推計している。既に男性の人口は前年比マイナス0.02%で減少が始まった。地域別で見ると関西圏が減少に転じ、大都市にも人口減少が始まった。65歳以上の人口が三分の一になるのも真近い。報道では概して暗いニュースとしてのスタンスを取っているように見えるが私は必ずしもそうは考えない。我田引水のこじつけをこの機会に自説を開陳したい。

人口増を国力増と捉えるか宇宙船地球号の危機と捉えるか見方によって随分考え方が変わってと同様、人口減も見方が変われば悪くはないかも知れない。人口減少社会になっても経済的に元気になれる日本にする為、構造改革をしてGDP貢献人口比率を高め、団塊世代以上の老人の個人資産の有効活用を提案する。国としては散々だが個人としては幸せになる道も悪くはないがそれは又別の機会にしたい。

GDP貢献労働人口
7、8年前のある講演会で日本労働人口の内の50%は公務員等所謂GDPに貢献しない労働人口であるという報告を聞いた。これが多いのか少ないのか判断できる材料がないが、私はマクロ的にこの比率を下げていくのが新しい時代で日本が強く生き抜いていく道だと信じる。別の言葉でいうと構造改革によって小さい政府を実現し、国としての効率化を高め筋肉質にして、競争力を高める事である。

 政府が6月に策定した「骨太方針2005」は、人件費削減に向け公務員定員の「純減目標」を掲げることを明記した。政府には5年間で定員を10%減らす計画があるが、これは削減分だけの数字でトータルでどうなるか明確でなく、既得権益団体との調整を含む従来政策決定プロセスでは骨抜きになり多くは期待できそうもない。

今後10年間で小泉改革が手をつけた民営化による構造改革を更に推し進めその過程で筋肉質の体質への転換を実現しなければならない。過去10年間の停滞で国としての蓄えは使い果たした、この先10年間で何とかしなかったら確実に日本は衰退の道を歩む。国家は衰退しても個人、企業が豊かであれば良いではないかという考えもある。既にグローバル化した企業は日本経済が停滞しようとも何とかなる世界市場が企業戦略のベースになった。昨年収益を回復した日本企業の過剰貯蓄15兆円は全て海外に投資された。

ところが日本に住む個人はそう簡単には行かないのである。子を育て、家族や社会を良くして引継いで行かなければならないのである。その主役は定年を迎えると言うのに依然として団塊の世代なのである。

団塊世代の個人資産の行方
日本の家計金融資産は3月時点で1400兆円を越えているが、そのうち740兆円が長期国債や地方債に投資されている。ところが過去5年間家計の貯蓄率の伸びが止まる一方で、国債は170兆円増加したという構造的な問題がある。財政赤字を個人資産から調達し続ける「強欲のプロセス」をベースにした構図から脱却しないといずれ大変な事になる。家計金融資産は依然としてリスク回避志向が強いのだが、さすがにこの5年間ゼロ金利に痺れを切らし個人預金から5兆円が有価証券に流れ、消費性向に変化が見られ始めた。

日本社会を老人と若者世代にカリカチュアすると、日本の家計金融資産は殆ど老人が所有しているが、強欲にも年金が減ると言って大騒ぎしている。老人は世界有数のお金を持ち、世界一長生きし利権を手放す積もりはなく、政治的影響力が強く若い人達に更に年金を払わせようとしている。若い世代は老人(親)に寄生し、自分達の人口が減ったのに投票もせず政治影響力を更に減じ、将来に希望を見出していない。今後団塊の世代の約1千万が還暦を迎え退職金は総額50兆円を越える見込である。

 団塊の世代は日本の繁栄に貢献したが、今までのところ繁栄を持続させるシステム造りに失敗、団塊ジュニアをシステムのメンバーとして継続的に改革して行く原動力にすることに成功していない。団塊の世代は今影響力を行使し巨額の個人資産を若い人たちの為に投資すべきである。単純に死んだお金として節税するだけに精力を使い子孫に相続させるべきではない。若い人達の社会保障の高負担から解放すべきである。その為に政治的影響力を行使し、自らの資産が公平で透明な政策決定プロセスによって若い人(日本の将来)の為に使われるようにすべきである。■


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お岩さん状況

2005-07-29 16:43:57 | 日記・エッセイ・コラム
隣の空き地の雑草が伸びて背丈以上になりうっとうしいのでボランティアで草刈を始めたら10分も経たないうちに蜂に刺された。多分領域を侵されたと思ったのだろう。突然左目の上あたりで羽音がしたので手で払いのけようとしたが、あっという間に鋭い痛みを感じた。母によると蜂は通常目を狙う。急いで顔を洗い、痛みのするあたりに母が取り出してきた痒み止めを塗った。その後母が近所で貰って来たアロエを刷り込むように塗りつけた。しばらく経ってシャワーを浴びバンドエイドを貼った頃には痛みが落ち着き、痛くてたまらないという状態ではなくなった。

翌日目を覚ますと左目が目ヤニで目蓋がくっついた感じでちゃんと開かない。鏡で見るとお岩さんの親戚みたいに左目が膨れ上がっている。目の周りの痛みは殆ど無くなった。母に言わせるともっとひどくなると思っていたがそれほどでもないという。目が完全につぶれていないので不便というほどではないが、鏡で見ると相当みっともない。今日、三日目の朝、鏡を見ると腫れは三分の一程度にひき、お岩さんの遠い親戚程度になった。草刈は中断、再開は未定。止めたというつもりはないが。■


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プチ農業事情

2005-07-28 10:29:22 | 日記・エッセイ・コラム
先々週田舎に戻って以来、朝夕の涼しい時間に少しずつ母の手伝いをしている。実はプチ農業とすら呼ぶのも恥ずかしい位の家庭菜園に毛が生えた程度のものである。国道沿いの田んぼは製材工場の貯木場に貸し、他の田んぼは農地保全の為稲作を続ける必要があるため契約して稲作を依頼している。老齢の母はもう作れないので当然だが、依頼先の人も老齢化が進み後何年やってもらえるかわからないのが実情である。

残っているのは堤防拡張で切り取られた三角形の畑と山裾の斜面の小さな畑、庭にある文字通りの家庭菜園である。家庭菜園では花やハーブに混じってキュウリ、ニガウリ(ゴーヤ)、ズッキーニ、人参、大根、ニラなどを作っている。家から5分のところにある畑ではイモ類、大豆、小豆、トウモロコシなどの豆類、カボチャ、ごぼう、なす、トマトなどを作っている。

帰省直後は取り立ての新鮮なとうもろこしを毎日2,3本食べ一気に太った。しかし直前の大雨で倒れて殆ど駄目になってしまっていたので1週間余りでなくなった。中国から持ち込まれたと思われるハクビシンが野生化し夜になると出てきて農作物を食い荒らすのも原因で、特にとうもろこしが好きらしい。以前30mくらい先の裏山の道を横切るハクビシンを見たことがある。偶然目が合ったが慌てることなく実に堂々と通り過ぎて行った。狸や狐もいるがハクビシンがはびこっているらしい。

先週までに除草の為、表層10cm程度を耕し大豆の種を蒔き、鳥に食われないよう銀色のテープを張るのを手伝った。昨年は台風が来て冠水するたびに種を3度も蒔いたという。今蒔くと4ヵ月後が取り入れ時期になる。今回は7月初めの大雨で畑の表面が固まっていた。母は今週のつもりだったが、梅雨が明けて畑が乾き始めたので近所の人達が種まきを始めたのを見て1週間作業を早めたという。これが究極の横並び発想、もちろん農業では十分合理的であるが、日本人の発想の源と一人で感心した。

最近まで教わったスコットランド人の英語教師との会話で「ブッシュ大統領がXXXが好きと聞き小泉首相が何て答えたか...」と私が言いかけると彼女が私に唱和して「Me too!」と 言ってお互いに大笑いしたが、心では何だという複雑な気持ちになったのを思い出した。彼等のステレオタイプ化した日本人はまあそういうことだ。しかしこれには深い文化的歴史があるのだ、なんて自分で納得してみた。

鍬を担いで畑に行く途中、車椅子を畔にとめ農作業している腰の曲がった老婦人の姿を見た。これもまた日本の農業の一側面かと暗然たる気持ちにならざるを得なかった。後から母に聞くとその女性は歩けないわけではなく鍬や取り入れた野菜などを持ち運ぶ為、又疲れたときは座って休むためだと私の思い込みを訂正したが、後何年こういう風景が続くのかと思うと感傷的にならざるを得ない。■


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世界マッサージ紀行(2)

2005-07-26 22:56:42 | 健康・病気
慣れてくると毎週が楽しみになってきた。大抵は毎週のように出かけた日帰りか土日のハイキングから戻った日曜日の夕方マッサージを受けた。決まった診療所があったわけではなく、西シアトルかレドモンドの共用の診療所、都合がつかなければイサッカーの山奥にあるパトリシアの自宅でセラピーを受けた。マッサージの後半は気持ちよくなっていつも寝てしまい終わると起こされた。

なぜか彼女とは波長が合ってマッサージの最中にいろいろなことを話し合った。彼女によるとニューヨーク・ブルックリンの生まれ、離婚後シアトルに移住、2度目の結婚をしたが夫に先立たれ当時子供と二人暮らししていた。彼女は知的でユニーク、質素な生活スタイルではあるが、米国でよく目安にしていた車から判断すると経済的にはそれほど楽な生活ではなかったのだろうと思う。

マッサージ・セラピストの資格をとり、スウェーデン式の他に日本の指圧やタイ式なども教わったそうで、試しに色々やってみてくれた。彼女が言うところのタイ式は筋肉の裏側まで揉み解すのだそうで、私には飛び上がるほど痛かった。彼女の経験では日本人のお客は概して強く揉むのが好きで、かつ痛くても痛いといわないそうだ。私は強いのが好きなわけではないが、何故か簡単に痛いとは言いたくなかった。

彼女は面白い顧客の話もしてくれた。筋肉隆々のボディビルダーのような男性顧客の話をしてくれたことがある。彼は男性的な体形を保っていないと女性にもてないと強迫観念を持っていたが、筋肉が石のように硬くなりセラピーを受けに来たらしい。揉み解すまでに私の倍以上ものエネルギーが必要だったらしい。それでもプロのセラピストの技を絡めた腕力が如何に強いか最初は疑っていた彼も認めたそうである。

いつの間にか私は会社やプライベートの悩み事を話し、彼女の助言を聞くようになっていた。彼女自身は会社務めの経験があり、2度目の亭主はボーイング社のマネージャだった。ボーイング社内の仕事のプレッシャーがもとで心臓を患い亡くなったそうで、会社勤めがどういうものか理解していたと思う。日々の現地工場運営の悩み事を理解し聞き役になってくれた。特に会社の人事というと大げさだが、いろいろな局面で従業員が本音でどう考えるのか彼女の意見を参考にしたことがあった。

ある時会社で人事マネージャの説明を聞き、それに対してこういう考えはどうかと従業員の立場で発想しそうな意見を言ってみることで良い方針が得られたこともある。日本人スタッフと現地従業員の関わりや、少数民族の上司との意見の違いに対する悩みも話した。今から考えるとバドミントンやハイキングなど趣味の話も少しはしたが、殆どは仕事の話ばかりしていた。彼女が言うには私の話は従業員の心配ばかりでとても好い人だとわかった。が、それでは肩が凝りマッサージが必要になるはずだ、と。

プライベートな事も時には話した。日頃母親とコミュニケーションが噛合わないとぼやくと、折に触れてカードを送れというアメリカ式の助言をしてくれた。やってみると意外と効果があったが長続きしなかった。いずれにしてもマッサージもさることながら毎週こうやってリラックスして普段誰にも話せないことを愚痴るのが楽しみだった。

彼女は研究熱心で、時々タイ式のほかにも新しいやり方を試してくれ、新しいオイルを試してみてくれた。ダライラマにはまっていたが、無信心の私はその話にはあまり乗らなかった。年が明けるとある日突然、暫らく休暇をとってニュージーランドに行ってくる、帰国はいつになるか未定という。何となく彼女が信奉しているダライラマが間接的に関係していると疑ったが詳しいことは聞かなかった。2,3ヶ月たってついにその日が来た。西シアトルの診療所で最後のマッサージが終わったあと、徐々に慣れてきた米国風の長い別れのハグをして毎週習慣にしていたパトリシアのマッサージが終わった。それでは次回まで。■


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