3日前に四国愛媛に帰京した。前日の日曜日に品川駅前のレストランで家族パーティを行った。連日の猛暑日で身体がだるく出席を躊躇ったが、孫の誕生パーティとあれば欠席出来なかった。いざ出席して家族の顔を見ると元気が出て楽しく過ごせた。初めてのジャーマンレストランも良かった。だが、帰宅すると疲れが戻った。いずれにしても1カ月間の帰京の目的は全て果たした。
翌日の帰郷日も朝から日差しが強く、重い荷物を持って歩くのは気が進まなかった。初めてのレストランを家族と楽しめたが、パーティの疲れがまだ残っていた。通勤時間帯の電車は勤め人で一杯だったが、幸いにも途中から目の前の席が空き座れた。昨夜の疲れで直ぐに寝込んでしまった。
目が覚めると見覚えのある駅の風景で乗客が一斉に下車を始めた。私も急いで荷物を持って寝ぼけ眼で後に続いたが、途中で見慣れた乗り換え案内が見えず下車駅を間違えたことに気付いた。武蔵小杉駅だった。50年前には住み、その後も何度も通った駅なのにボケていた。
慌てて駅に戻り後続電車に乗ったが、乗客で一杯だった。おまけに前を走る電車の乗客が倒れて救急車で運ばれる事故があり、後続電車が軒並み遅れていると車内放送があった。車内表示によると、乗り換え先の京急線などの電車が同様の遅れが多発してるという。猛暑が熱中症を多発させていた。
気になってスマホで羽田空港着時刻を予測すると、私は予定より15分程度の遅れで空港に向かっていた。スマホの助けで大体の状況を把握でき、飛行機に間に合うことが確認できた。しかし、川崎駅で京急線に乗り換える時には必死で歩き大汗をかき、リュックの重量が肩に食い込んだ。
京急線品川行きはいつもの直通車と違い鎌田で乗り換え羽田に向かった。気が付くと混雑した車内でサラリーマンらしき風体の人達はリュックを前抱えしており、私のように背負って他の乗客に迷惑をかけてなかった。幸い空港に近づくにつれ乗客が減って少し余裕が出来、ホッとした。
だが、バタバタしていた私は落ち着いてなかった。空港内で保安と搭乗口の番号を間違えてウロ付き、係員の手を患った。疲れると何度も内外旅行をした経験など役に立たなかった。松山行きは旧式の737-800で、エンターテインメントも隣の女性客との会話もなく定刻に着陸した。
松山は最高気温32度で東京より5度も低く、体が楽に感じ少し元気が戻った。空港から待ち時間なしで路線バスに乗った。隣に座ったお婆ちゃんによると、昨日までは暑かったとのこと。JR松山駅の高架化とか、繁華街だった銀天街がシャッター街化した原因とか聞いた。
次の長距離バスに乗るまでの時間を使って松山市駅周辺をブラブラした。お婆ちゃんの言う通り銀天街にかつての華やかさが、周りの新しい建物でかき消されたと感じた。気が付くと後ろポケットの財布が消えていた。慌ててバス会社や警察に落し物の問い合わせをした。だが、落ち着いて持ち物を点検すると、何と最も身近な横ポケットに入ってた。関係部門には迷惑をかけた。
松山市駅から宇和島バスで高速道路を走り大洲まで走った。ここでまた居眠りしたが、今度は他に下車する客がいたので、幸いにも私も目を覚ました。下車後はもう何もする気が起こらず、いつもなら立ち寄る安売りスーパーで当座の食料を仕入れることも無く実家に直行した。
初めて知らない土地に旅行するような失敗を繰り返してやっと実家に戻った。後期高齢者のボケ老人には小さな冒険だった。100歳前後の老婆二人は健在だった。家じゅう開け放って空気を入れ替えた。1カ月の間に台所や玄関の一部にカビが生えていた。冷蔵庫に1カ月前に残してきた冷凍食料やコーヒで夕食を済ませ、テレビを見ると低い雲の下で凄い雨が降る東京の映像を報じていた。■
翌日の帰郷日も朝から日差しが強く、重い荷物を持って歩くのは気が進まなかった。初めてのレストランを家族と楽しめたが、パーティの疲れがまだ残っていた。通勤時間帯の電車は勤め人で一杯だったが、幸いにも途中から目の前の席が空き座れた。昨夜の疲れで直ぐに寝込んでしまった。
目が覚めると見覚えのある駅の風景で乗客が一斉に下車を始めた。私も急いで荷物を持って寝ぼけ眼で後に続いたが、途中で見慣れた乗り換え案内が見えず下車駅を間違えたことに気付いた。武蔵小杉駅だった。50年前には住み、その後も何度も通った駅なのにボケていた。
慌てて駅に戻り後続電車に乗ったが、乗客で一杯だった。おまけに前を走る電車の乗客が倒れて救急車で運ばれる事故があり、後続電車が軒並み遅れていると車内放送があった。車内表示によると、乗り換え先の京急線などの電車が同様の遅れが多発してるという。猛暑が熱中症を多発させていた。
気になってスマホで羽田空港着時刻を予測すると、私は予定より15分程度の遅れで空港に向かっていた。スマホの助けで大体の状況を把握でき、飛行機に間に合うことが確認できた。しかし、川崎駅で京急線に乗り換える時には必死で歩き大汗をかき、リュックの重量が肩に食い込んだ。
京急線品川行きはいつもの直通車と違い鎌田で乗り換え羽田に向かった。気が付くと混雑した車内でサラリーマンらしき風体の人達はリュックを前抱えしており、私のように背負って他の乗客に迷惑をかけてなかった。幸い空港に近づくにつれ乗客が減って少し余裕が出来、ホッとした。
だが、バタバタしていた私は落ち着いてなかった。空港内で保安と搭乗口の番号を間違えてウロ付き、係員の手を患った。疲れると何度も内外旅行をした経験など役に立たなかった。松山行きは旧式の737-800で、エンターテインメントも隣の女性客との会話もなく定刻に着陸した。
松山は最高気温32度で東京より5度も低く、体が楽に感じ少し元気が戻った。空港から待ち時間なしで路線バスに乗った。隣に座ったお婆ちゃんによると、昨日までは暑かったとのこと。JR松山駅の高架化とか、繁華街だった銀天街がシャッター街化した原因とか聞いた。
次の長距離バスに乗るまでの時間を使って松山市駅周辺をブラブラした。お婆ちゃんの言う通り銀天街にかつての華やかさが、周りの新しい建物でかき消されたと感じた。気が付くと後ろポケットの財布が消えていた。慌ててバス会社や警察に落し物の問い合わせをした。だが、落ち着いて持ち物を点検すると、何と最も身近な横ポケットに入ってた。関係部門には迷惑をかけた。
松山市駅から宇和島バスで高速道路を走り大洲まで走った。ここでまた居眠りしたが、今度は他に下車する客がいたので、幸いにも私も目を覚ました。下車後はもう何もする気が起こらず、いつもなら立ち寄る安売りスーパーで当座の食料を仕入れることも無く実家に直行した。
初めて知らない土地に旅行するような失敗を繰り返してやっと実家に戻った。後期高齢者のボケ老人には小さな冒険だった。100歳前後の老婆二人は健在だった。家じゅう開け放って空気を入れ替えた。1カ月の間に台所や玄関の一部にカビが生えていた。冷蔵庫に1カ月前に残してきた冷凍食料やコーヒで夕食を済ませ、テレビを見ると低い雲の下で凄い雨が降る東京の映像を報じていた。■