前掲の、外部被バク推計結果に、添付されていた、日ごとの放射線量の表。今、改めて見てそうだったのかぁくらいしかの、感想だ。大量の放射線が降りそそいだ15日は、福島市の妹の所へ、トヨタハイエースに、介護中のばあちゃんが使うものを、ポータブルトイレや、車椅子、介護用マットレス、数種類のおむつを、荷台一杯に積み込んで、車の燃料は、片道分とちょっとしか入っていないまま、午後三時半ごろ、出発した。後々知ったことだが、いわきより、福島市の方が、たいへんだっのだ。大震災と、原発事故のことの、当時を思い出すと、背筋が凍る。
画像は、以前に、福島県からの、外部被ばくの推計結果のお知らせ。放射線量のことは、当時、市役所に、市役所からのお知らせを、午前と午後の二回、自主防災会と名が入っていたヘルメットをかぶり、自転車で、取りに行っていた。推計数値は、当時、戸外に出ない家族と比べると、高い。原発事故があった当時は、市役所からは、放射線に関しては、別に知らせが無いので、普通の生活をしていた。当時、テレビの報道は、原発事故を終日放送しており、大丈夫なのかなぁと、不安がつのってきていた。今は、市役所からのお知らせは、防災メールで、パソコンに入ってくるし、ガラケイにも、入ってくる。これは、助かることだ。原発事故があった時より、数年前、町内会には、自主防災会が、組織された。ヘルメットだけは、町内会の役員に渡しておくようにと、強く申し入れをしていた。そのヘルメットをかぶっていくと、「ご苦労様です。新しいお知らせはこちらです」なので、助かったものだった。