磐城高校が、二十一世紀枠で、春の甲子園へ出場する。小生の父親が、前身の磐城中学校で、野球をしていた。当時、県代表になり、東北大会の一回戦で、一点差で、負けたことを、こどもの頃、聞かされていた。今回、磐城高校創立百年の記念史、平成八年に刊行のを、ぺらぺらめくってみた。そこには、明治23年から、県内の尋常中学校間で、対抗試合を行ったとある。明治36年には、学校内で、学年対抗の試合を試みたとある。36年になると、仙台第一中学校の校庭で、対抗試合を、試みたとある。大正7年には、東北大会へ出場する、実力を持ったとある。明治の時代には、慶応大学からコーチを、招聘したと、当時の写真が載っていた。大正十年になると、早稲田大学の選手コーチを受けていたとある。おりから来朝中の野球団を招聘して、インデアン野球団と、平クラブと、磐中の三チームで、試合を行ったとある。父親の自慢話のなかに、アメリカの野球チームと、試合をした話しを、聞かされた。ちょっと思い出して、ぺらぺらと、めくって読んだのを、掲載をしました。もしかして、掲載の写真の中に、父親が、写っているのかも。画像は、この時の写真。「創立百年」から、拝借しました。詳しくは、「創立百年」史をどうぞ。この史ほかに、野球部の記念の史もあるようです。
「鬼やらい」が終わり、立春も過ぎた。テレビでは、暖冬と報じている。ずうーっと前に、仕事で使っていたのを、ひっぱり出して見た。月刊の「気象」という誌に、その月の傾向を、一言で表したのを、書き止めておいた。それによると、一月は、「小雪だが多雨」。「東京四年ぶり冬日」。「寒波きても高温」。「寒かった一月」。「西暖北寒の一月」などがあった。二月を見ると、「暖冬中の暖冬」。「暖冬ストップ」。「後半寒い」「北日本中心に寒波」。「インフルエンザ流行」、などがあった。二月のイメージは、「春一番」。「春の雪」。「寒のもどり」。「二月の大雪」。「光の春」などがある。お天気は、いろいろと変化をする。