IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

「水無月」はため息を・・・

2024-06-01 09:31:39 | この頃思う事

上部画像:山アジサイ(花色は薄いブルー)

地質が合わなかったので、数回、植え直し、漸く、現在の位置(多少の日当たりがあり風通しが良い)の環境で落ち着いた。

 

上部画像:庭藤

山野草の積りだったのが、多分、園芸種だったみたいで、現在は鉢植えで放置しているが、毎年、結構な花が咲いてくれる。

 


 

6月(水無月)になった。
(因みに、「水無月」の「無」は「の」という意味だとか、つまり「水の月」という事だと・・・今頃知った)
先週あたりから、雨の日が多かったので、「やれやれ、梅雨の時期だなぁ」と多少、鬱めいた気分になってしまっていたが、まだ、梅雨入りはしていないらしく(殆ど、天気予報を見ない)この先数日間の天気は良さそうだ。

本格的に雨にならないうちに、少しは、花壇は花壇らしく、畑で唯一の作物である「九条ネギ」の植え替え(株分け)もしたいと「獲らぬぬ狸」的計画を立てていたところ、また暫くは、認知症気味の友人に関わらねばならなくなった。
友人のご親戚から連絡が来て、本格的に入居施設を探すために、病院の診断書(アルツハイマーと診断されたそうだ)を提示し、行政の支援を受けられるよう介護認定を申請したと言う。
それやこれやで、手続きが済むまで(7月頃迄にはある程度の進捗があるだろうからと)現在の居住地で住む予定だそうで・・・ま、私も、「全てそちらで」と言い切るのも忍び難く、出来ることはお手伝いするからと申し出た。
とりあえず、週明け月曜日(市役所から来訪があるかもで)に友人宅を訪ねることにした。



予定した作業が遅れたって命にかかわる訳でない、あれやこれやに振り回されないだけでも身体的には楽になる。
自分の人生も、他人様の人生も、計画通りに行かないものという認識はあるから、何時どう変わるかは未定ながらも、ただただ心配してストレスを溜めるだけでない今の状況に感謝(喜びたい?)と思っている。

 

ところで、6月という事は、もう今年も半分過ぎたという事で・・・半年間、いったい何をして過ごしていたのかと思い返してみると、何故か「腰が痛かった!」ばかりが脳細胞を掠める、つくづく「体力が勝負なんだよなぁ」とため息を吐いている私なのである。

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まさか「梅雨」に入ったの?

2024-05-28 09:23:47 | この頃思う事

  

上部画像:クレマチス3種

上部画像:ヒメヒオオギ2種

 


 

相変わらずと言うか、案の定と言うべきか・・・屋敷内も畑の花壇も(畑は近所住まいする妹が「草茫々農法」とかで使用しているので手は出さない)雑草取りが進まずに、連日の雨模様天気に入ってしまった。
まさか、「既に梅雨か?」とは思わないものの、この連日の雨は、さぞかし雑草にもいい影響を施すだろうと予想は出来る。
だから、雨が上がり、眩いばかりの太陽の光を浴びた後の畑や花壇の惨状が思い浮かんで、我が心は萎えるのである。

 

以前にも言ったと思うけれど、最近の我が周囲の出来事を思うにつけ、元気でいたいと思っても、明日の自分だってどうなるかは本当に未定なのだと実感しており、一つ一つの出来事を完璧に解決するのでなくても、少なくとも、後で後悔しない程度には解決を図って置きたいと考えようになった。
で、先日亡くなった親戚であり同級生でもあった知人には、幼馴染であり、また私にも同じく同級生であった友がいた。
知人が病に伏していることを聞いた幼馴染の友は、自分もお見舞いに行きたいから、今度自宅に同行させて欲しい旨、依頼されていたのだが、私自身の気持ち的に、どうしても快く受け入れることが出来なくて、とうとう生前に会って貰うことが出来なかったのだ。
しかし、私自身がモットーとしている「もうこれが最後になるかもしれない」という考えとズレているということは、十分、承知しているから、随分、葛藤はあった。
ただ、何故躊躇していたのか、自身でも、どう解明したらいいのか消化出来ていない、そのうち理由を説明できる日が来ると思う。

そんなことで、心にしこりとして残っている事に対して、如何に説明したところでもう遅い事と承知しつつも、お詫びがしたいからと同級生をお茶に誘った。
知人に会わせるか会わせないかは、当然、私が決めることでなく、知人の判断に任せるべきだったが、その点に決断が下せなかったと正直に詫び、それでも同級生は快く了解してくれた(のだと思う)。
もうやり直しが出来ない事なので、くだくだ言い訳したところで何の意味もない。
ただ素直に受け入れてくれた同級生に対して、感謝しつつ申し訳なさを感じた。
但し、この出来事自体を、私にとっていい教訓となったことがせめてもの救い(そう思う傲慢さもあるよな)と、反省材料(別れに際しての決断)として心にしかっと刻んだのだった。

今は何より、「雑草取り」優先で行かねばならない・・・だけれどねぇ、雨が

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またまたまたまた・・・また?

2024-05-26 15:32:55 | この頃思う事

我が家の花壇にある知人から貰った薔薇が、今年は、かなりよく咲いてくれています。
日々の手入れは、全く、出来ていないのですが、今のところ、虫も病気もついていないように思います。
後は、早めに花柄の「切り戻し」をしてやろうと考えているのですが・・・ま、何時の如くに、我が気分次第という事になりそうな気もしているのです。

 

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またまたまたまた・・・手抜きです!

2024-05-24 09:31:05 | この頃思う事

先日、奈良に住む友人が、数年ぶりに訪ねて来て、一応、当地で「最高のおもてなし」である「富士山」を堪能して貰ったのだが、天候の加減で全体の姿を現してくれていなくて、少し残念!
友人が帰ってしまった後に、偶々、畑に出て観た「夕暮れの富士山」の姿が印象的で、その写真を撮って友人に送った。

傲慢な奴と言われてしまいそうだが、案外、当地の人間は、常に富士山を眺め観ることは少ないが、富士山を見たいという来客(観光客も含めて)があって改めて意識する(ま、私だけなのかも知れないけれどね)が、そんな時に、結構、素敵な富士山に出会えたりするのである。

上部画像:ズームで引き寄せた「夕日に佇む富士山」  下部画像:田圃に張った水面に映る「逆さ富士」

 

 


 


数年前、畑に移植した「シャクヤク」は、最近、何故か花が開かない(蕾が膨らんだ状況で)うちに枯れて(正確には腐って)しまう、多分、病気が付いたのかも知れないが、今は、その対策を取る力が湧いて来ない。
無事に咲いた花を観賞すると、後は、皆、切り取ってしまっている・・・今年こそは、何とかしないと、全部、ダメになってしまうかも。
今のところ、花壇(畑にある)の草取りも、一向に進んでいない・・・  

 

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またまたまた?・・・手抜きです

2024-05-20 09:00:11 | この頃思う事

何と、本日は5月20日です!
驚きと言うか、まぁ当然と言うか・・・時間は容赦なく過ぎて行くのですよね。

4月中旬から5月中旬まで、日常、とりわけ急ぐような用事の無い私にも、確かに、かなり濃い日々だったことは認めざるを得ないが、だからと言って、ブログが書けない程、目まぐるしい日々であった訳でも無い。
要するに、ただただ怠けていたという事なのだ。

知人の病に続く逝去から始まり、東京から友人来訪(2泊3日)、地元友人とのランチ兼お茶数回、前職勤務時の友人らと数年ぶりで東京での食事会をするというのに、山姥のような我が姿の改修・改善のために、急遽、美容院に駆け込み、東京に住んでいたと言えども不慣れな場所(広尾)での会食に疲労困憊し、帰宅後ダウンしていたところへ、町に住むちょい問題の友人が突然の押しかけ来訪、一日中ショウモナイ話に付き合わされどうにか帰って貰った翌日早朝(午前7時前)に、関西に住む友人が来訪(1泊2日)して、これまた数年振りであったから、あれこれ話が溢れ続き、翌日は近くの植物園で薔薇と富士山を楽しんで貰った。
これだけで、かなり疲労感が上積みされているように感じているのに、明日(21日)は、市民生涯教育教室での先生とお仲間との展示会後にランチ会に参加した後、自ら解決策を図れない問題の友人のトラブル解決に尽力(?)しなければならない・・・と続く。
まぁ自らが導いた結果だと言えるだろう出来事に孤軍奮闘しているのだよ・・・という訳である。
時折、花壇や庭の草取りも、少しづつだがこなしている時間もあったけれど・・・そう、少しだけね。

と言う次第で、21日が過ぎたら、少し落ち着いてブログに向かいたいと考えているという言い訳をもって、「我が家の裏手にある竹藪(他人様の物)に咲く初夏の花々」をご覧あれ。

 

裏の藪に生える、多分、「孟宗竹」のタケノコを駆除するのが日課となる



「宇津木」と思われる2種類の山野草が咲く「よそ様」の竹藪

同じ竹藪に「常盤つゆ草(野方他唐草)」と呼ばれる「特定外来種」が、正に蔓延った状況となっている。
私が知らずに別の山に生えていたこの草を家に持ち帰って来た結果であって、至極反省しているが後の祭。

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またまた手抜きをします!

2024-05-07 13:59:07 | この頃思う事

庭には、次々と花が咲いて来ているので、一応、ブログを更新する時のためにと撮り溜めてはいたが、我が脳細胞は創造的活力が、全く、欠乏の為に何も更新材料が見つからないのである。
で、又しても、手抜きの「我が家の庭の季節の花達一挙掲載」を試みる・・・ホント、これでイイ訳ないのよね、凄く反省!

とは言っても、如何にしても何のアイデアも文章も浮かんで来ないので、とりあえず一週間(20日以降には何とかしようと・・・)、これでお許しを頂きたい。

 

 

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「皐月」初日は、あいにくの雨模様・・・

2024-05-01 10:28:50 | この頃思う事

 

庭の一カ所に群生させていた「十二単」を、2,3年前、根を分けて数カ所に植え直した。
僅かな手入れでも、結構、増えて行くので、今年は、庭のあちらこちらで花が咲いてくれていて、落ち着いた色合いながらも、一方では華やかな雰囲気を演じている。
「アジュガ」は「西洋十二単」と言って、「日本原産十二単」とどこかが違うようだが、我が家のこの花は、「日本原産」なのか「西洋原産」なのかは、毎度の如くに、私には、全く、不明なのである。

 

 


 

 

「爽やかな五月晴れ」だと、何の疑いもなく5月1日を迎えたが・・・今朝は柔らかな雨降りで、少し湿度が高いかも(午後からは結構な大降りとなった)。
ま、世が問う「異常気候変動」の所為か、或いは、前々から5月と雖も、案外、こんな天気だったのか、相変わらず、過去を引きずらない(?)私なので、確なところは覚えが無い。
但し、何故か、朝一には「今日は4月1日」と認識していた・・・まぁ、私にとっては4月であっても5月であっても大した違いは無いという事だろう。

最近、かつての仕事仲間や遊び仲間(故郷にUターンする前に出会った方々)と、目の前に会える機会が巡って来たならば積極的に会おうと決めている、つまり、ある意味、終活(自分自身のケジメ)の一つと考えているからなのだが、自分から機会を作ることがシンドクなって来ているので、せっかくの機会は逃したくないと思うのである。
大型連休を避けた5月半ばには東京時代の仕事仲間と会食(西麻布ですって・・・ちょいシンドイかな?)、その3日後には、三十数年前の海外の旅で友(現在、奈良在住)となった友人が、我が家を訪れて数日間滞在予定、月内には帰郷後の遊び仲間(現在、私は既にその遊びの会から脱落)が久しぶりに集まると言うので便乗させて貰う事となっている。
まだ日時は確定出来ていないが、多分、2年余り会えないでいる静岡市在住の友人との約束もしてあった。
意識的に会う機会を集中させた訳では無いが、人間て、案外、会いたくなる季節があるように思うんですよね、だから、呼びかけにはあえて避けようとは思っていません。

花壇(畑にある)の草取りも目の前にぶら下がっているが、これも気分が向いてきたら始める積り・・・いつのなるのかは不安だけれどね(最近、良く雨降るし・・・)。
でも、知人・友人らに会うのは梅雨に入る前に・・・とは思っている、そう、やはり、「五月晴れ」の日に会える方が気分がイイものね。

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もう初夏だよね?

2024-04-24 09:03:26 | この頃思う事


季節が一気に春めいて来ると、枯れ葉色だった周辺も暖かな色合いに変化して可憐な花を咲かせている。
何か気持ちも弾んで、やたら写真を撮ったものの、全てをブログに掲載出来なくて(つまり適当な文章も浮かんで来なく)お蔵入りしそうな写真らだが、やはり春の神様に申し訳ないような気分になり、纏めて掲載することでお許しを頂こうと思う・・・と、講釈を言いつつ、楽と安易を選択する何時もの私なのである。

 

 

近所の川の中に繁茂する「クレソン」・・・食用可能らしいが食する気になれない、でも、花は可愛い!

 

ご近所さんの畑に植えられた(と言っても、現在はほゞ自生地ような雰囲気)「カモミール」。

穏やかな天気の時、通りかかったり、そっと花々に触れたりすると甘~い香りが辺り一面に漂う

 

我が家の庭に植えられた「花海棠」・・・昨年の剪定が良かった(自己満)為か、花付が豪華に見える。

 

姉が鉢植えにして育てている「一重咲山吹」・・・以前、庭のどこかに「八重咲山吹」もあったような・・・

 

姉が、亡き父の遺産(唯一?)である「白藤」を受け継き、一切の世話をしている。
私は眺めるだけ・・・と言うより、私は手を出せないというのが正しい表現。

 

「藤」と同じ場所にある、多分、母の遺産(?)の「つつじ」の手入れは一切(イイ加減だが)我が担当。
何故そういう担当分けになったのかは不明。
でも、姉は生前の母を嫌っていた節があり、父は好きだったからでは?・・・と、密かに勘繰っている私。

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私自身の問題かな?

2024-04-15 07:44:30 | この頃思う事

 

 

多分、「ソメイヨシノ」ではないと思う。
最近では、近所の神社に数本ある桜の木でお花見をしている、つまり人混みが嫌だから・・・
我が家から歩いて畑に沿った農道をブラブラと散歩をしながら10分程、人っ子一人いない神社で、あたかも「MY-SAKURA」ごとき思いを込めて大きく成長した桜の木を見上げるのである、結構いい気分!

でも、悲しいかな、今年の桜は、気候変動の為なのか、或いは、もう賞味年齢に達したのか花も「儚げ」な風情なのだが、これもまた「自然の営みの経過」であって、一層、花にも木にも心が寄り添うのであった。

 

 


 

 ←拡大可能

 

先日亡くなった知人の納骨を、知人にとっては故郷である我が地域の墓地(実家)に納めることになった。
その墓地には、知人のご両親のお骨も納められていて、以前からの知人の希望でもあったのは聞いていた。
まぁ、いろいろあった知人の生涯だったが、最終的に希望が叶えられたことで「過去は帳消し」になって欲しいなと願う。
墓地の傍の道路沿いには、正真正銘の「ソメイヨシノ」の並木があり、既に、はらはらと花びらが散り始めていた。
知人宅は神式なので、あまり良くは分からないが、神主さんが知人の御霊を送る祝詞(と説明されたような)を上げていた時、まるで儀式の効果手順であるかのように一陣の風が吹き、辺りを桜吹雪にしたのだ・・・これにはさすがにぐっと来るのもがあった。
神式にあの世があるのかどうか知らないけれど、もしあるならば、知人を暖かく迎えてくれているように感じたのである。


気分一新したいところに、いいタイミングで友人からメールで「ランチとお茶」のお誘いあり、早速、日時を決め返信、また、遊び仲間の同級生からも、ちょい旅に出るからというメールが入り、今度はこちらから、旅から戻ったらお茶しようよ(お土産があるらしいので)・・・と誘った、これは、多分、来週だな。
今週火水木には、東京在住の友人が我が家に泊まりに来るのから、今日(月)は、その用意(と言っても、何もしないと宣言してあるが・・・)として、少し冷蔵庫内を埋めるものの買い出しに行こうと思っている。

こんな風にバタバタとしているうちに、私の日常もいつしか通常に戻って行く・・・が、我が心の平安を乱す輩も出てくるのであって、あぁ、そうだ、あれから全く電話が通じていないあの友人宅に、再度、行って来なくちゃ・・・とかね、私自身で問題を作っているのかなぁ・・・って思う時もあるんですよね

 

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知人が旅立ちました・・・

2024-04-07 09:53:59 | この頃思う事

ご近所さんの畑には「枝垂れ桃」が見事な花を見せてくれている。
写真を撮ってもいいよという申し出に、余りにも豪華絢爛たる姿に気おくれしたので、前面にひっそり咲いていた「菜の花」を撮って、「枝垂れ桃には菜の花が良く似合う」と、「太宰治・富獄百景」風に気取ってみた・・・しかし、残念ながら、この被写体の構図自体には、如何ほどの芸術性も感じる事は無い・・・というお話。

 

 


 

 

ここ十年程、気に掛かっていた知人が、昨晩(4月6日)彼岸へ旅立った。



私と知人とは同年齢で、同じ地区内に生まれて幼稚園から中学校まで(高校は違っていたと思ったが、定かな記憶はない)一緒に学んだ間柄で、親友ではないが幼馴染(遠い親戚でもあった)としての付き合いをしていた。
知人が結婚と同時にこの町を去り、私は仕事などで都会に住むようになって、お互いの関係も薄れて行った。
が、私が定年を迎えた時点で、実母の介護のこともあり地元に戻って来た時に、周囲に遊び仲間(正式には飲み仲間)もない寂しさもあって、我が地区の同級生(11名)同窓会を地元で開催すべくアプローチし、8名から賛同を得られて開催にこぎつけたが、知人はその時の賛同者の内の一人であった。

その時を境に、急速に戻った付き合いの中で、知人の現況を知り、他人事だと無視出来ない気持ちを持つようになったが、知人の現居住地も近くは無かったし、交通手段も一本で行ける環境で無かったから、足繫く出かけられないので、「用事があったら電話をしてね。その時には、出来るだけ来れるようにするから」と話し、時折頼まれたことをこなしながら現在に至っていた。

昨年暮れ辺りから、知人の健康状態も思わしくなくなって来て、呼び出されて出かけるという事より、気になって様子を見に出かけるという事が多くなってきたが、私の個人的な判断でも、もう一人(介護は入っていた)で暮らすのは無理ではないか・・・と感じるようになって、なるべく、ケアマネさんと相談するよう勧めたところ、知人自身も先行きを考えていた(今更もう遅いよ・・・とも感じもしたが)みたいだった。
「3日後に病院に行くからその結果をみて判断する」という知人からの電話で、「行く先が決まったら連絡してね、持ち出す荷物やら、自宅の片づけなど出来ることを手伝うからね」と電話口で話した時、何か息苦しそうなのが気になったが・・・その翌々日の晩、知人の姉(80歳になる)から連絡が来て、救急搬送され、現在危篤状態だと言うが、私は、内々に既に想定もして、別れの心構えは出来ていた事もあって、今から駆けつけることは時間的に無理なので看取りには行けない旨を了解して貰った。
幼少時代はさておき、ここ十数年の付き合いから思えば、何と呆気ない別れだなぁ・・・が実感だが、一方では、知人の晩年の生き方を見ていて、過去に囚われて現在を悲観し心に平安の無い人だったから、ある意味、これはこれで良かったかも知れない・・・という思いもする。

 

私自身は、人間の生死の場に接しても、ある程度(かなり?・・・かも)感情希薄であることを認める、人間として当然の(避けられない)経過・・・という諦観的な思いがある。
どう生きるか、どう死ぬか・・・は、一概に標準化は出来ない事だし、前もって老後に際しての生活の準備・心の準備が出来ていることが理想的ではあるが、人間(だからこそ?)、皆、そう出来るとは言い難い。
「死」を泰然自若として迎えるか、悩み恐れながら「死」に至るかは、良し悪しではなく、個人差でしかない。
ただ、自分自身が、だんだんと年を経る毎に、身近な死の体験を通して、何となく、自身にも心構えが出来て行くように感じているのは、余りにも「終活・終末」を安易で楽観的に考えているのかなぁ・・・って、思ってはいるけれどね。

 

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