ご近所で一番早く花が開く「梅の木」だが、決して陽当たりがイイとは言えない場所なので、若しかして、地下に温泉脈でもあるのかも知れない(地熱が高い?)・・・と、私は、密かに思っているのだが、さて?
昨日(3日)の朝、我が東屋迄、新聞を持って来てくれた姉が(姉宅の新聞を一日遅れで読んでいる)、「今日の夕飯には、恵方巻が届くからね」と言う・・・あぁ、もうそんな日になっていたのか・・・と、月日(時間)の流れの速さを感じたが、そんなに忙しくないのに、何故だろうな?
毎年節分には、自作の恵方巻(まがい)を作っていた姉だが、身近に様々な問題が発生して混乱していた昨年は、とてもそんな気が回らなかったのか(或いは、作らなかったのか)、私に届けられなかった。
特別、食べたいとは思っていないものの、毎年、恒例のように来ていたものが来ないというのは、何か不安にさせるし、寂しいものなんだよね。
今朝、姉からそんな言葉を聞いて、姉も、それなりに心の整理を付けて前向きになろうとしている姿に、少し安堵感を持った。
夕刻、姉の孫(高校性)が、豆撒きをするとやって来たので、「福は私の手の中にだけにひっそりと、鬼は玄関からより遠くに放りなげて」と注文すると、彼も笑いながら豆を撒いて行った・・・子供たちが(姪は2人の子供がいる)、母親の病に不安を抱えつつも、現実を見つめようとしている姿は、私も姉も、見ていて切ないものがあるが、現実は現実として受け入れることは大事だし、そこから未来が始まる・・・と話をしているが、彼らなりに消化しているのを感じられるようになった。
こんなささやかな事から、幸せに向かおうとする家族の姿を発見出来る事が、私にとっても幸せ・・・という事なのね。
我が手のひらに載っている小さな福の神(豆)を、一粒づつ(最近は、歯に自信が無いので、固いものと、物を一気に頬張ることを避けている)味わっていたら、ケイタイにメール受信された・・・かつての職場の上司からだ。
メールには「頂いた年賀状が2等に当たった。今年一年、いい年になるような気がして嬉しい」と記してある。
早速、返信メールで「自分が当たった訳でも無いのに、私も嬉しいです、私にも、いい年が巡って来そうな気がしますよ」と書いて送信した。
「幸せの伝播」・・・結局は、自分の気持ちの持ちようで物事を解釈するから、自分が幸せを感じようとする心があれば小さな幸せも「伝播」するって事なんだろうな・・・なんて思ったりする。
明日は「同級生遊びの会新年会」だが、さて、この幸せな気分を伝播出来るのか・・・ま、私の気持ち次第・・・って事でしょうね。