○神戸市立博物館 第100回特別展『コレクションの精華-つたえたい美と歴史』
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/main.html
最後は1階。前回訪問時(3月)、『泰西王侯騎馬図』の複製が飾られていたホールには『四都図・世界図屏風』が出ていた。もちろんホンモノ(重要文化財)。屏風の前には、1572~1618年に刊行された図書『世界都市図帳(Civitates Orbis Terrarum)』が開かれており、比較して眺めることで、屏風に描かれたリスボン、セビリア、ローマ、コンスタンチノープルの四都の姿が、当時の地理情報に基づいていることが分かる。
いくぶん残念だったのは、展示ケース前のホールで、夏休みこどもむけ講座「土器づくり教室」が行われていて、粘土を床にたたきつけては、きゃっきゃとはしゃぐ小学生でうるさかったこと。まあ、これも博物館の大事な活動だと思うけれど、せっかくの名品をお蔵出ししたのだから、もう少し集中して鑑賞できる環境に置いてほしかった。右隻の世界図が、あまり記憶に残っていないのが悔やまれる。
1階奥の展示室には、杉田玄白『解体新書』、林子平『海国兵談』(「千部施行」の朱印あり)などの稀覯本が静かに並んでいた。中でも、私の注目は筏井(いかだい)家旧蔵文書。筏井家は越中国射水郡(現・高岡市)の旧家。和算家・測量家の石黒信由(いしくろのぶよし)を生んだ石黒家とも縁が深い。ということで、幕府天文方・高橋至時の蔵書が伝わっているのである。へえーそんな僻遠の地に。「高橋蔵書」「至時之印」の朱印が鮮やか。繊細で丁寧な写本だが、至時の筆跡ではないのかな?
オランダ通詞・本木家の文書には、寛政4年(1792)、本木良永が調査したオランダ船舶載の天文器具(限象観星鏡)の報告書(精巧な写生図)も伝わる。最終的にはオランダ側の言い値で購入し、天文方に置かれたのだそうだ。こうした学術交流とは別に、京阿蘭陀宿(オランダ商館長が江戸参府の際、泊まることを定められた宿)の御用日記とか、コンブラ仲間(オランダ人に日用品を売る商人。ポルトガル語のコンプラドール=仕入れ係が由来)の書簡とか、卑近な交流の資料に興味をひかれる。読めるものなら、中身を読んでみたい。
個人的に、かなり驚愕だったのは「天王寺文書」。「」とは、(遊芸者・工業者等)組織を統括したエタの人々のことである(と私は理解している。この春、河出書房新社が刊行した喜田貞吉の著作を3冊まとめて読んだだけの、にわか仕込みの知識だが)。私も経験があるのだが、被差別民にかかわる資料に対して、図書館や文書館は腰が引けがちで、こんなふうに堂々と展示されることは少ないと思う。会場には、徳川時代、一般の公民を管理する警察組織(奉行、与力)と、を管理する組織()があったことを並列的に解説したパネルがあって、非常に分かりやすく、腑に落ちた。後者を「見ないことにする」歴史というのは、やっぱり、どこかおかしいと思う。あとで、館内で『悲田院文書』の刊行案内チラシを見つけて、十分な研究の裏づけがあるから、自信を持った展示ができるのだと納得した。
かくて、ひとわたり見終わったのは、空腹が気になり始めた午後1時過ぎ。この見どころ満載の展覧会が600円である。観客の姿は三々五々というところで、数々の名品を文字通り「ひとり占め」できるのは、嬉しいような、もったいないような。派手な宣伝で大観衆を呼び込む国立博物館や美術館ばかりに足を向けず、地域に培われたコレクションにも目を向けなおしてみてはいかが?
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/main.html
最後は1階。前回訪問時(3月)、『泰西王侯騎馬図』の複製が飾られていたホールには『四都図・世界図屏風』が出ていた。もちろんホンモノ(重要文化財)。屏風の前には、1572~1618年に刊行された図書『世界都市図帳(Civitates Orbis Terrarum)』が開かれており、比較して眺めることで、屏風に描かれたリスボン、セビリア、ローマ、コンスタンチノープルの四都の姿が、当時の地理情報に基づいていることが分かる。
いくぶん残念だったのは、展示ケース前のホールで、夏休みこどもむけ講座「土器づくり教室」が行われていて、粘土を床にたたきつけては、きゃっきゃとはしゃぐ小学生でうるさかったこと。まあ、これも博物館の大事な活動だと思うけれど、せっかくの名品をお蔵出ししたのだから、もう少し集中して鑑賞できる環境に置いてほしかった。右隻の世界図が、あまり記憶に残っていないのが悔やまれる。
1階奥の展示室には、杉田玄白『解体新書』、林子平『海国兵談』(「千部施行」の朱印あり)などの稀覯本が静かに並んでいた。中でも、私の注目は筏井(いかだい)家旧蔵文書。筏井家は越中国射水郡(現・高岡市)の旧家。和算家・測量家の石黒信由(いしくろのぶよし)を生んだ石黒家とも縁が深い。ということで、幕府天文方・高橋至時の蔵書が伝わっているのである。へえーそんな僻遠の地に。「高橋蔵書」「至時之印」の朱印が鮮やか。繊細で丁寧な写本だが、至時の筆跡ではないのかな?
オランダ通詞・本木家の文書には、寛政4年(1792)、本木良永が調査したオランダ船舶載の天文器具(限象観星鏡)の報告書(精巧な写生図)も伝わる。最終的にはオランダ側の言い値で購入し、天文方に置かれたのだそうだ。こうした学術交流とは別に、京阿蘭陀宿(オランダ商館長が江戸参府の際、泊まることを定められた宿)の御用日記とか、コンブラ仲間(オランダ人に日用品を売る商人。ポルトガル語のコンプラドール=仕入れ係が由来)の書簡とか、卑近な交流の資料に興味をひかれる。読めるものなら、中身を読んでみたい。
個人的に、かなり驚愕だったのは「天王寺文書」。「」とは、(遊芸者・工業者等)組織を統括したエタの人々のことである(と私は理解している。この春、河出書房新社が刊行した喜田貞吉の著作を3冊まとめて読んだだけの、にわか仕込みの知識だが)。私も経験があるのだが、被差別民にかかわる資料に対して、図書館や文書館は腰が引けがちで、こんなふうに堂々と展示されることは少ないと思う。会場には、徳川時代、一般の公民を管理する警察組織(奉行、与力)と、を管理する組織()があったことを並列的に解説したパネルがあって、非常に分かりやすく、腑に落ちた。後者を「見ないことにする」歴史というのは、やっぱり、どこかおかしいと思う。あとで、館内で『悲田院文書』の刊行案内チラシを見つけて、十分な研究の裏づけがあるから、自信を持った展示ができるのだと納得した。
かくて、ひとわたり見終わったのは、空腹が気になり始めた午後1時過ぎ。この見どころ満載の展覧会が600円である。観客の姿は三々五々というところで、数々の名品を文字通り「ひとり占め」できるのは、嬉しいような、もったいないような。派手な宣伝で大観衆を呼び込む国立博物館や美術館ばかりに足を向けず、地域に培われたコレクションにも目を向けなおしてみてはいかが?