見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

トークセッション・あったかもしれない日本

2009-11-07 23:56:26 | 行ったもの2(講演・公演)
○第60回紀伊國屋サザンセミナー『「戦後日本スタディーズ」(全3巻)完結記念トークセッション・あったかもしれない日本―歴史の〈後知恵〉はどこまで有効か』(出演者:小森陽一、岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、成田龍一)

 昨年12月から今年9月にかけて刊行された『戦後日本スタディーズ』全3巻の完結を記念して、編集者5人が顔を揃えたトークイベント。いずれ劣らぬ論客だけに、どう話を持っていくのかと思ったら、第3巻ではっきり打ち出された主題、敢えてリアリティに抗して「あったかもしれない日本」を考える、という線に沿って、各自が「歴史のイフ」を掲げて問題提起するという構成を取った。順番に挙げていくと、

小森陽一:もし朝鮮戦争が起こっていなかったら。
岩崎稔:もし自由で解放的な左翼文化があったなら。
上野千鶴子:もし連合赤軍がリンチ殺人をしていなかったら。
北田暁大:もしニューアカブームがなかったら。
成田龍一:もし戦後歴史学に「階級」概念がなかったら。

 私がいちばん興味深く思ったのは、北田暁大さんの発言である。5人の編者の中で、ひとりだけ格段に若い、1971年生まれの北田氏は、学園紛争も連合赤軍も記憶にないことをまず明かし、戦後日本において、そうした世代の「断絶」が起きた一因を、80年代のニューアカブームに求めた。ニューアカ=日本のポストモダニズムは、思想や哲学から、政治や社会に対する関心を奪ってしまったのである。

 しかし、いまの10代、20代の若者は、新鮮な思いで、60~70年代に起きたことに関心を深めつつある、という報告もあった。小熊英二さんの『1968』については、複数の登壇者から何度も言及がなされた(※私はいま上巻を読了したところ)。レイトカマーは何でも言える、と上野氏は言うけれど、当事者でなく、レイトカマーの視点で書かれているから、広汎な読者の支持を得ているのだと思う。

 同様に成田氏は「階級」という言葉の復権を認めるのに、やや躊躇されたけど、あとで会場から、今の若者(ロスジェネ以降)は、「階級」が手垢のついた言葉であることさえ知らないので、むしろ「階級」「資本家」「搾取」という言葉に素直に飛びつこうとしている、という趣旨の発言があった。80年代の断絶を乗り越えて、連続した戦後の歴史を、あらためて、全ての世代が共有する時期が来ているのかもしれない。その準備が整いつつあるのかもしれない、と思った。そのためには、ノスタルジーでない歴史が書かれなければいけない。レイトカマーの参与は、とっても重要なんじゃないかと思う。会場には若者の姿が多くて、頼もしかった。

 最後に成田龍一氏の発言。上野氏に煽られた面もあるけど、きっぱり言明された。歴史学は科学ではない。科学たろうとしたところに、戦後の歴史学の蹉跌がある。よく噛みしめながら、今夜は寝ます。

※『戦後日本スタディーズ』感想
第1巻:40・50年代第2巻:60・70年代第3巻:80・90年代
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする