○高橋源一郎『国民のコトバ』 毎日新聞社 2013.3
小説家である著者は、よく考えてみると、書いてる時間より読んでいる時間のほうがずっと長く、書くより読む方が大好きだという。ずっと日本語を使い、日本語を読み続けてきたわたし(著者)は「ある日、自分が常軌を逸して、このことばが好きだということに」気づく。分かる分かる。私も、著者同様の「読むこと」好きだ。実は、この1週間、職場異動+引っ越しで、ほとんど「活字を読む」時間がなくて、気が狂いそうだった。歓迎会の嵐はありがたいのだが、2時間くらい他人と喋って酒を飲んでいると、ああ、活字が読みたい、という気持ちが、じわじわ腹の底から湧いてきて、抑えることができない。
そして、一般に読書家とか活字中毒というと、小説好きとイコールのように考えられがちだが、読む楽しみは、別に小説に限らない。日本語で書かれた「おもしろいもの」はたくさんある、という著者の意見に、私は大いに共感した。
では、具体的におもしろい読みものとは、どんなものか。本書を立ち読みしたときは、「漢な」ことば(ギャル男系と一線を画す、メンズファッション誌「Mens' KNUCKLE」を読む)、「VERYな」ことば(30代前半の高収入既婚女性をターゲットにした雑誌「VERY」を読む)、「人工頭脳な」ことば(iPhoneに搭載されたSiriを体験する)など、単純に笑える章が目について、思わず買ってしまった。
しかし、本書には、けっこう心を打たれる日本語も紹介されている。「ケセンな」ことばという一章は、大船渡市出身の医師、山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんによる『イエスの言葉 ケセン語訳』を紹介したものだ。私はこの本を見かけたとき、また東北ブームに乗ったくだらない企画を…と思って、中を見ようともしなかったが、本書の引用を読んで、完全に考えを改めた。ケセン語ふうに言えば「心ォ切り換ァで」というところだ。聖書には「悔い改めて福音を信じなさい」という一節があるが、山浦さんによれば、原典のギリシャ語の動詞「メタノエオー」は「考えを切り換える」の意味で、日本語の「悔いる」とは、ニュアンスが異なるという。ケセン語訳聖書とは、単に表面の言葉を、おもしろおかしい気仙沼方言に置き換えたものではなく、山浦さんの聖書研究の成果が生かされているのだ。
「クロウドな」ことばも、最初の「?」な印象を裏切って、どんどん引き込まれ、ついには泣かされてしまった。俳優・真木蔵人のエッセイの紹介。もちろん原本の文章がいいのだが、著者の紹介もうまい。注目すべき箇所を太字ゴチックにしてあるのだが、目のつけどころが、いちいちツボにはまる。さすが作家だと思う。
あと「(石坂)洋次郎な」ことば、「相田みつをな」ことば、「こどもな」ことば、と並べてみると、著者の志向する「おもしろい=美しい日本語」というのが、まぶしく純粋なことばであることが見えてくる。「棒立ちな」ことば(現代短歌)、「幻聴妄想な」ことば(「こころの病」をもつ人たちのことば)も同じだ。どの章にも、私は笑いながら、同時に深い感銘を受けた。実際に呼んでみてほしいので、詳しいことはあえて書かない。
巻末に「おまけ」として設けられた「(日本の)政治家の文章」。そのスカスカした貧しさは、上記の対極に当たるものだ。悲しくなったら、オビの裏側に記されたコピーで口直しをしよう。「あなたが誰かを好きになったとしたら、それはたぶん、その人の中に住んでいる、この国のことばが好きになったのですよ。ほんとに。」
小説家である著者は、よく考えてみると、書いてる時間より読んでいる時間のほうがずっと長く、書くより読む方が大好きだという。ずっと日本語を使い、日本語を読み続けてきたわたし(著者)は「ある日、自分が常軌を逸して、このことばが好きだということに」気づく。分かる分かる。私も、著者同様の「読むこと」好きだ。実は、この1週間、職場異動+引っ越しで、ほとんど「活字を読む」時間がなくて、気が狂いそうだった。歓迎会の嵐はありがたいのだが、2時間くらい他人と喋って酒を飲んでいると、ああ、活字が読みたい、という気持ちが、じわじわ腹の底から湧いてきて、抑えることができない。
そして、一般に読書家とか活字中毒というと、小説好きとイコールのように考えられがちだが、読む楽しみは、別に小説に限らない。日本語で書かれた「おもしろいもの」はたくさんある、という著者の意見に、私は大いに共感した。
では、具体的におもしろい読みものとは、どんなものか。本書を立ち読みしたときは、「漢な」ことば(ギャル男系と一線を画す、メンズファッション誌「Mens' KNUCKLE」を読む)、「VERYな」ことば(30代前半の高収入既婚女性をターゲットにした雑誌「VERY」を読む)、「人工頭脳な」ことば(iPhoneに搭載されたSiriを体験する)など、単純に笑える章が目について、思わず買ってしまった。
しかし、本書には、けっこう心を打たれる日本語も紹介されている。「ケセンな」ことばという一章は、大船渡市出身の医師、山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんによる『イエスの言葉 ケセン語訳』を紹介したものだ。私はこの本を見かけたとき、また東北ブームに乗ったくだらない企画を…と思って、中を見ようともしなかったが、本書の引用を読んで、完全に考えを改めた。ケセン語ふうに言えば「心ォ切り換ァで」というところだ。聖書には「悔い改めて福音を信じなさい」という一節があるが、山浦さんによれば、原典のギリシャ語の動詞「メタノエオー」は「考えを切り換える」の意味で、日本語の「悔いる」とは、ニュアンスが異なるという。ケセン語訳聖書とは、単に表面の言葉を、おもしろおかしい気仙沼方言に置き換えたものではなく、山浦さんの聖書研究の成果が生かされているのだ。
「クロウドな」ことばも、最初の「?」な印象を裏切って、どんどん引き込まれ、ついには泣かされてしまった。俳優・真木蔵人のエッセイの紹介。もちろん原本の文章がいいのだが、著者の紹介もうまい。注目すべき箇所を太字ゴチックにしてあるのだが、目のつけどころが、いちいちツボにはまる。さすが作家だと思う。
あと「(石坂)洋次郎な」ことば、「相田みつをな」ことば、「こどもな」ことば、と並べてみると、著者の志向する「おもしろい=美しい日本語」というのが、まぶしく純粋なことばであることが見えてくる。「棒立ちな」ことば(現代短歌)、「幻聴妄想な」ことば(「こころの病」をもつ人たちのことば)も同じだ。どの章にも、私は笑いながら、同時に深い感銘を受けた。実際に呼んでみてほしいので、詳しいことはあえて書かない。
巻末に「おまけ」として設けられた「(日本の)政治家の文章」。そのスカスカした貧しさは、上記の対極に当たるものだ。悲しくなったら、オビの裏側に記されたコピーで口直しをしよう。「あなたが誰かを好きになったとしたら、それはたぶん、その人の中に住んでいる、この国のことばが好きになったのですよ。ほんとに。」