○大澤真幸、姜尚中『日本人が70年間一度も考えなかったこと:戦争と正義』(大澤真幸THINKING[0/オー]013) 左右社 2015.11
年末なので、都心の大きな書店に行ってみると、いろいろ珍しい本を見つける。というか、地方都市に暮らしていると書籍の流通って不十分だなあ、ということを痛感した。本書は、2010年4月に創刊された大澤真幸さんの個人思想雑誌の13号にあたる。
はじめに2015年8月14日に行われた姜尚中氏との対談を収める。国会ではまさに安保法案の審議(あれが審議と呼べるならば)が行われていた時期。対談のテーマは敗戦と憲法九条に集中している。ただし、二人の立場に大きな隔たりはないので、大澤真幸のモノローグに近い感じがする。対談のあと、二人で安倍総理の談話を聞いたそうだが、その感想は本書にない。それから、参議院で安保法案が可決された直後に執筆したという大澤真幸の論文一編を収める。これも主題は憲法九条である。
著者は九条削除論に反対する。それは九条が敗戦の教訓のほとんど唯一の痕跡だからである。日本人は敗戦の事実を否認し、その意味を十分思考してこなかった。もし九条を削除してしまえば、日本人はますます完全に敗戦を無効化してしまうだろう。
敗戦の否認には二面性があって、対アジア(中国、韓国、北朝鮮)に関しては、きわめて単純な拒絶である。だから、これらの国々が戦勝国として振舞うと一部の日本人は激怒する。対アメリカに関しては、さすがに「お前に負けたつもりはない」とは言えないが、アメリカを救世主とみなすことで敗北を否認している(何から救済してくれたのかは曖昧である)。しかし、これは「アメリカは日本に好意を持っている」という前提がなければ成立しない。うう、面倒くさいなあ。空想癖の抜けない小娘の脳内恋愛みたいだ。
情けないのは政権側ばかりではない。九条を守りたいリベラル側も、日米関係は不問にしたいと著者らは指摘する。最大野党の民主党もアメリカにフラれたくないと思っている点は同じ。だから両者の議論は、急所を外しながらのボクシングでしかない。これはたぶん当たっている。そして護憲派は、日本人の血を流したくないとか、喧嘩に巻き込まれたくないという利己主義を唱える者になってしまった。社民党の失墜は「国民が護憲の自己欺瞞に付いていけなくなったから」って、姜氏もはっきり言ってしまっている。
著者らは、この状況を変えるために、リベラル側が日米関係について抜本的に再考しなくてはならないと指摘する。沖縄に基地がなくてもいいと言えるのか。日米安保に頼らない平和と安全保障の選択肢はあるのか。アメリカと同盟していなければ平和はない、というのは標準的なリアリズムだが、「どうせ日本にできるのはここまでだ」という認識だけでよいのか。この夏、イランと西側主要国の核問題協議に努力したドイツの外交を例にあげて、政治の価値とは「不可能だと思われていたことが実は可能だということを人々に確信させることにあるのではないでしょうか」と論じているのが印象的だった。
著者は一種の思考実験として、たとえば積極的中立主義というものを構想し、提案する。A国とB国が紛争状態にあるとき、どちらにも加担しないという従来の中立主義ではなくて、どちらも援助する(ただし非軍事的なものに限って)というアイディアである。政治をリアリズムで考える人からは一笑に付されるかもしれない。でも政治は、どこかでリアリズムを越えたものと接続していなければならないんじゃないかと思う。
本書でも何度か言及されているカントの「永遠平和」論について、初めて聞いたときは馬鹿馬鹿しくて呆れてしまった。正直、哲学者の空理空論だと思った。しかし、このアイディアが参照され続けるのは、やっぱりそこに実質的な意味があるからだろう。我が国の憲法九条も、著者のいうように、放棄するのではなく、むしろ欺瞞から解放し純化することによって真価を高めることができるのではないかと思う。
年末なので、都心の大きな書店に行ってみると、いろいろ珍しい本を見つける。というか、地方都市に暮らしていると書籍の流通って不十分だなあ、ということを痛感した。本書は、2010年4月に創刊された大澤真幸さんの個人思想雑誌の13号にあたる。
はじめに2015年8月14日に行われた姜尚中氏との対談を収める。国会ではまさに安保法案の審議(あれが審議と呼べるならば)が行われていた時期。対談のテーマは敗戦と憲法九条に集中している。ただし、二人の立場に大きな隔たりはないので、大澤真幸のモノローグに近い感じがする。対談のあと、二人で安倍総理の談話を聞いたそうだが、その感想は本書にない。それから、参議院で安保法案が可決された直後に執筆したという大澤真幸の論文一編を収める。これも主題は憲法九条である。
著者は九条削除論に反対する。それは九条が敗戦の教訓のほとんど唯一の痕跡だからである。日本人は敗戦の事実を否認し、その意味を十分思考してこなかった。もし九条を削除してしまえば、日本人はますます完全に敗戦を無効化してしまうだろう。
敗戦の否認には二面性があって、対アジア(中国、韓国、北朝鮮)に関しては、きわめて単純な拒絶である。だから、これらの国々が戦勝国として振舞うと一部の日本人は激怒する。対アメリカに関しては、さすがに「お前に負けたつもりはない」とは言えないが、アメリカを救世主とみなすことで敗北を否認している(何から救済してくれたのかは曖昧である)。しかし、これは「アメリカは日本に好意を持っている」という前提がなければ成立しない。うう、面倒くさいなあ。空想癖の抜けない小娘の脳内恋愛みたいだ。
情けないのは政権側ばかりではない。九条を守りたいリベラル側も、日米関係は不問にしたいと著者らは指摘する。最大野党の民主党もアメリカにフラれたくないと思っている点は同じ。だから両者の議論は、急所を外しながらのボクシングでしかない。これはたぶん当たっている。そして護憲派は、日本人の血を流したくないとか、喧嘩に巻き込まれたくないという利己主義を唱える者になってしまった。社民党の失墜は「国民が護憲の自己欺瞞に付いていけなくなったから」って、姜氏もはっきり言ってしまっている。
著者らは、この状況を変えるために、リベラル側が日米関係について抜本的に再考しなくてはならないと指摘する。沖縄に基地がなくてもいいと言えるのか。日米安保に頼らない平和と安全保障の選択肢はあるのか。アメリカと同盟していなければ平和はない、というのは標準的なリアリズムだが、「どうせ日本にできるのはここまでだ」という認識だけでよいのか。この夏、イランと西側主要国の核問題協議に努力したドイツの外交を例にあげて、政治の価値とは「不可能だと思われていたことが実は可能だということを人々に確信させることにあるのではないでしょうか」と論じているのが印象的だった。
著者は一種の思考実験として、たとえば積極的中立主義というものを構想し、提案する。A国とB国が紛争状態にあるとき、どちらにも加担しないという従来の中立主義ではなくて、どちらも援助する(ただし非軍事的なものに限って)というアイディアである。政治をリアリズムで考える人からは一笑に付されるかもしれない。でも政治は、どこかでリアリズムを越えたものと接続していなければならないんじゃないかと思う。
本書でも何度か言及されているカントの「永遠平和」論について、初めて聞いたときは馬鹿馬鹿しくて呆れてしまった。正直、哲学者の空理空論だと思った。しかし、このアイディアが参照され続けるのは、やっぱりそこに実質的な意味があるからだろう。我が国の憲法九条も、著者のいうように、放棄するのではなく、むしろ欺瞞から解放し純化することによって真価を高めることができるのではないかと思う。